◎吉田甲子太郎がアイデアを提供した可能性はないか
昨日の話に補足する。
山本有三の『真実一路』(初出、一九三五年一月から一九三六年九月)のラストと、吉田甲子太郎の「一マイル競走」(初出、一九四六年六月)が、その設定において酷似していることは明らかである。しかし、だからといって、吉田甲子太郎が、山本有三の『真実一路』をヒントにして、「一マイル競走」を書いたと断定することはできない、と思われた方もあったことだろう。
その通りである。実は私も、次のような、いくつかの想定をしなかったわけではない。
1 山本有三は、『真実一路』のラストを書く以前、レスリー・M・カークの「一マイル競走」を読んだ。山本から、そのことを教えられていた吉田甲子太郎は、あとになって、「一マイル競走」という話を書いた。
2 山本有三が『真実一路』のラストを書くよりも前に、吉田甲子太郎は、レスリー・M・カークの「一マイル競走」を読んだ。そして吉田は、そのアイデアを山本有三に提供した。
3 山本有三と吉田甲子太郎とが、それぞれ独立に、レスリー・M・カークの「一マイル競走」を読み、山本は、そのアイデアを『真実一路』のラストに活かし、吉田は、そのアイデアを「一マイル競走」に活かした。
1~3の当否を考えようとするならば、山本有三と吉田甲子太郎との関係について知っておかなければならない。ウィキペディア「吉田甲子太郎」の項には、次のようにある。
吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年3月23日 - 1957年1月8日)は、日本の翻訳家、英文学者、児童文学者。群馬県生まれ。早稲田大学英文科卒。在学中より山本有三に師事、朝日壮吉などの筆名を用い、中学教師のかたわら、『新青年』などに探偵小説を翻訳するが、1927年ころから児童文学に移行し、少年小説を書く。1932年、新設された明治大学文藝科で、科長となった山本の推薦で教授となる。戦後は児童雑誌『銀河』に携わる。弁護士で明治大学理事長の吉田三市郎〈サンイチロウ〉は兄。
これを見ると、山本有三と吉田甲子太郎とは、『真実一路』以前から、深い師弟関係にあったと言えるだろう。だとすれば、上記の「3」は、まず、ありえない。
次に、「1」も考えにくい。なぜなら、もし「1」とすれば、自分の「一マイル競走」には、レスリー・エム・カークの「一マイル競走」という原作がある旨を記したとき(一九四六年六月の初出時)、吉田は、この原作については、山本有三先生のご教示に預かったなどと記したはずだからである。
そうすると、これらのうちでありうるのは、「2」ということになる。その可能性を否定するものではないが、レスリー・エム・カークという「アメリカの児童文学作家」の存在が証明できないうちは、「2」もまた、信じるわけにはいかない。
というわけで、今のところ私は、吉田甲子太郎の「一マイル競走」は、山本有三の『真実一路』のラストをヒントにして創作されたものであって、その原作が、アメリカの児童文学者レスリー・M・カークの「一マイル競走」というのは、全くの嘘(フィクション)だと捉えている次第である。
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