◎吉良義央、吉良の仁吉、作家の尾崎士郎
朝日新聞中部支社報道部編『夏草の跡――愛知県郷土史話』(朝日新聞中部支社、一九五四)から、「吉良上野介義央」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、「吉良の仁吉」という文章を紹介する。
吉 良 の 仁 吉
(西暦一八三九~一八六六年)
荒神山の血けむりに、慶応二年(西暦一八六六年)四月八日、あたら廿八歳の男ざかりを花と散った男だて吉良の仁吉〈キラノニキチ〉は幡豆郡横須賀村に生まれた。伊勢の神戸(カンべ)の長吉への義理にからんで、桑名の阿濃徳〈アノウトク〉一家を敵に回し、恋女房を離縁して、清水一家の大政、小政らと伊勢に乗り込む仁吉の仁キョウ伝は多分に講談や浪花節の脚色が加えられているようだ。
仁吉は横須賀村上横須賀字栄町の百姓善兵衛の子で、後に二足のワラジといわれる十手を預り、太田仁吉と名乗つた。子供のころから相当な乱暴者で、十二歳のころから綿の実を買つて歩くうち、いまの西尾市でケン力の相手を天ビン棒で殴り殺し故郷の横須賀を飛び出したが、まだなんといっても子供のこと、大浜の渡し場まで来て心細さにションボリしていたのをたまたま通りかかった寺津(いま西尾市内)の親分間之助(マノスケ)が見かけて寺津につれて帰った。そのころ若き清水次郎長もここに身を寄せていたので、二人は兄弟分として成長する。
次郎長の方が仁吉よりも十二、三も年上であったが、ケンカとなれば乱暴者の仁吉がはるかにうわ手だったので、飲みわけの兄弟分として、お互いに相手を呼ぶにも「ニキドン」「ジロドン」と呼びあい、決して呼び捨てにするょうなことはなかったという(横須賀郵便局長手嶋復松氏談)。ここで剣術も修行して、どうやら一本立ちになった仁吉は二十一歳のとき故郷の吉良に帰り、一家をたてて若い親分として売り出すが、次郎長も同じころ幡豆郡一色(イシキ)町のウドン屋の娘お蝶とともに清水に帰って一家をたてた。
写真【略】 吉良の仁吉の墓(幡豆郡横須賀村源徳寺)
世上伝えられる仁吉は色白の好男子で、若いに似合わずもののわかった人物で、人望もあつめていたということになっているが、土地の古老の話だと、仁吉は六尺近い大男、アバタ面で、ドモリで腕が立つため、いまでいえば暴力団のボスのように恐れられていたという。大正の末ごろ仁吉の家に近い古川の堤防改修工事が行われたとき、仁吉の家の裏から人骨がたくさん出て人々を驚かせたということだが、それはともかく、二十八歳で死ぬまでの数年間に五、六十人の子分を持ち、吉良地方一帯に勢力をふるった仁吉は、ヤクザの世界では相当な男ではあったらしい。そして義理人情を生命とするこの世界で、神戸の長吉への義理を守って若くして死んだということだけは事実で、そのため後世おとこ気の人としてもてはやされるようにもなったのだろう。
荒神山――実は庚申ゲ原へ乗りこんだとき仁吉が持っていったという短銃がいま上横須賀に住む仁吉のメイに当る蜂須賀たけさん(八五)のところに保存されている。庚申ゲ原で仁吉は樹上にかくれていた阿濃徳の子分に鉄砲でねらい撃ちされて殺されたとも伝えられているが、実は阿濃徳側の浪人角井森之助(通称門之助)という剣客にきられたものらしい。この門之助は以前仁吉のところへ五十両の金を無心に来たが、いつもとちがってそのとき仁吉はおとなしく金を渡して帰らせた。これをみた子分二人が門之助の後を追って殺そうとしたが、手出しも出来ずに逃げ帰って来た。なんでも門之助が仁吉に無心をふっかけたとき、目にもとまらぬ居合抜きの早業でそばにあった行灯〈アンドン〉をきって見せたので、さすがの仁吉もこれはとても敵わぬと例になく、おとなしく金を出したのだが、余りの早業だったため子分らにはそれが分らなかったのだという。そんなことがあったので仁吉は庚申ゲ原に向うとき門之助に備えて、ふところに短銃をひそませていったが、渡し場で舟から下りるとき、短銃がふところからころげ落ち火ナワがしめっていたのに気づかず門之助と対決して、タマの出ない短銃に頼りすぎてきり倒されたのだという。(手嶋復松氏談)
また仁吉は結婚したばかりの恋女房のお菊が阿濃徳の妹だったため義理にはさまれ、涙の離縁をして庚申ゲ原へかけつけたというのもどうやら後に脚色されたものらしい。上横須資の源徳寺住職藤原宝英師の話ではお菊は知立か宮の宿の飯盛女だったのを、仁吉が阿濃徳と恋のサヤ当して女房に迎えたというが、お菊のその後は全然分らない。仁吉の死後子分が跡目をついで太田勘蔵と名乗ったが、上横須賀の農業板倉清一さんが仁吉の子孫といい、その位ハイを守っている。
また源徳寺に仁吉の死んだ翌年子分らが建てたという立派な墓があり、今から四年ほど前から仁吉後援会も出来て、毎年四月八日には相撲大会などにぎやかなお祭り行事も行われている。また仁吉は横笛の名手で、仁吉から笛の吹き方を習い伝えたという人たちが毎年村のお祭りのハヤシをにぎわすということである。
また知多郡内海町の海岸に近いところ「唐人お吉出生地」の碑のすぐ東北に、「昔良の仁吉清めの井戸」がある。庚申ゲ原で死んだ仁吉の死体を大政、小政らが船でこの地に運び、当時この付近にただ一つしかなかったこの井戸で仁吉の死体を清め、ここから河和に運び、河和からまた船で三河横須賀の郷里吉良へ運び帰ったといわれている。
ここにあるように、幕末の侠客として知られる吉良の仁吉は、愛知県幡豆郡横須賀村の出身であった。現在の西尾市吉良町にあたる。
ちなみに、ウィキペディア「吉良の仁吉」の項によれば、今日、西尾市吉良町には、「吉良三人衆」という言葉があるという。吉良義央、吉良の仁吉、そして、幡豆郡横須賀村生まれの作家・尾崎士郎(一八九八~一九六四)である。
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