◎柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか
話を「内郷村村落調査」(一九一八)に戻す。柳田國男は、この調査を「失敗」として認識していたことはすでに紹介したが、彼はどのような意味で、この調査を失敗と認識したのか。その柳田のその認識は、はたして妥当だったのか。とりあえず問題にしたいことは、このあたりである。
結論を先に言ってしまえば、柳田は、この調査が「失敗」に終わった理由を、正しく捉えることができなかった。したがって、この「失敗」から適切な教訓を得ることもできなかった。一方、この村落調査に深く関与しながら、調査そのものには参加できなかった農政学者の小野武夫には、この「失敗」の本質が見えていた。そのことを、遠回しな言い方で柳田に伝えようとしたのが、小野の『農村研究講話』(改造社、一九二五)であった。――このあと指摘してゆきたいのは、だいたいこんなところである。
順に説明していこう。『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)によれば、柳田は、村落調査前の一九一八年(大正七)五月二二日、内郷小学校校長・長谷川一郎あてに、次のような手紙を送っている。
村調査のこと、他村にては我々の趣旨を村有志に徹底し得るや否やおぼつかなく存じ候。もし貴下〔長谷川校長〕にして斯る〈カカル〉機会に周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考〈カンガエ〉ありて、村内御知友の賛成を得られ候見込あらば、来月十二日の郷土会に於て、第一回の調査地を内郷に撰定することを改めて提議可仕〈ツカマツルベク〉候が如何〈イカン〉。項目莫大〈バクダイ〉にて一見人を脅かすものあれども、我が会員五六人もかかるならば、さして大さわぎを要せずして要領を得可申〈エモウスベク〉、其為〈ソノタメ〉村に及ぼす迷惑は、案外少なかるべしと信じをり候
こういう手紙を読むと、柳田國男という人は、なかなかに渉外能力があったという感想を抱く。ただし、この文面にすでに、今回の調査が持つことになるであろう性格があらわれている。
ひとつは、「村有志」、「村内御知友」という言葉である。こうした調査を村が受け容れるか否かは、村有志や村内御知友の意向によって決定しうるはずだという発想が、柳田にはある。「周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考ありて」という言葉も、当然、そうした発想から出てきている。「内郷村誌」を無料で作る良い機会だという言葉は、もちろん村の中枢部に向けたメッセージなのである。そこには、実際の調査の対象となる村民の視点は、ほとんど抜け落ちている。「内郷村誌」を作るかどうかは、おそらく一般村民の関心事ではなかったであろう。
六月一三日、柳田は、再び長谷川一郎あてて手紙を書く。この手紙も、『相模湖史 民俗編』から引用させていただく。
先日は初物の鮎早々御恵贈を忝し〈カタジケナクシ〉、殊に御付近の風光など物語もして一同〔柳田の家族か〕賞玩、深く御芳志を謝し申候。
偖〈サテ〉、昨十二日の郷土会にて兼て〈カネテ〉の件協議仕〈ツカマツリ〉、貴意を伝へ候処、何れも是非この新しき試〈ココロミ〉を実現し度〈タク〉、希望仕〈ツカマツリ〉候。時期は八月十五日―二十五日の十日間位が尤も〈モットモ〉多数の参加を得るやうに候。就ては近日、日返りにて参上、直接御伺〈オウカガイ〉申上〈モウシアグ〉べく候へ共〈ソウラエドモ〉、左の件も予め〈アラカジメ〉、二三の御友人とも御相談なしおかれ度、打入て御依頼申上候。
一、人数は十人内外、中には二三日にて往返〈オウヘン〉するもあれど、多くは引つづき滞在致候。
一、原則として、村より金銭は勿論のこと勤労の援助なども受けぬこと。
一、野営もいとはざる大決心なれども、どこか宿舎を貸与(有料)せらるる向〈ムキ〉は有之〈コレアル〉まじきや。
一、分宿も結構なれども、炎暑の頃なれば寺か何かの涼しい処が借りられて、夜分静かに休養が出来るならば、一同大悦なるべきこと。
一、寝具食料の如きも、中々御地にてととのはぬものは全部持参差支へ〈サシツカエ〉なきに付、予め限度御見込を示されたきこと。
一、但、小生始め何れも如何なる不自由にも耐へ得る筈〈ハズ〉。
一、食事世話人二人雇度〈ヤトイタク〉希望。
一、旧新の文書類は、出来るだけ多く披見〈ヒケン〉を許され度〈タキ〉こと。
一、遠慮をせず且つほらを吹かぬ若干の村老たちへ御紹介を乞度〈コイタキ〉こと。
一、青年諸君とも会談は大に望むも、少し時間に不足を感ずる際なれば、一切の集会類はお見合せを乞ふこと。
一、酒類は絶縁のつもりに候こと。
一、知事〔神奈川県知事〕公には先日手紙の序〈ツイデ〉に一寸申入れたるも、いよいよの節は貴下より郡長〔津久井郡長〕にお話被下度〈クダサレタキ〉事。
一、而も〈シカモ〉新聞屋には出来るだけおそく迄〈マデ〉知らせぬこと。
一、来週位には此方より小野〔武夫〕君又は小生参るべきに付〈ツキ〉、御多用中決してそちらよりお出かけ被下〈クダサレ〉まじきこと。
右、何分御勘考を念じ候。 草々不一
六月十三日 國男
オルガナイザー、あるは実務家としての能力も相当なものである。文中、「打入て」とあるのは、「折入つて」の誤植ではないかと思われたが、そのままにしておいた。
柳田はここで、内郷村有志に対して、細かい気配りを示しているが、やはりこれは、村内有志(有力者)に対しての気配りであって、実際の調査の対象となる一般村民に対する気配りではない。
最後のほうにある「知事公には先日手紙の序に一寸申入れたるも、いよいよの節は貴下より郡長にお話被下度事」という一文が、いかにも偉そうである。柳田には、「貴族院書記官長」という身分があるから、今回の調査のことを、神奈川県知事(有吉忠一)にあらかじめ手紙で知らせることもできたろう。ここで柳田は、知事には知らせてあるが、郡長にまでは知らせていないので、郡長への連絡が必要だと思われたら、そちらから頼むと言っているのである。
また柳田は、「勤労の援助」は受けぬと言っているが、村民の心理を考えた場合には、勤労の援助は辞退すべきではなかったように思う。「一切の集会類はお見合せを乞ふ」という言い方も、どうかと思う。偉い人がたくさん来るというのであれば、村民としては、集会のひとつも期待するであろう。ここでの表現は、「村民向けの講演等を、本調査の終了後、別の機会を設けて実現させたい」あたりにしておくべきであった。
柳田國男に、「村民」という視点が欠落していた。このことが、この調査の「失敗」に結びついたのではないだろうか。【この話、続く】
今日の名言 2012・9・20
◎新聞屋には出来るだけおそく迄知らせぬ
柳田國男の言葉。1918年6月13日、内郷村の長谷川一郎校長に送った手紙より。上記コラム参照。「新聞屋」というのは、新聞社あるいは新聞記者に対する蔑称である。新聞社に対して、そうした蔑称を使いながら、新聞が内郷村の調査を大きく報じるであろうことを予想し、またそれを期待している。柳田國男という人物のある一面を示している言葉と言えよう。