◎草壁久四郎による映画『抵抗』の紙上試写会
『サンデー毎日』特別号「六十五人の死刑囚」(一九五七年九月)から、杠国義執筆「天国の鍵を捜す男」を紹介してきた。
ところで同誌同号には、「映画に現われた死刑囚」という興味深い文章が載っている。書いているのは、当時、『サンデー毎日』の編集部にいた草壁久四郎(くさかべ・きゅうしろう)である。
草壁はのちに、国際的な映画評論家として知られるようになるが、この文章を読むと、すでに、その映画通ぶりが顕著にあらわれている。フランス映画『抵抗』(一九五七)を紹介している部分を中心に、この文章を引用してみたい。
映画に現われた死刑囚
「少年死刑囚」「暗黒への転落」「死刑囚2455号」「抵抗」など
草壁久四郎
最近、日本で上映されたフランス映画 「抵抗」というのが映画ファンの間で大きな話題になった。この映画はナチスの占領政策に〝抵抗〟したため、捕えられ投獄されたフランスの若い青年が、生を求めて脱獄を計画、三ヵ月目の死刑の前日に、やっと脱獄に成功したという、その実話にもとづいて作られた映画だ。その脱獄の経過の迫力ある描写がかつてないほどの迫真力をもった映画となったというもっぱらの評判である。つまりここに描かれた死刑囚の生へのはげしい執着と行為が、観客に強くアッピールしたというわけだ。こうした死刑囚を主人公にした映画は、それが特異な状況におかれているだけに、そのままドラマチックで、とくにその死刑囚が生への執着をはげしく感じているという場合、これは映画にうってつけの題材になる。そこでこれまで内外ともにこの死刑囚を主人公にした映画が、かなり製作され公開されている。われわれの記憶に新しいところで、こうした作品をあげてみるとしよう。まず日本映画では「死刑囚の勝利」(新東宝)「愛は降る星のかなたに」(日活)「少年死刑囚」(日活)「真昼の暗黒」(近代プロ)「モンテンルパ・望郷の歌」(重宗プロ)「叛乱」(新東宝)「愛と憎しみの彼方に」(東宝)といったところが戦後では主な作品。なお女囚だけの生活を描いた異色篇に「女囚とともに」(東宝)がある。また日活では「二人の死刑囚」を製作中である。一方外国映画では「死刑囚二四五五号」「死刑五分前」「死刑か裏切りか」「暗黒への転落」「汚れた顔の天使」「必死の逃亡者」(以上いずれもアメリカ映画)「無防備都市」(イタリア)「アウシュヴィッツの女囚たち」(チェッコ)「埋れた青春」(フランス)などがあるが、内外ともにその数は、映画の製作本数からいうと、僅かなパーセンテージでしかないようだ。ギャング映画の本家であるアメリカでは、やはりさすがにそうしたギャングもののなかに、死刑囚がしばしば登場するが、これも全体からみるとその数はきわめてすくない。
ところでこれらの死刑囚を扱った映画は、どんな内容をもっているのだろうか。試みに前記のそれぞれの作品のあらましをのぞいてみるとしよう。
日本もので異色ある「少年死刑囚」【略】
アメリカ映画に多いギャング調のもの【略】
自伝映画化の「死刑囚二四五五号」【略】
映画作品としても群を抜く「抵抗」
ところで話題をよんだフランス映画「抵抗」とはどんな映画なのか、そのあらましを紹介することにしよう。この映画はフランスでの原題を「一死刑囚脱獄す」あるいは「風は好む処に吹く」とあるように、一人の死刑囚が脱獄するまでの行為を描いた作品であるが、ふつうの〝死刑囚〟映画とちがっているのは、その主人公の死刑囚か殺人強盗といった、いわゆる凶悪犯ではなく、ナチスの占領下で独軍に抵抗したレジスタンス犯、つまり一種の政治犯の死刑囚であることだ。またこの映画のトップタイトルに「この物語は真実である。