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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか

2012-09-20 07:22:45 | 日記

◎柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか

 話を「内郷村村落調査」(一九一八)に戻す。柳田國男は、この調査を「失敗」として認識していたことはすでに紹介したが、彼はどのような意味で、この調査を失敗と認識したのか。その柳田のその認識は、はたして妥当だったのか。とりあえず問題にしたいことは、このあたりである。
 結論を先に言ってしまえば、柳田は、この調査が「失敗」に終わった理由を、正しく捉えることができなかった。したがって、この「失敗」から適切な教訓を得ることもできなかった。一方、この村落調査に深く関与しながら、調査そのものには参加できなかった農政学者の小野武夫には、この「失敗」の本質が見えていた。そのことを、遠回しな言い方で柳田に伝えようとしたのが、小野の『農村研究講話』(改造社、一九二五)であった。――このあと指摘してゆきたいのは、だいたいこんなところである。
 順に説明していこう。『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)によれば、柳田は、村落調査前の一九一八年(大正七)五月二二日、内郷小学校校長・長谷川一郎あてに、次のような手紙を送っている。

 村調査のこと、他村にては我々の趣旨を村有志に徹底し得るや否やおぼつかなく存じ候。もし貴下〔長谷川校長〕にして斯る〈カカル〉機会に周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考〈カンガエ〉ありて、村内御知友の賛成を得られ候見込あらば、来月十二日の郷土会に於て、第一回の調査地を内郷に撰定することを改めて提議可仕〈ツカマツルベク〉候が如何〈イカン〉。項目莫大〈バクダイ〉にて一見人を脅かすものあれども、我が会員五六人もかかるならば、さして大さわぎを要せずして要領を得可申〈エモウスベク〉、其為〈ソノタメ〉村に及ぼす迷惑は、案外少なかるべしと信じをり候

 こういう手紙を読むと、柳田國男という人は、なかなかに渉外能力があったという感想を抱く。ただし、この文面にすでに、今回の調査が持つことになるであろう性格があらわれている。
 ひとつは、「村有志」、「村内御知友」という言葉である。こうした調査を村が受け容れるか否かは、村有志や村内御知友の意向によって決定しうるはずだという発想が、柳田にはある。「周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考ありて」という言葉も、当然、そうした発想から出てきている。「内郷村誌」を無料で作る良い機会だという言葉は、もちろん村の中枢部に向けたメッセージなのである。そこには、実際の調査の対象となる村民の視点は、ほとんど抜け落ちている。「内郷村誌」を作るかどうかは、おそらく一般村民の関心事ではなかったであろう。
 六月一三日、柳田は、再び長谷川一郎あてて手紙を書く。この手紙も、『相模湖史 民俗編』から引用させていただく。

