礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

我れ再び函嶺を越えず(田中光顕)

2018-03-27 03:31:57 | コラムと名言

◎我れ再び函嶺を越えず(田中光顕)

 月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

 私は、ある時田中〔光顕〕に向って西郷隆盛の話を聞いてみた。すると田中は「養徳」と二字書いた西郷の額を出して来て、
「これは僕が西郷に書いてもらったものだ。当代〝養徳〟の二字を書いて楣間〈ビカン〉に仰ぎ見ることのできる筆者は貴郎〈アナタ〉を措いて外にはないと言ったら、西郷は非常に謙遜して容易に筆を執らなかったが、僕の強って〈タッテ〉の懇望により遂にこれを揮毫してくれた。西郷とは維新前から薩摩屋敷で時々逢って懇意にしておったが豪い人だった。僕が何かの話のついでに、一度朱鞘〈シュザヤ〉の刀を差して見たいと言ったら、西郷がそれでは今度国へ帰ったら琉球朱〈リュウキュウシュ〉を持って来てやると言った。一年程たって私は忘れてしまったが、上洛した西が遥々〈ハルバル〉本国から上等の琉球朱を持参して来てくれたには驚いた。西南の役に私は陸軍会計監督長(少将担当官)として官軍に従軍したが、城山〈シロヤマ〉陥落後西郷、桐野〔利秋〕、村田〔新八〕等、生前知己の遺骸を見たが、実に感慨無量だった。桐野は維新前中村半次郎と称し、堂々たる偉丈夫で実に立派な武士だった」
 西郷と田中との間には、別に因縁の深い話がある。しかもそれが近藤勇〈イサミ〉に関係し、後には田中の一生に大きな影響を与え、宮中の大問題にまで発展したのだがら猶更面白い。それは京都を落ち延びた新選組が、官軍の江戸城入城によってさらに下総流山〈シモウサ・ナガレヤマ〉に走り、近藤勇は大久保大和と変名しておったが、顔見知りの加納金子雄〔ママ〕のために見破られて、官軍の手に捕えられ、越ケ谷〈コシガヤ〉の軍営所に曳かれて香川敬三の取調べを受けた。この時勇は昂然として、
「勝つ為の官軍か、まことの官軍か、仮令〈タトイ〉寃罪の名はきても、心に疾しいところが無ければ天地に俯仰〈フギョウ〉して恥ずるところはない。関東武士は死するにも生くるにも唯〈タダ〉義の為に働らくのじゃ。反覆常なく人を売り友を売って自から勤王の名を偸む〈ヌスム〉左様な西国武士の前に命惜しさに屈する膝は持たぬ。死生命あり、勝敗は兵家の常である。今となってまた何をか言わんや」と大喝した。香川は怒って勇を板橋の本営に送ったが、これを聞いた田中光顕は、その近藤の気概に敬服し、西郷に宛てて助命の依頼状を認め〈シタタメ〉、斯様〈カヨウ〉の人物は助けて置けばまた世の中の為にもなるであろう。是非寛大の処置をお願いすると書いて香川に托し、近藤の身柄と共に西郷に引渡すように頼んだ。ところが板橋の本営に曳かれた近藤は、二十数日後の慶応四年〔一八六八〕四月二十五日、そこの原中〈ハラナカ〉において斬首(享年三十五才)された。これを聞いた田中は早速西郷に逢って、自分が心を籠めて依頼したのに斬首とは気の毒だと話したら、西郷は全然田中の手紙のことは知らなかったので、それは惜しいことをしたと嘆息した。田中の手紙は途中で香川が破ってしまったのである。明治になってから田中は宮内大臣となり、香川は皇后宮大夫〈コウゴウグウダイブ〉となった。田中は心中香川を目して武士の情を知らぬ奴とさげすんでいた。この感情が香川に反影せぬ筈はない。二人の仲は自然犬猿であったが、偶々明治大帝〇御の日、田中が写真師を連れて来てその遺骸を撮影しようとしたところ、香川は真向から反対した。
「生前あれ程写真というものがお嫌いだった陛下が、今崩御せられるとすぐそのお嫌いな写真を撮るというのは、不忠も甚だしいものである」と罵った。実際明治天皇の写真嫌いは有名で、全国の学校等に頒布せられた御真影も、外国の肖像画家を招聘して、遠くカーテンの蔭から写生したものであった。田中は香川の説を反駁して、
「陛下の写真嫌いは生前のことである。既に崩御せられた御遺骸は陛下ではない。今日この時御遺影を写して置かなかったら、日本国民は、永久に明治天皇の御姿を偲ぶよすがを失うであろう」と力説し、双方激論して段々声が高くなった。そこで〔昭憲〕皇太后陛下が仲に入って、
「香川の言うところももっともであるが、また田中の言うところも道理である。しかし今陛下の崩御せられた枕辺で重臣が互いに相争うことは面白くない。これは自分に任せて欲しい」と言って、田中の連れて来た写真師を帰し、別に彫刻家岡崎雪声〈セッセイ〉を呼んで、後日銅像を造ることの出来るようにと命じ、寸法を計ったり、写生などさせた。明治大帝に殉死した乃木希典〈マレスケ〉も香川の説に賛成し、殉死の際に書いた遺書の中に君側の奸〈クンソクノカン〉云々とあったのは、それが暗に田中を指したものだという噂もあって、これに憤慨した田中は、我れ再び函嶺〔箱根山〕を越えずという訣別の詩を山県有朋に贈って岩淵の古渓荘に隠退した。田中は土州人で一徹なところがあり、言い出したことは中途で止めない。その後明治天皇の等身大の銅像を造ってこれを明治神宮の外苑に建てようとしたところ、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉の宮相時代宮内省が反対した。後に田中は私に語って、
「明治神宮外苑に明治天皇の銅像を建てようとしたら、宮内省で反対したが、その理由は神霊の尊厳を毀つける〈キズツケル〉というのだ。君そんな馬鹿なことがあるかね。銅像は神様じゃアない、明治天皇という人はこういうお姿の人だったかと、国民が仰ぎ見るのが何んで尊厳を毀つけるのだ。大体人間の身体などというものは、死んでしまえば仕方のないものだ。三日も置けばウジがわくよ。だから歴代天皇中には、粉葬を行なった為御陵のないものもあるくらいだ。それを写真を撮っては不忠になるという香川の議論なども根本から間違っている。銅像だってそうだ。ただ明治天皇の御姿を模した金属なんだよ。外国へ行ってみたまえ、モット人通りの多い繁華街に帝王の銅像が建ってるじゃアないか。明治天皇の銅像を建って悪いという規則はないのだから、僕は断乎として建設すると言ったら、また宮内省で大騒ぎになった。そこで不止得〈ヤムヲエズ〉水戸の常陽館〔常陽明治記念館〕にその銅像を安置することにしたが、先頃皇太后陛下〔貞明皇后〕がわざわざ常陽館にお立寄りになって、大層よく出来ているが、心持お顔がいかついように思われると仰っしゃって、よくやったと御賞め下すった。これで僕もやっと自分の念願が達したように思う」と述懐しておった。【以下、次回】

 若干、注釈する。文中、「加納金子雄」とあるのは、新撰組の元隊士・金子道之助(一八三九~一九〇二)のことであろう。
 また、「粉葬」とあるのは、今日の言葉で言えば「散骨葬」のことである。歴代天皇中、「粉葬」がおこなわれたのは、淳和〈ジュンナ〉天皇(七八六~八四〇)で、ほかには例がないらしい。淳和天皇は、みずからの葬儀に関し、「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔したという(インターネット情報による)。

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