私はこれになんの粉飾も加えず、ありのままに物語る」と監督の言葉にあるように、アンドレ・ドヴィニイというフランスのもと軍人の手記にもとづいた映画であるが、それが、ことしのカンヌ映画祭でグランプリを受賞したのをきっかけに、世界各国で公開され大きな反響をまきおこしている。これには二つの理由がある。そのひとつはもちろん実話にもとづくこの映画の内容と真実性が観客に強くアッビールしたということ、そしていまひとつは、このロベエル・ブレッソンという監督が、その十五年の監督生活中この映画をいれて僅か四本の作品しか作っていないという寡作主義の、それもきわめて異色作のみを作ってきた、フランス映画でも注目すべき映画作家の作品であるという点にあるようだ。その作品はまったく独自な表現形式を用いて、つねに(といってもわずか四本だが)その作品が全世界の映画界に大きな衝撃を与える役目を果しているということもある。もちろんこの「抵抗」も、ふつうの映画とはちがっている。それは一般の死刑囚や脱獄をテーマとした映画では、その主人公の脱獄をめぐって、それを阻む看守との相克や外部とのつながりなどを興味本位に追っていわゆる波乱の多い物語にするのが定石だ。しかしこの映画ではただ主人公の死刑囚が、脱獄という目的を達するまでの四ヵ月にわたる慎重な準備と脱獄の行為を詳細に描写するだけで、他のいわゆる劇的なストーリイは一切排除している。
つまりふつうのこの種の映画の定石を全く破った内容と、またその表現方法が特異で一種の実験映画的な意味をもっている。そうしたことが、この映画の評判をいやがうえにも高くしているというわけだ。
これを見のがした読者のためにこの映画の誌上試写会を試みるとしよう。
タイトルが終るといきなり走る自動車の内部で、膝の上におかれた左手の小指が、そっとドアの把手に伸び、ドアに鍵がかかっていないことをたしかめる。この手の若い男は、いまレジスタンスの罪で監獄に護送されているフォンテーヌという中尉、彼の傍には手錠をはめられた二人のおなじ囚人がいる。フォンテーヌ中尉はすきをみて車外へ飛出しのがれようとするが忽ち捕えられ、やがて連れ込まれた監獄の拷問室でドイツ兵に半殺しにされ、手錠をはめられ、人事不省のまま独房に投込まれる。ここがこの映画の発端になる。独房は幅三米〈メートル〉、奥行二米の上部に鉄格子の小さな窓があるだけだ。しかし彼はその窓の下に足がかりになる石の棚を発見、ここに上ると窓から中庭が見下される。そしてその中庭に折から三人の囚人が歩いていて、その中の一人が窓ごしにフォンテーヌに呼びかける。それがきっかけでその男の連絡で、囚人独特の法で安全ピンた安全剃刀やハンカチを手に入れた。もちろん厳重な監視の目をくぐりながら、鉄格子の中と、内庭との間でこの連絡は行われるわけだ。まず安全ピンで彼は手錠を外した。そこで初めて彼は脱獄を計画、その日から脱獄への行為が始められるわけである。一日一回、排泄物を捨てに出るとき、彼は同じ同志が死刑という運命を背負って暗い陽〈ヒ〉の当らぬ独房で青白く細々と生きている姿をみる。しかし彼の脱獄への意志はかわらない。ほどなく彼は最上階の独房に移される。このため中庭の散歩者との連絡は出来なくなるが、脱獄への準備をはじめる。フォンテーヌは独房のドアの厚い羽目板のあいだに、別のやわらかい木材がつめてあることを知ると、そのハメ木を除けば羽目板もはずれるに違いないとみて、それをまず第一の脱出手段にすべく計画する。そのため彼は食事に使う鉄製のスプーンをまんまとごまかして手に入れる。スプーンの柄を土間のコンクリートでといで、ハメ木を削りはじめる。ときおり回って来る看守の目をごまかすために、削り屑は空カンに入れ、削いだ〈ソイダ〉あとは鉛筆で黒く汚しておくという慎重さだ。それも一日に僅かしか削れない。