 先日は初物の鮎早々御恵贈を忝し〈カタジケナクシ〉、殊に御付近の風光など物語もして一同〔柳田の家族か〕賞玩、深く御芳志を謝し申候。
 偖〈サテ〉、昨十二日の郷土会にて兼て〈カネテ〉の件協議仕〈ツカマツリ〉、貴意を伝へ候処、何れも是非この新しき試〈ココロミ〉を実現し度〈タク〉、希望仕〈ツカマツリ〉候。時期は八月十五日―二十五日の十日間位が尤も〈モットモ〉多数の参加を得るやうに候。就ては近日、日返りにて参上、直接御伺〈オウカガイ〉申上〈モウシアグ〉べく候へ共〈ソウラエドモ〉、左の件も予め〈アラカジメ〉、二三の御友人とも御相談なしおかれ度、打入て御依頼申上候。
一、人数は十人内外、中には二三日にて往返〈オウヘン〉するもあれど、多くは引つづき滞在致候。
一、原則として、村より金銭は勿論のこと勤労の援助なども受けぬこと。
一、野営もいとはざる大決心なれども、どこか宿舎を貸与(有料)せらるる向〈ムキ〉は有之〈コレアル〉まじきや。
一、分宿も結構なれども、炎暑の頃なれば寺か何かの涼しい処が借りられて、夜分静かに休養が出来るならば、一同大悦なるべきこと。
一、寝具食料の如きも、中々御地にてととのはぬものは全部持参差支へ〈サシツカエ〉なきに付、予め限度御見込を示されたきこと。
一、但、小生始め何れも如何なる不自由にも耐へ得る筈〈ハズ〉。
一、食事世話人二人雇度〈ヤトイタク〉希望。
一、旧新の文書類は、出来るだけ多く披見〈ヒケン〉を許され度〈タキ〉こと。
一、遠慮をせず且つほらを吹かぬ若干の村老たちへ御紹介を乞度〈コイタキ〉こと。
一、青年諸君とも会談は大に望むも、少し時間に不足を感ずる際なれば、一切の集会類はお見合せを乞ふこと。
一、酒類は絶縁のつもりに候こと。
一、知事〔神奈川県知事〕公には先日手紙の序〈ツイデ〉に一寸申入れたるも、いよいよの節は貴下より郡長〔津久井郡長〕にお話被下度〈クダサレタキ〉事。
一、而も〈シカモ〉新聞屋には出来るだけおそく迄〈マデ〉知らせぬこと。
一、来週位には此方より小野〔武夫〕君又は小生参るべきに付〈ツキ〉、御多用中決してそちらよりお出かけ被下〈クダサレ〉まじきこと。
 右、何分御勘考を念じ候。     草々不一
 六月十三日               國男

 オルガナイザー、あるは実務家としての能力も相当なものである。文中、「打入て」とあるのは、「折入つて」の誤植ではないかと思われたが、そのままにしておいた。
 柳田はここで、内郷村有志に対して、細かい気配りを示しているが、やはりこれは、村内有志(有力者)に対しての気配りであって、実際の調査の対象となる一般村民に対する気配りではない。
 最後のほうにある「知事公には先日手紙の序に一寸申入れたるも、いよいよの節は貴下より郡長にお話被下度事」という一文が、いかにも偉そうである。柳田には、「貴族院書記官長」という身分があるから、今回の調査のことを、神奈川県知事(有吉忠一)にあらかじめ手紙で知らせることもできたろう。ここで柳田は、知事には知らせてあるが、郡長にまでは知らせていないので、郡長への連絡が必要だと思われたら、そちらから頼むと言っているのである。
 また柳田は、「勤労の援助」は受けぬと言っているが、村民の心理を考えた場合には、勤労の援助は辞退すべきではなかったように思う。「一切の集会類はお見合せを乞ふ」という言い方も、どうかと思う。偉い人がたくさん来るというのであれば、村民としては、集会のひとつも期待するであろう。ここでの表現は、「村民向けの講演等を、本調査の終了後、別の機会を設けて実現させたい」あたりにしておくべきであった。
 柳田國男に、「村民」という視点が欠落していた。このことが、この調査の「失敗」に結びついたのではないだろうか。【この話、続く】

今日の名言 2012・9・20

◎新聞屋には出来るだけおそく迄知らせぬ

 柳田國男の言葉。1918年6月13日、内郷村の長谷川一郎校長に送った手紙より。上記コラム参照。「新聞屋」というのは、新聞社あるいは新聞記者に対する蔑称である。新聞社に対して、そうした蔑称を使いながら、新聞が内郷村の調査を大きく報じるであろうことを予想し、またそれを期待している。柳田國男という人物のある一面を示している言葉と言えよう。

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なぜ警察の不祥事が続発するのか(「畑」という悪習について)

2012-09-19 04:41:03 | 日記

◎なぜ警察の不祥事が続発するのか(「畑」という悪習について)

