礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

林逸郎弁護士と五・一五事件肯定論

2017-05-27 05:59:42 | コラムと名言

◎林逸郎弁護士と五・一五事件肯定論

 昭和期の弁護士で、林逸郎〈ハヤシ・イツロウ〉という人物がいる。今日、ほとんど話題にのぼらないが、ことによるとこれは研究に値する人物かもしれない。
 インターネットで、「林逸郎」を検索すると、3890件がヒットした(2017・5・26)。その筆頭に、コトバンクの解説がある。
 コトバンクのうち、「20世紀日本人名事典の解説」を引用させていただく。

林 逸郎 ハヤシ イツロウ 昭和期の弁護士
生年 明治25(1892)年9月5日
没年 昭和40(1965)年2月5日
出生地 岡山県
学歴〔年〕 東京帝大法学部〔大正9年〕卒
経歴 大正9年弁護士開業。東京第二弁護士会長、昭和37年日本弁護士連合会会長を務めた。この間、戦前には軍や右翼に顔が広く、井上日召らの血盟団事件、5.15事件、神兵隊事件、大本教事件など右翼関係の大事件の弁護を担当。戦後は極東軍事裁判で橋本欣五郎を弁護し、32年にはジラード事件の主任弁護人を務めた。また東条英機以下の「殉国七士の墓」建立にも尽力した。著書に「敗者」など。

 この短い説明を読んだだけでも、かつては、かなり活躍した弁護士、あるいは、かなり政治色の強い弁護士であったことがわかる。ウィキペディアに「林逸郎」の項がないのは不思議である。
 さて、上記にの説明中に、「戦前には軍や右翼に顔が広く」という字句があるが、林逸郎は、軍や右翼に顔が広かったというよりは、自身が革新右翼的な思想の持ち主であった。
 そのことは、一九三五年(昭和一〇)四月に、昭和神聖会から、『天皇機関説撃滅』という本を出していることで明白である。
 ちなみに、同書刊行時における林逸郎の肩書は「愛国法曹連盟理事」である。また、同書の発行元の昭和神聖会は、大本教(皇道大本)の組織として知られている。
 本日は、林逸郎の「思想」を知るために、彼の文章を、少し読んでみたい。紹介するのは、「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章である。これは、一九三三年(昭和八)九月二九日に、浅草公会堂でおこなわれた講演の速記録で、同年九月に、日本講演会から刊行された(菊地武夫の講演速記録と合冊)。なお、この講演時における林逸郎の肩書は「五、一五事件海軍側弁護士」である。
 林逸郎の講演記録は、原文で、二十九ページ分あるが(一~二九ページ)、本日、紹介するのは、二一ページ初めから二三ページの途中までの部分である。


  軍 人 精 神 を 生 か せ
 軍紀と申しますれば、軍人の行動を規律致しまする軍人精神といふものと同一でなければならぬのであります。又軍人精神と云ふものはどういふものかと申しますと、軍人に与へられて居ります道徳律であります。この軍人に与へられて居ります道徳律といふことは、取りも直さず、大義名分であります。取りも直さず、忠君愛国といふことであります。軍人に与へられて居りまする軍人精神を守らんとして軍紀に触れることがありましたならば、この時に於ては何れを先にするか,軍人精神に重きを置くべきか、即ち軍紀に重きを置くべきか、と云ふことを十分に考へなければなりませぬ。日清戦役の始まります前に東郷〔平八郎〕元帥が支那の軍艦を撃破された〔高陞号事件〕。この時閣議は非常に沸騰して伊藤博文公は東郷を拉し来つて軍法会議に付さなければならぬといつたのでありますが、この時西郷従道〈サイゴウ・ツグミチ〉侯が戦は既に開かれたのである。何処を咎むべき必要ありや、彼に与へるものは恩賞のみではないかといふので廟議〈ビョウギ〉が一決したさうであります。興廃の岐れる処の斯くの如しと私は思ふのでありますが、この場合と同じやうに、行為が軍紀に触れるが如きことでございましても、それが軍人精神を生かすといふことになります場合は、私共は十分なる覚悟を以て之に処さなければならぬのであります。
  勧 進 帖 を 吟 味 せ よ
 勧進帖と申す芝居がございます。山伏に身を扮したる義経の一行が安宅の関で咎められ、遂に弁慶が義経の頭に錫杖〈シャクジョウ〉を挙げて打擲〈チョウチャク〉致すのであります。此の場合の武蔵坊弁慶は軍紀を乱す甚しき者でありませうか、更にこの時武蔵坊弁慶は偽の勧進帖をば声高らかに読上げるなども亦軍紀を乱る甚しきものであると言はなければならぬでせうか。弁慶が義経を打擲致す時には、彼の心の中には萬斛〈バンコク〉の涙が流れてゐるのであります。而して後に彼は涙を湛へて〈タタエテ〉義経に詫びて居りますが、この涙こそは軍人精神其のものであると言はなければなりませぬ。又富樫佐衛門尉〈トガシ・サエモンノジョウ〉が義経一行の山伏をば通過せしめるといふことは、軍紀を乱す甚しきものと言へませう。况して〈マシテ〉義経一行と知りつつ落した〔逃がした〕のです。去りながら、富樫佐衛門が武蔵坊弁慶の読みまする偽の勧進帖を観破しながら落した、之を私共は軍人精神の発露と申すのであります。軍紀を乱したものに対しては、厳に之を処罰しなければならぬと同時に、軍人精神を生かしたる者に対しては、大いに之を称揚しなければならぬと私は絶叫します。

 要するに、林逸郎は、軍人精神は軍紀よりも重いということを言おうとしているのである。それを言うために、東郷平八郎の高陞号砲撃や義経・弁慶の安宅の関の一件を持ち出したのである。
 では、なぜ、林は、「軍人精神は軍紀よりも重い」ということを強調したのか。それは、五・一五事件の被告を擁護するためであった。五・一五事件の被告を、法で裁いてはならぬ、彼らの行動は、昭和維新を実現しようとしたものであって、その軍人精神を否定してはならぬ。――こうして、林は、五・一五事件の被告を擁護し、五・一五事件を肯定したのである。

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