◎絞首刑でなく銃殺刑にしてほしかった(ベルトホルト夫人)
大晦日が近づいてくると、いろいろと、やり残したことが思い浮かんで、何となく落ち着かない気分になる。このブログに関して言えば、二〇一五年五月一日に書いた〝A級戦犯の死刑執行に、なぜ「絞首刑」が選ばれたのか〟というコラムに、補足をおこなう必要があると気づいてから、半年近く経ったが、いまだに果していない。
その「補足」というのは、A級戦犯を絞首刑にしたのは、あえて「銃殺刑」にしなかったところに意味があるのではないか、ということを指摘しておくことである。
このことは、映画『ニュールンベルグ裁判』(ユナイテッド・アーチスト、一九六一)を、何度目かに観ていて、気づいたことである。この映画では、自分の夫がニュールンベルグ裁判で死刑にされたベルトホルト夫人(マリーネ・ディートリッヒ)が、ニュールンベルグ継続裁判のためにやってきたダン・ヘイウッド判事(スペンサー・トレイシー)に対し、静かな口調で抗議する場面がある。その抗議の趣旨は、ひとつは、夫が身に覚えのない罪で死刑にされたことであり、もうひとつは、軍人にふさわしく「銃殺刑」にしてほしかったのに「絞首刑」にされたということであった。
一昨日、その場面をDVDで確認してみた。ベルトホルト夫人は、たしかに、そのように述べている。しかも意外だったのは、夫人の怒りは、夫が身に覚えのない罪で死刑にされたことに対するものより、夫が軍人にふさわしくない絞首刑にされたことに対するもののほうが、激しいように見てとれたことである。
夫人が、絞首刑に抗議している場面は、映画の開始から一時間五七分ほど経ったあたりに出てくるので、今後、この映画を鑑賞される方は、できれば注意していただければと思う。
それはともかく、ここで補足したかったことは、東京裁判でA級戦犯を「絞首刑」にしたのは、軍人に対し(死刑になったA級戦犯は、広田弘毅以外は、すべて陸軍軍人)、あえて「銃殺刑」を選ばなかった可能性があること、そしてこれは、ニュールンベルグ裁判の先例を踏まえている可能性があること、このふたつであった。なお、『ニュールンベルグ裁判』という映画は、あくもでもフィクションであり、ベルトホルト夫人やヘイウッド判事は実在の人物ではないことを、ひとこと申し添えておく。
ところで、一昨日、この映画を観ているうちに、この映画の捉え方が変わってきた。以前、観たときは、この映画を、エルンスト・ヤニング被告(バート・ランカスター)とダン・ヘイウッド判事との対決という構図で捉えていた。当ブログの〝映画『ニュールンベルグ裁判』のテーマは「忖度」〟と題したコラム(二〇一七年一〇月二六日)は、そうした捉え方に立って、この映画を論じたものである。しかし、一昨日、この映画を観たあと、この映画は、実は、ベルトホルト夫人とダン・ヘイウッド判事との対決という構図で捉えるべきではないか、と考えなおした。このことについては、いずれ、ゆっくりと論じてみたい。それにしても、ベルトホルト夫人を演じたマリーネ・ディートリッヒの演技はすばらしい。完全に「主役」(スペンサー・トレイシー)を喰っている。