 最近しばしば、警察あるいは警察官の不祥事が話題になる。九月一七日の日本経済新聞の社会面には、福岡県警の汚職事件(組幹部に捜査情報を漏らした警部補を、本年七月に逮捕)を中心とした「頼れぬ警察/進まぬ暴排」という記事が載った。
 この問題を考える際に不可欠なのは、警察という組織が、そもそも、どのような経緯で成立した組織であり、どうような性格を持った組織なのかという、歴史的視野に立った考察であろう。
 結論から先に言えば、日本の警察は、町奉行など江戸時代における警察組織の体質を今に引き継ぐ、きわめて特異な組織ではないだろうか。
 一九二九年(昭和四)年に刊行された江口治著『探偵学体系』という本があるが、その本には、日本の警察が「徳川時代の探偵状況」から脱したのは「明治四十一年前後より、大正五年頃迄」と書いてある。
 このことを指摘している江口治が、永く警視庁に勤務した「前警視」であることに注意されたい。つまり、明治時代の警察が、江戸時代の警察組織の手法や体質をそのまま引き継いでいた事実は、警察関係者も認めざるをえないことだったのである。ということであれば、二一世紀の今日における警察組織にも、江戸時代の警察組織の手法や体質が残存していたとしても、それほど驚くにはあたらない。
 江口治は、「徳川時代の探偵状況」について、いくつか特徴を挙げているが、ここでは、「畑」という悪習について解説している部分(第一編第一章第一節第一款第二「見込捜査時代」一「徳川時代」(二)「畑の悪用」)を紹介する。ページでいえば、一三~一四ページである。

「はたけ」とは当時探偵家が其の活動に就て、便宜を受くる諒解のあつた地盤、即ち民間に於ける、探偵的勢力範囲とも云ふべき区域でありませう。
 野作物の収穫を多くするには、なるたけ広い肥えた畑が必要であるやうに、探偵が有効に活躍するには、其の舞台として諒解ある地盤が必用であるとの意味から、畑と云ふ名が出来たのであります。元来真面目〈マジメ〉な意味から考へても、畑は探偵家の技倆の一要素でありまして、今日に於ても無くてはならぬものですが、江戸時代のそれは、畑そのものの質が悪るい処へ持つて行つて、利用方法が不公正であつたから、堪ら〈タマラ〉なかつたのでした。
 先づ何とは無しに広く行き届いて知り合〈シリアイ〉を作り、何処〈ドコ〉にも顔の通りを善くして置き、取り分け、湯屋〈ユヤ〉、床屋、茶屋、貸座敷、飲食店、船宿〈フナヤド〉、貸席、宿屋といふやうな、人の出入〈デイリ〉の多い稼業、又は籠舁〈カゴカキ〉、馬方、人入れ稼業、屑買〈クズカイ〉、芝居者、野師〈ヤシ〉、門づけ、夜店商人、夜泣き売りなど昼夜の別なく、諸所方々を廻り歩く業体の者に、渡りを付けて万一に備へて置くといふ位迄は、至極無事で先づ必要な程度であつたと思はれますが、此時代の探慎は、更に進んで非常に悪質な方面迄畑の拡張を試み、それが広い程敏腕家としてあつたから困つたものでありました。
 此の悪質の方の畑の内容を見ますると、不良興行師、博徒〈バクト〉、浮浪者、掏摸〈スリ〉、故買者〈コバイモノ〉、夜鷹師(辻淫買の元締をしている破落戸〈ゴロツキ〉で誘拐暴行等の常習者)其の他種々の犯罪常習団体等でありました。探偵は常に是等〈コレラ〉の者を、手懐づける〈テナヅケル〉のに抜け目なく立ち廻り、目こぼしと称して、或る程度の不検挙点を設け、幾分其の罪悪を看過して存立の余地を与へ、恩威を示し之等〈コレラ〉不良群少の細鱗を駆つて〈カッテ〉、呑舟の悪魚〔大悪人〕を捕へると云ふ作戦を採りました。併し〈シカシ〉之等の陰険な策謀は、社会の公正を維持する為の犯罪検挙の手段としては、目的と余り懸け離れていた為、得る処より失ふ処の多かつたことは、想像に余りがあるのです。

