礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

女流小説家にして男まさりの大和心を持つてゐる

2024-12-28 03:04:39 | コラムと名言
◎女流小説家にして男まさりの大和心を持つてゐる

『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、島津久基の講演「紫式部の芸術を憶ふ」を紹介している。
 本日は、その二回目(最後)。298ページ1行目から307ページ13行目までを割愛し、講演の最後の部分、すなわち307ページ14行目から309ページまでを紹介する。

 最後に私は又別の角度から観た一事を申上げて見たいと思ひます。源氏物語の中で、冷泉院〈レイゼイイン〉の御代〈ミヨ〉に前斎宮〈ゼンサイグウ〉の梅壺の女御〈ニョウゴ〉が中宮〈チュウグウ〉にお立ちになるところがあります。その巻――少女の巻に
  源氏のうちしきりに后に居給はむこと、世の人ゆるし聞えず、弘徽殿の先づ先に参りし給ひしにも如何など、うちうちに此方彼方に心寄せ聞ゆる人々覚束ながり聞ゆ
とありまして、藤原氏の権勢に諂る〈オモネル〉世人が不満であつたと書いてあるのであります。弘徽殿〈コキデン〉女御は即ち藤原氏の女、そして梅壺は先の皇太子の妃六条御息所〈ミヤスドコロ〉の御腹〈オハラ〉で、尊き御血統なのであります。又これより前の桐壺帝の御代には藤壺女御が同じく藤氏〈トウシ〉の弘徽殿女御を超えて、中宮に御立ちになります。これは先帝の第四皇女にましますのであります。それから冷泉院の次の御代には明石姫〈アカシノヒメ〉即ち桐壺女御が藤氏を圧して中宮になつて居られます。これは光源氏の姫でやはり皇胤でいらつしやる。即ち源氏物語の中で中宮にお立ちになるのは御三方でありますが、それがいづれも皇室の御系統で、藤原氏から皇后や中宮に立たれる記事は源氏物語には一回も無いのであります。朱雀院〈スザクイン〉の御母女御弘徽殿が朱雀院御即位の後、皇太后になられたのは当然で、それ以外はじめから中宮に立たれた藤氏は一人も書かれないのであります。こゝです、私の申したいのは‥‥‥‥‥‥。望月の欠けたることもなしと言つたあの御堂関白〈ミドウカンパク〉の時代、正に藤原氏の全盛時代、さうして事実に於いては藤原氏の皇后や中宮が立つておいでになる其の御代に、仮令〈タトイ〉物前小説であらうとも、斯う云ふ風に藤原氏の人が立たれずに、皇室系統の方々だけが中宮にお立ちになるやうに敢然と書いたのは実に考へさせられるのであります。なかなか尋常では出来ぬことであると思ひます。これは古人では近藤芳樹〈コンドウ・ヨシキ〉といふ学者に既に着目されてゐる所でありますが、私の特に申したいのは、あの時代、而も藤氏の圧倒的勢力を代表した御堂関白の権栄の下にあつて、其の御堂関白の御女〈オンムスメ〉に当られる上東門院〈ジョウトウモンイン〉にお宮仕〈ミヤヅカエ〉をして居る一女性紫式部が、斯うした皇室絶対尊重の筆を執つて居ると云ふこと、是はなかなかの勇気と信念が無ければ出来ることではありませぬ。真の勇気ある人間でなければ出来ませぬ。真の尊皇者でなければ出来ませぬ。清少納言が漢学の知識をひけらかして、男をやつつけて痛快がるのとは天地の懸隔であります。此の意味に於ける限り、紫式部はたゞに才媛であるのみでなく、立派な忠臣であり、女性英雄であります。此の信念と此の勇気。権門に屈せず恐れず、自分の皇室絶対尊重の主義を敢然として小説に書いて居る。而もそれは御堂関白も、藤原氏の一門も読んだに違ひありませぬが、面白いからそれに気が附かなかつたのでせうか。そこが又芸術天才としての紫式部の手腕でもあると言へませう。此の信念と此の勇気とがあればこそ五十四帖の宇宙不朽の大芸術を成し遂げたのである。やはり雄々しい大和心の持主でありました。而も表面はあくまでもしとやかな柔和なつゝましい女性として終始した所に日本婦人の典型を見出すのであります。元来平安時代は貴族時代と言はれて居りますが、皇室中心主義の時代である点では、江戸時代の平民文学などとは較べ物にならぬことは御承知の通りであります。皇室の尊貴を心から畏み〈カシコミ〉、大宮に仕へ奉る有難さを感激して居た時代であります。世に男女の物語を取扱つた単なる女流小説家として目せられがちな紫式部にして、なほ且つ此の男まさりの尊い大和心を持つてゐることは怪しむを要せぬと同時に、我等の意を強うせしむるに足るのであります。我等は決して単に古い斯ういふ国文学の佳品に満足して居て宜いと申すのではありませぬ。我等の祖先の此の偉大なる芸術に訓へられ感奮〈カンプン〉せしめられて、神の国日本、武の国日本と共に文の国日本をしても、こゝに新しく世界に宣揚せしめなければならない為に、国民が努力すべきことを、より高き、より傑れた芸術の生れ出ることを、祈るや切であり、其の為に一千年前に斯うした誇を持つ我が国であると云ふことの確信を一層強めたいが故に、思ひを遠き昔の祖先芸術家の上に馳せ〈ハセ〉て、その天才芸術を偲ばうとするのであります。
 終りに臨みまして、明月記の京極中納言定家卿が源氏物語に対して讃した「之を仰げば弥〻〈イヨイヨ〉高く、之を鑽れば〈キレバ〉弥〻堅し」と云ふ古言をそのまゝ、そしてそれに最後に私のした意味の希望念願を籠めて、茲に私の結びの言葉として紫式部の芸術に捧げたいと思ふのであります。〈307~309ページ〉

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