◎柳田國男の句「山寺や葱と南瓜の十日間」をめぐる菅野守氏の新説
神奈川県立津久井高校の菅野守先生の論考「資料室の『お宝』2-鈴木重光新聞スクラップ『大正七年』版」は、相模原市津久井郷土資料室のホームページにある。そこに、「山寺や葱と南瓜の十日間」という句についての新説が提示されていることについては、昨日紹介した通りである。
菅野先生の新説はきわめて独創的なものだが、それについては最後に紹介することとし、まず、菅野論考が引用している重要な資料数点を紹介しておきたい。
菅野先生によれば、相模原市津久井郷土資料室には「鈴木スクラップ」と呼ばれるスクラップ帳があるという。これは、内郷村出身の郷土史家で、『相州内郷村話』(郷土研究社、一九二四)の編者として知られる鈴木重光が作ったスクラップ帳で、正式には、「新聞切り抜き帖 大正7年版」という名前のものらしい。そこには当然、内郷村村落調査関係の新聞記事が貼り込まれているわけだが、中でも注目されるのは、東京日日新聞一九一八年(大正七)八月二七日の「余録」欄に載ったという次の記事である。
▲柳田書記官長□〔一字不明〕始め十人許り〈バカリ〉の学者連が此程〈コノホド〉神奈川県の片田舎に農村研究に出掛けた一行或〈アル〉養蚕村に落付くと寺に本拠を構へて村の田吾作連〈タゴサクレン〉を相手に研究に執りかかると時恰も〈トキアタカモ〉米騒動が起つて村の米が段々心細くなり▲中には『都の学者先生も有難いが十人もの人に十日間も居喰ひ〈イグイ〉されては今に村の者が干乾〈ヒボシ〉になる』と心配した老人もあつたと
田吾作という言葉は、近年あまり聞かなくなった言葉だが、農民に対する蔑称である。田吾作連の連は、連中〈レンジュウ〉の意味である。この田吾作連という言い方も酷いが、都の学者先生が十日間滞在したので、村が干乾しになる(食べ物がなくなる)という言い方も、村を馬鹿にしている。
この記事には、村民も激怒したものと思われるが、それ以上に激怒したのが柳田國男だったらしい。
東京日日新聞は、柳田の抗議を受け(菅野論考による)、八月二九日の「余録」に六行の謝罪文を掲載したという。この謝罪文は、鈴木スクラップにあるというが、菅野論考は、そのままの形では引用をおこなっていない。
この「筆禍事件」と関連する資料がある。これも、菅野論考に引用されている資料だが重引させていただく。すなわち、『柳田国男と民俗の旅』の著者である松本三喜夫氏が、一九八九年一一月に、正覚寺住職の山田亮因師(当時八〇歳)に対してインタビューをおこなった際のやりとりである。
松本 柳田の俳句「山寺や葱と南瓜の十日間」が、何か新聞記者に洩れ、村の人に大目玉を食ったとか聞いているんですが。
山田 それはよく知らないがね。こころあるというか、この土地に育った成人の人たちからみれば、あんまり稗飯〈ヒエメシ〉はうまくないし、宣伝するほどじゃあないしということかも。新聞は、私の母のいうことには、当時の『日々新聞』か、『貿易新聞』だか、何か今でいえば天声人語のああいうところに出たらしいね。『東京日々』に、『神奈川新聞』なら当然神奈川のことだから出ても差し支えないが、それはあんまり葱とか南瓜とかで十日間過ごしたというんじゃ、この村では稗でも食べているらしいとみられては、何で〈ナンデ〉。
松本三喜夫氏は、九月五日の東京朝日新聞に載った柳田國男の発言(麩と南瓜の十日間)を問題にしようとしているのに対し、山田師のいう「私の母」の話は、明らかに八月二七日の東京日日新聞に載った「余録」の記事(村の者が干乾になる)のことである。これでは話が噛み合うはずがない。
それにしても不思議なのは、八月二七日の東京日日新聞の「余録」に抗議したとされる柳田國男が、なぜ、九月五日の東京朝日新聞では、「麩と南瓜の十日間」というような不用意な発言をしたのかということである(おそらくこれまで、こういった形での問題提起は、なされてこなかったのではないだろうか)。
ここでまた、菅野論考から資料を重引させていただく。山田亮因の「あれも先生、これも先生」という文章の一部である(長谷川一郎先生記念祭実行委員会編『石老の礎』一九六五、所載)。
私の寺へ、こうした偉い人が泊まることは、私の母などはあまり気が進まなかったそうだが、長谷川〔一郎〕先生のいうのに「なアに、東京でショッチュウうまいものを食べている人達だ。飯と汁と漬物だけで、あとは向うで、どんなうまいものでも用意して来るから・・・。」というような簡単なことで、寺に泊ることを承知したのだという。(中略)文字通りの「飯と汁と漬物」の十日間だとあって、寺を引揚げ後の新聞に発表された、柳田国男先生の記事に「山寺や葱とかぼちゃの十日間」の句が載っていた。いつもこれで大笑いの長谷川先生であった。