 これを、かつて江戸時代の「探偵家」(警察関係者)に存在した「旧習」と捉えてはいけない。前記の日経新聞記事によれば、逮捕されたN警部補は、組幹部に情報を流した理由について、「情報を得るために恩を売りたかった」と説明しているという。
 構造はまったく変わっていない。江戸時代の警察組織の手法や体質は、おそらく今日の警察にも引き継がれている。一県警、一警官の問題と見るべきではなかろう。

今日の名言 2012・9・19

◎街を明るくしたいと思っても警察は頼れない

 北九州市小倉区の飲食店関係者の言葉。日本経済新聞9月17日の記事より。上記コラム参照。

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神戸事件の主人公・瀧善三郎と備前金川

2012-09-18 06:01:08 | 日記

◎神戸事件の主人公・瀧善三郎と備前金川

 今月一〇日のコラムで、岡山県の金川〈カナガワ〉駅のことに触れた。金川駅については思い出がある。『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)を執筆していた二〇〇九年の七月某日、「瀧善三郎義烈碑」を訪ねるため、この駅で下車したことがあった。
 その日の朝、岡山駅で三二〇円の切符を買い、JR津山線に乗りこんだ。単線のローカル線で、ディーゼル車が牽引していた。岡山駅から数駅ゆくと、あっという間に田舎の光景となる。さらにゆくと線路はかなりの急勾配となり、線路の両側に山が迫る区間が続く。いくつか無人駅に停車したあと、ようやく金川駅に着いた。
 金川駅で年輩の駅員に、「七曲〈ナナマガリ〉神社」の位置を尋ねるが、聞いたことがないという。とりあえず駅前広場に出ると、観光地図があった。「瀧善三郎義烈碑」の大きな文字があるではないか。同碑は、七曲神社の境内にあると聞いてきたが、神社そのものは、地元でもあまり知られていないようだ。位置を確認して歩きはじめた。
 数分歩くと、宇甘川〈ウカイガワ〉にかかる橋がある。橋をわたったあと、交差点を左折し、しばらく歩くと右側に立派な寺院が見え、その手前にちょっとした空地があった。その奥に石碑らしいものが見えるので近寄ってみると、これが目指す「瀧善三郎義烈碑」であった。七曲神社は、同碑の左側にある階段を登ったところあるらしい。ちなみに、隣接する寺院は、日蓮宗不受不施派の総本山・妙覚寺である。
 碑の上部には、篆書〈テンショ〉で「義烈碑」の三文字がある。備前藩池田家一五代当主・池田宣政〈ノブマサ〉(一九〇四~八八)による篆額〈テンガク〉である。その下に本文がある。持ってきたコピーを見ながら、字句を確認する。この本文は、『攘夷と憂国』にも引用したが、次のような文章であった。