この描写がえんえんとつづくわけだが、演出の特異さが緊迫感をつよめているので殆ど退屈することはない。この努力は毎日つづけられ遂に目的の羽目板がとれ、そこから自由に脱け〈ヌケ〉出せる見込みがついた。第一段階はこれでまず成功だ。しかしこの間にもつぎつぎと仲間が銃殺されてゆく機銃の音がきこえて来る。きょうあすにも自分の身に迫るその死の足音をききながら、この死刑囚はただ脱獄のための小さな行為をつみ重ねてゆくわけだ。このフォンテーヌの脱獄の計画は仲間のあいだにも知れているとみえ、洗面のとき会うと彼を励ます人もいる。そしてその一人がある日、鉄の鈎〈カギ〉をくれた。この鉄の鈎こそは脱出して塀や屋根に上るとき、ぜひ必要な道具である。彼はこれで脱獄の可能性がやや増したことを知る。もちろん監視の眼がきびしいので、こうしたものを隠すのも命がけだ。これに勇気を得て、こんどは鈎につける綱の作成にかかる。そのため にはベッドの布や、金網など利用できるものは全部利用した。その頃、同じ仲間が脱獄に失敗して銃殺された。その銃声が彼の耳を通して心の中にひびきわたる。しかし彼は失望もしないし、あきらめようともしない。いずれにしてもやがては死刑囚として銃殺される身だと知っているからだろう。鉄の鈎と頑丈なロープ、すべての脱獄準備が整ったとき意外なことが起きた。それは囚人が多くなって、彼の独房にも一人のドイツ軍の服装をした若い脱走兵がいれられたからだ。知られてはすべては終り。二ヵ月余りにわたった脱獄の計画も水泡に帰する。そこで彼はこの男を殺すか、仲間に引込むか二つに一つを選ぶ羽目に追い込まれる。そして後者を選んで思い切って打明けると、若い脱走兵は今いちど母親に会うために同意する。このあたりこの映画ではめずらしくサスペンスがもり上る。そして脱出のチャンスが来る、二人は長い間かかって用意した七つ道具をかついで、看守のすきをみて、先ず独房を脱け出し屋根に這い上った。このあたりから映画は異常な迫力をもって、文字通り手に汗をにぎるような緊迫感を感じる。屋根から外へ通じる通路へ下りようとすると、下には夜警のドイツ兵が立っている。この警備兵を殺さないとここを通過できない。二人ともかれを殺す勇気はない。しかし思い切ってフォンテーヌが背後から襲いかかって絞殺して第二の難関を突破。別棟の壁を上ると、こんどは最後の難関である外塀との道を越さねばならない。ところがこんどはその道を警備のドイツ兵が自転車で巡回するため、道をこせない。壁の上で二人は思い悩む。そのうち夜か白みはじめる。自転車の警備兵は休みなく自転車のキシム音をひびかせて回ってくる。遂に最後の手段として鈎をつけた綱を向い側の塀にひっかけ、ドイツ兵が回ってくるすきに、綱にぶら下って死ぬ思いで塀にたどりつき、ようやくにして脱獄に成功する。このラストの綱渡りのあたりでこの映画はサスペンスの最高潮に達し、やがて暁の中に消え去る二人とともに映画は終る。
以上のあらすじでもわかるように、この映画にはふつうの映画に欠かせないとされている一つの物語りも劇もなく、筋もない。ただ脱出の描写に終始している。それも殆どきまった行為の連続と繰り返しのみだ。それでいながら他の映画にみられないような高い真実性と、映画的な充実感をもって観客の心に迫ってくるところが、この映画のすぐれた点であろう。とにかく死刑囚を扱った映画としても、独自の内容と、また映画作品としての高さをもった作品である。 (本誌編集部)
※追記 この記事を書いたあと、同映画のDVDを入手し、鑑賞しました その印象などについては、2021年3月3日の記事「フランス映画『抵抗』(1957)を鑑賞した」をご覧ください。
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