菅野守先生の注によれば、この文章を発表した当時、山田師は五六歳、内郷村調査当時は九歳で、尋常小学校三年生だったという。
この山田師の証言は重要である。長谷川一郎(内郷小学校校長)は、新聞に載った柳田の発言(麩と南瓜の十日間)を読んで、「大笑い」したというのである。
調査団の受け入れにあたって中心となった長谷川校長は、なぜ柳田の発言に怒らなかったのか。なぜ、当惑しなかったのか。なぜ「大笑い」する余裕があったのか。
いろいろ考えた末、次のように考えるほかないという結論に達した。
柳田國男は、長谷川に村落調査を申し入れた際、「寝具食料の如きも、中々御地にてととのはぬものは全部持参差支へなきに付」、「小生始め何れも如何なる不自由にも耐へ得る筈」という言質を与えていた(このことについては、以前紹介した)。当然、長谷川はこれを関係者に伝えていたはずであるし、そのことを聞いていた一般村民も少なくなかったであろう。受け入れ側としては、「飯と汁と漬物だけ」で十分という認識であり、そのことに対しては、調査団からの苦情は受けないという了解ができていたと思われる。もちろん、柳田ら調査団の面々も、食事のことで苦情を申し入れるわけにはいかなかった。多分、調査団の面々は、稗飯が出されたとしても文句は言えなかったはずである。一方、長谷川校長はじめ村の関係者は、紳士連中がいつ音を上げるか、楽しみに見守るといったところだったのではないだろうか。
柳田らは、それでも十日間はなんとか我慢した。しかし、帰京後、ついに本音が出た。それが、「麩と南瓜の十日間」である。だからこそ、長谷川校長は、これを読んで「大笑い」したのである。やはり無理をしていたのかと。ただし、「村の衆」すべてが、「麩と南瓜の十日間」の記事を、そのように受けとめたかどうかは不明である。
いずれにせよ、この柳田の発言は、受け入れにあたった村の関係者にとっては、素直な「敗北宣言」に聞こえたはずである。ということになると、正覚寺の「山寺や葱と南瓜の十日間」の句碑は、村の関係者の「勝利宣言」ということになる。この句碑は、正覚寺住職を初めとする村の関係者が、みずからの意思で建てたものであろう(ただし、村人の総意を代表しているとまでは言えないように思う)。
さて、菅野守先生の新説は、「山寺や葱と南瓜の十日間」という句自体が、柳田國男の句ではなく、「内郷村民」が柳田に仮託して作った句というものである。以下は、その結論部分である。
注目すべきは、東京朝日新聞の「麩と南瓜の十日間」と正覚寺前住職山田「あれも先生」の「いつもこれで大笑いの長谷川先生であった」である。「麩」を「葱」に変え、「山寺や」を追加すれば、「五七五」の俳句が完成する。筆者の大胆な「憶測」によれば、発句したのは「長谷川先生(長谷川一郎)」あるいはその近辺だろう。「楽と苦の 長の旅路や喜寿の春」とは、前掲、長谷川「内郷村共同調査の思い出」掲載の「発句」である。筆者の「憶測」が正しければ、正覚寺「柳田句碑」は、郷土会と白茅会による「日本初の」村落調査という、津久井地方の一大イヴェントが生み出した民俗的記念碑といえよう。発句は、「貴族院書記官長にして学者」柳田のものではなく、「内郷村民」の発句としたい。正覚寺の「俳句寺」としてのレーゾンデートルはそこにあると考える。その証拠に「俳句寺」正覚寺に「奉納された句碑は二百六基を数える」(前掲、前川〔清治〕『津久井〔歴史ウォーク〕』)という。「柳田」発句から実に壮大な「俳諧」を形成していることになる。以上の「憶測」に関する識者のご意見、情報をお待ちする次第である。
十分ありうることだと思う。地元の研究者でなくては、考えつかない大胆にして説得力のある新説である。
今日のコラムに記した礫川説は、菅野論考に引用されていた資料を読み、菅野先生の新説の刺激を受けて思いついたものである。ただし、「勝利宣言」云々の解釈は、礫川が勝手に付け加えた臆説である。
今日の名言 2012・9・23
◎むらがりていよいよ寂しひがんばな
日野草城の俳句。本日の東京新聞「筆洗」より。東京新聞の「筆洗」は、毎日新聞の「余録」や朝日新聞の「天声人語」に相当するコラムである。