 義 烈 碑
 瀧善三郎正信君義烈碑  貴族院議員正四位侯爵 池田宣政篆額
瀧善三郎正信君ハ備前藩国老日置帯刀ノ家臣ニシテ禄百石ヲ食ム人ト為リ胆勇ニシテ気節アリ夙ニ武芸ニ精進シ特ニ砲術ニ長セリ偶慶応三年十二月我備前藩ハ摂津西宮ノ警備ヲ命セラレ同四年正月帯刀藩命ヲ奉シ兵ヲ率ヰテ任所ニ赴クヤ君ハ砲隊長トシテ前隊ニ在リ十一日神戸ニ達シ居留地附近ヲ通過ス時ニ外人数名我制止ヲ肯セスシテ隊列ヲ横断シ或ハ短銃ヲ擬シテ我ヲ威嚇ス隊士憤激鎗ヲ揮ヒテ之ヲ刺ス創浅クシテ遁逃セシカハ砲ヲ発ツテ追撃ス英国公使之ヲ目撃シ直ニ公使館守衛ノ英兵及米仏ノ水兵ヲ出動セシム我隊亦之ニ応ス帯刀事変ノ拡大ヲ憂ヒ全隊ニ令シテ山手ニ避ケシム公使等敵意アルモノトシ陸戦隊ヲシテ居留地ヲ警備セシメ或ハ要所ヲ扼シテ兵士ノ往来ヲ禁シ又港内ニ碇泊セル諸藩ノ洋式船舶ヲ抑留セリ時恰モ 皇政復古ニ際シ 朝廷大ニ慮ル処アリ折衝ノ結果漸ク神戸ノ戒厳ヲ撤セシメ発砲ノ下知者ニ切腹ヲ命スルコトニ決セリ是ニ於テ君ハ潔ク責ヲ負ヒ二月九日夜兵庫永福寺ニ於テ徴士参与外国事務掛伊藤俊介以下関係者及英仏普伊米蘭公使館員検証ノ下ニ従容トシテ自裁ス時ニ年三十二ナリ其悲壮ナル光景ハ列座外人ノ胆ヲ奪ヒ日本武士道ノ精華ヲ発揮セリ而シテ君ノ一死能ク維新最初ノ国際問題ヲ解決シ以テ 宸襟ヲ安ンシ奉ルヲ得タリ藩主池田茂政公特ニ嗣子成太郎ヲ本藩ノ士籍ニ列シ五百石ヲ給ス実ニ異数ノ恩遇ナリ頃日金川町長葛城最太郎氏有志ト胥謀リ碑ヲ君ノ郷里臥龍山下ニ建テテ義烈ヲ不朽ニ伝ヘント欲シ来リテ余ニ文ヲ求ム余不文ト雖君ノ英風ヲ欽慕スルノ念切ナリ乃欣然筆ヲ援キテ慨略ヲ記ス
 皇紀二千六百年     侯爵池田家嘱託 従六位   蔵知 矩 撰文
 昭和十五年十一月九日  李王職事務官 従六位薫六等 葛城末治 書冊

 この碑は、慶応四年(一八六八)に神戸で起きたいわゆる「神戸事件」の責任をとって切腹した備前藩士・瀧善三郎(一八三七~六八)を記念して建てられたものである。神戸事件というのは、備前藩兵と外国兵の衝突事件をいう。詳しくは、『攘夷と憂国』第七章「神戸事件の本質」を参照されたい。
 碑文の確認を終えたあと、階段を上って七曲神社に参拝。神社からは、隣の妙覚寺が見下ろせる。いったん階段を降り、さらに妙覚寺も参拝する。
 日蓮宗不受不施派といえば、江戸時代には「禁教」とされ、切支丹〈キリシタン〉と同様の弾圧を受けた宗派である。その総本山である妙覚寺は、一見したところ、普通の寺院と変わらない。とはいえ、墓地の一番上までやってくると、さすがに張りつめた空気を感じさせる空間があった。信仰を守ろうとして死んだ僧侶・信者の供養塔が並んでいる一画である。
 神戸事件の責任をとって死んだ瀧善三郎の碑のすぐ近くに、不受不施派の信仰を守って死んだ人々の供養塔がある。その暗合に驚きながら、妙覚寺をあとにする。持参した地図によれば、妙覚寺のすぐ先に、御津町〈ミツチョウ〉郷土歴史資料館があるようなので、行ってみたが、折悪しく休館日であった。ちなみに、当時の御津は、すでに御津郡御津町ではなく、岡山市北区御津となっていたはずである(二〇〇五年、岡山市に編入)。地図には「御津町郷土歴史資料館」とあったが、実際の看板にどう書かれていたかは記憶していない。
 取って返して、岡山県立岡山御津高校方面に向かう。根本克夫氏の『検証神戸事件』(創芸出版、一九九〇)によれば、瀧善三郎の生家は、「県立金川高校の正門辺り」にあったという。岡山御津高校(旧称・金川高校)の敷地は、宇甘川が旭川〈アサヒガワ〉に合流する場所に位置している。その正門あたりをぶらついてみたが、ごく普通の民家が建ちならんでいるだけで、往時を偲ばせるようなものは何もなかった。

今日の名言 2012・9・18

◎自殺の最大の理由は「孤立」ですよ

 秋田県山本郡藤里町の住職・袴田俊英さんの言葉。本日の東京新聞「社説」より。袴田さんら町民有志は、10年以上前に、「心といのちを考える会」を立ち上げ、自殺予防の活動をおこなってきた。秋田県は、自殺率(人口十万人あたりの自殺者数)の高い県として知られる。

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内郷村の村落調査の終了と柳田國男の談話

2012-09-17 05:59:36 | 日記

◎内郷村の村落調査の終了と柳田國男の談話

 郷土会による内郷村の村落調査は、一九一八年八月二五日に無事終了した。これを受けて、同月二七日の『東京日日新聞』には、次のような記事が掲載された。この記事もまた、『相模湖町史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)の四二七ページに影印の形で載っている。

 十余名の学者に試みられし
  内郷村の村落調査
 ◇……日本では最初の試み=柳田貴族院書記官長の談
柳田貴族院書記官長の一行は既記の如く本日十五日より本県津久井郡内郷村に出張して村落調査を始め十日間研究し去る二十五日帰京したり一行は柳田〔國男〕氏及び
小田内通敏、第三中学校教諭正木助次郎、下谷〈シタヤ〉東盛小学校長牧口常三郎、早稲田大学文科教授中桐確太郎、同工科教授佐藤功一、同講師今和次郎〈コン・ワジロウ〉、農科大学教授理学博士草野俊介、農商務省書記官石黒忠篤、同省技師中村留治、鉄道院参事田中信良
の諸氏にして
 ◇研究題目は 確定せざれども主として柳田氏は住民に就いて、佐藤、今の両氏は建築方面より、草野、正木両氏は地形上より、小田内氏は食物及び衣類に就て、石黒、中村両氏は産業方面の事項に就て、其他の諸氏も夫々〈ソレゾレ〉専門的方面に就て要するに同村に関する一切の事項を研究したるものにて是等〈コレラ〉の研究の結果は取纏めて
 ◇一報告書を して追つて世に公にせらるる筈なり尚柳田氏は語る『村落調査は外国には往々あるが日本では全く新しい試みであるから最初は気遣はれた〈キヅカワレタ〉が同村の押田〔未知太郎〕村長と長谷川〔一郎〕校長とが吾々の仕事を理解して大に歓迎された為に多大の便宜を得、村民から隔意〈カクイ〉なく調査の材料を提供して貰ふ事が出来た、これは同村に対して
 ◇深く感謝す る次第である。内郷村は三百七十戸程の小村で相模川と道志川とで三方を囲まれ一方は高い山に境〈サカイ〉されて明瞭に一区画をなし総てが一村で纏つて〈マトマッテ〉居るから研究には頗る都合がよいこれが此の村を選択した一理由であるそして同村は若柳、寸沢嵐〈スワラシ〉の両大字〈オオアザ〉から成立って居るが
 ◇成立の違ふ は大凡〈オオヨソ〉此の中で十余を算へる事が出来る、住民の血統は主なるものが凡そ〈オヨソ〉十位あるが古い処は永禄の小田原役帳〔小田原衆所領役帳〕に記録されてある位のものでズツト古くなると石器時代の遺物が頗る多い、其の中間の事は全く分からぬ、一行は何れも頗る熱心なもので正覚寺と云ふ寺に宿つて朝早くから各自目的の方面に出掛け夕方ヘトヘトになつて帰るから
 ◇研究の打合〈ウチアワセ〉 なども向ふでは出来なかつた、最初の試みの事であるから標準なども全然立てて居らぬ、唯〈タダ〉村全体を研究したと云ふ丈け〈ダケ〉の事である、元より十日間では不足であるから東京で出来る様な研究は成るべく避けた、来年の夏まで今一回別の処をやって見たいと思ふ』云々

 柳田國男の談話を中心とした記事であり、その意味においても興味深いものがある。この談話で、「最初の試みの事であるから標準なども全然立てて居らぬ、唯村全体を研究したと云ふ丈けの事である」と言っているのは、柳田が、この村落調査の結果に満足していなかったことを物語っている。
 この村落調査に参加したメンバーを、『相模湖町史 民俗編』によって確認しておこう。以下は、同書四二八~四二九ページからの引用。

 調査終了後の新聞記事にある村落調査参加者をあげてみると、『東京日々新聞』は柳田國男、小田内通敏、正木助次郎、牧口常三郎(下谷東盛小学校長)、中桐確太郎、佐藤功一(早早稲田大学工科教授)、今和次郎(同講師)、草野俊助(農科大学教授)、石黒忠篤、中村留二(農商務省技官)、田中信良としている。また『横浜貿易新報』〔八月三一日〕は草野俊助、柳田國男、石黒忠篤、田中信良、中桐確太郎、正木助次郎、牧口常三郎、小田内通敏、佐藤功一、今和次郎、中村留二としている。両紙があげている参加者は一致しており、また、長谷川一郎氏の回想(「内郷村共同調査の思い出」)でもこれら一一名があげられ、一一人による調査であったといえる。
 ただし、小田内通敏によれば、予定通りに参加したのは柳田、草野、正木、小田内、牧口、中桐、田中、佐藤、今の九名であり(「内郷村踏査記」『都会及農村』第四巻一一号)、石黒と中村は全日程の参加ではなかった。
 参加を予定し、柳田とともに内郷村に打合わせに出向いたこともある小野武夫は、母の急病で帰省していた(『農村研究講話』)と述べており、共同調査には参加していない。事前の報道にあった新渡戸稲造、三宅駿一、小平権一、田村鎮〈ヤスシ〉も参加できず、他の郷土会会員では木村修三、那須晧、中山太郎、小此木忠七郎なども不参加だったようである。

 上記引用のうち、「牧口常三郎(下谷東盛小学校長)」とあるのは、「牧口常三郎(東京市立大正尋常小学校校長)」とすべきであろう。さて、このあとさらに、この村落調査が「失敗」に終わったとされる理由について述べたいところだが、同じような話を続けるのもどうかと思うので、続きは数日後に。

今日の名言 2012・9・17

◎話し合いが必要なのは私たちなのに

 青木和雄さんが執筆した児童書『ハッピーバースデー』の主人公、小学生の女の子あすかの言葉。あすかのいる六年二組でいじめがあり、緊急保護者会が開かれる。そのとき、あすかはこう言う。「…父母会で何を話し合うんだろ。話し合いが必要なのは私たちなのに…」。本日の東京新聞「私説 論説室から」(大西隆執筆)より。

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1918年8月15日、内郷村の村落調査始まる(付・自作自演の国難)

2012-09-16 06:08:31 | 日記

◎1918年8月15日、内郷村の村落調査始まる

 一九一八年(大正七)の八月一〇日、今度は、『東京朝日新聞』が取りあげた。この記事も紹介しておこう。この記事は、『相模湖町史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)の四二七ページに影印の形で載っている。

 ●一個の村を隅々まで
  研究する郷土会
  ▽此夏は神奈川県津久井内郷村に出張す
 新渡戸〔稲造〕博士を中心とせる郷土会は本年夏季中の記念事業として休暇を利用し地理、歴史、理科等の専門家が各自地方の調査用紙を作り
▲此様式を 実地の当りて研究する為め研究材料の豊富なる一村を選択したる結果神奈川県津久井内郷村を以て之〈コレ〉に充つる〈アツル〉事とし此処〈ココ〉にて全村の生活状態、建築、河水〈カスイ〉其他全般に亘り仔細に研鑽する由〈ヨシ〉一行は新渡戸、三宅(驥一)、草野(俊一)の三博士〈ハカセ〉、柳田〔國男〕貴族院書記官長、石黒〔忠篤〕、小平〔権一〕両農商務商農務局事務次官、田中〔信良〕鉄道院副参事、中桐〔確太郎〕早大
▲分科教授 正木〔助次郎〕東京府第三中学教諭、陸軍技師田村鎮外〈ホカ〉数氏にして滞在期間は来る十五日より二十五日迄の十日間、宿泊所は内郷村正覚寺〈ショウカクジ〉なりといふが内郷村は相模川〈サガミガワ〉の上流道志川〈ドウシガワ〉との合流地点に近く吉野与瀬の古駅に隣り〔接し〕有名なる石老山下〈セキロウサンカ〉なり

 句読点がほとんどなく読みにくいが、これが、当時の新聞記事は、これが一般的であった。
 さて、この段階にいたると、参加者、日程、宿舎などが、かなりハッキリしてきたことがわかる。ただし、記事に挙げられた参加予定者と、実際の参加者との間には、若干の異動があった。
 内郷村の場所についても、短い紹介がおこなわれている。相模川の上流で、道志川が合流するあたりといってもわかりにくいが、相模湖ピクニックランドのあたりいえば、位置がつかめる方もあろう。
 引用記事中、「吉野与瀬の古駅」とあるのは、甲州街道の吉野宿および与瀬宿の意味である。当時、内郷村から最も近い鉄道の駅は、中央本線の与瀬駅(現在の相模湖駅)であった。
 調査は始まったのは、八月一五日であった。参加者のひとりである小田内通敏(早稲田大学講師)は、その日の一行の様子を、次のように生き生きと描写している。

 一行の大部は飯田町駅から乗車したが悉く〈コトゴトク〉揃ったのは新宿駅、十人十色の打装なれど心は同じ内郷村、吉祥寺・境両駅を過ぐる頃、窓外広き武蔵野農村の眺〈ナガメ〉ははやくも一行の心をそそり、あの作物は何、桑の仕立方はどうのとそろそろ調査の練習が始まった。多摩川を渡り日野・豊田両駅を通ると、南多摩の山影は南の窓に落ち、山麓の農家の厳しき構えは、はや武蔵野農村のそれと異れるを感ぜしめた。南の窓から北の窓に吹き抜くる風も一際涼しく、程遠からぬ内郷村の気分もさこそと思われた。
与瀬駅に着き、村長や校長を始め村の有志に迎へられつつ南に桑畑の間を下り〈クダリ〉、流〈ナガレ〉速き桂川に架った釣橋の上に立った時、自分は一種の馴しさ〈ナツカシサ〉と嬉しさを感じたが、一行の顔を窺くと何れも包みきれぬ喜〈ヨロコビ〉と希望とをあらはし、佐藤〔功一〕君などは巧に柳田君の得意な時のヂェスチアを語っていた。

 これは、『都会及農村』第四巻第一一号(一九一八年同年一一月)に掲載された「内郷村踏査記」の一部である。ただし、原文を参照することができなかったので、『相模湖町史 民俗編』から重引させていただいた。引用文中、「打装」は「扮装」の誤植ではないかという気がしたが、そのままにしておいた。【この話、さらに続く】

今日の名言 2012・9・16

◎あの国難は、いわば自作自演の国難ではなかったか

 脚本家の早坂暁〈ハヤサカ・アキラ〉さんの言葉。本日の日本経済新聞「文化」欄より。早坂さんのいう「あの国難」とは、元寇と太平洋戦争の双方を指す。早坂さんは、いわば直観の提示にとどめているが、これは検証に価する大きな問題提起であろう。

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