礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

呉清源さんと世界紅卍字会

2014-12-11 04:16:43 | コラムと名言

◎呉清源さんと世界紅卍字会

 先月三〇日、棋士の呉清源〈ゴ・セイゲン〉さんが亡くなられた。一〇〇歳だったという。このことが報じられたのは、その翌日、すなわち一二月一日だったと記憶する。
 それから一週間たった一二月八日(土)、高円寺の古書展で、『歴史読本』第五巻第七号(一九六〇年七月号)を手に取った。目次に、「道院と世界紅卍字会 囲碁九段 呉清源」とあったので購入。古書価一〇〇円(税込)。
 呉清源さんは、敗戦後の一時期、元横綱の双葉山らとともに、「璽宇」〈ジウ〉という新興宗教の信者だった。そのことは昔から知っていたが、呉さんが「道院」という宗教あるいは世界紅卍字会という組織に関わっていたことは、初めて知った。
 この記事を一読したあと、インターネットなどで調べてみると、世界紅卍字会というのは、道院という宗教団体に付属する慈善団体であり、世界紅卍字会自体は、宗教団体というわけでもないようだ(同会の設立趣旨、あるいはそのネーミングは、世界赤十字社を意識していたはずである)。ただし、呉清源さんは、記事の中で、世界紅卍字会を、「宗教啓蒙運動を行なう慈善団体」と規定している。
 新興宗教「璽宇」は、戦中の一九四一年(昭和一六)に成立した。この成立には、世界紅卍字会の呉清源さんも関与していたという。この詳しい経緯、あるいは、世界紅卍字会と「璽宇」の関係などについては、まだ調べていない。ちなみに、新興宗教「大本」の出口王仁三郎〈オニサブロウ〉、黒龍会の内田良平、合気道の植芝盛兵〈ウエシバ・モリヘイ〉らも、世界紅卍字会の会員だったという(ウィキペディア「世界紅卍字会」)。
 そのあたりのことは暫く措き、呉清源さんが半世紀以上前に書いた「道院と世界紅卍字会」という文章を紹介してみよう。

 道院と世界紅卍字会   呉 清源
 大正十二年〔一九二三〕関東大震災の時のことである。当時南京駐在領事をしていた林出〔賢次郎〕氏の許に、「世界紅卍字会」という慈善団体から約一千石の救援米がとどけられたことがあった。
 話をよく聞いてみると、これは「道院」の乩示〈フウチ〉というもので日本の天災を救えというお告げによるものであったという。
 林出氏は直ちに救援米を日本に送ると共に、この不思議な、しかも奇篤な贈主について疑問をもってたずねてみた。よく調べてみると、それには次のような事情が秘められていた。
 山東省、浜県〈ヒンケン〉という町に一“尚真人”(唐の時代の人)を祭った祠〈ホコラ〉があった。今から四、五十年前、信仰心の厚い二人の役人が、この荒れ果てた祠を修理し、神壇を設けて神仙の降臨を祈っていると、或る日この“尚真人”を通じて、老祖(宇宙の創造神)の降臨があった。
 老祖はいろいろと神託(教え)を授けたが、その通りことを運ぶと、みな好結果をもたらして、県政も大いに上るようになったのである。
 やがて二人は職を辞して、この老祖の教えを一般民衆の中にひろめようと決心した。これがそもそも「道院」のはじめである。
 後にだんだん信者が増して、一つの宗教啓蒙運動を行なう慈善団体として発達した。その活動団体を「世界紅卍字会」といっている。
 戦時中は中国全土に二百カ所以上の支部があり、政・財界の一流人が各地の慈善救済運動で華々しく活躍した。また、終戦時の混乱期における彼らの活躍は、赤十字をしのぐものがあったようだ。現在は香港に本部を置き、台湾・マレー・シンガポール・タイなど、東南アジア一帯の広い範囲にわたって支部をもっている。【中略】
 私は昭和十年〔一九三五〕当時、宗教というものについていろいろ考えるところがあって、たまたま天津を訪れた折、庸法(新聞社)の社長李氏から、道院について聞かされた。
 以来各地の道院の支部をも訪ねて、実際にその乩示の奇蹟もみているが、現在は東京に壽備処(道院準備会・会長は大島豊氏)があり、そこに属している。
 会員は宗教、民族、人種の差別はないが、老祖の教え(もちろん漢文体)を理解できる学識を持ち、慈善をほどこせるだけの財産を持っていなくてはならない。
 壽備処では、乩示を受けるべき事柄(政治および私事に関することは許されない。主として慈善事業問題)を会員間で相談し、結論が出ると香港の本部に送る。神様に伺いをたてるわけだ。そこで例の乩示が行われてお伺いに対する解答がつけられて送り返される。
 宇宙の創造神老祖は、四五十年前に、今のような世界の混乱を予想し、末世の時代の来ることを憂えて霊となって現われたわけである。
 人々がみな正しい心を持ち、真理の大道がわかると争いも起らず、現代の危機も救われる。
 世界紅卍字会の主旨は、各人が修業し自分の心を清めるとともに、マコトをもって慈善事業を行なうということにある。
 関東大震災の時の救援米も、道院の精神を理解して、初めてうなづげる出来事であった。
 老祖はこうした場合、人間の修業するための一つの対象となって現われるのである。
 ゆえに「世界紅卍学会」の活動に関して、神霊現象のみに興味を注ぐのは誤りも甚だしいといわねばならない。  (囲碁九段

*昨日のコラム「伊藤尚賢が関わった医学通俗書79冊」に対して、「尚賢の孫」様から、再びコメントをいただきました。ありがとうございました。コメントのご紹介は、数回のちに。

*このブログの人気記事 2014・12・11

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伊藤尚賢が関わった医学通俗書79冊のリスト

2014-12-10 05:54:37 | コラムと名言

◎伊藤尚賢が関わった医学通俗書79冊のリスト

 昨日の続きである。伊藤尚賢(一八七四~一九二八)という人物について、具体的なことがわかってきた。彼は医師であり、医学系のジャーナリストであり、また医薬品の製造販売にも携わっていたらしい。
 国立国会図書館のデータベースによれば、伊藤尚賢の編著書は、次の七九冊である。新しいものから古いものへという順番に並んでいる。

1 こと典百科叢書第19巻 大空社 2011.7. 〔下記44番の復刻〕
2 性教育研究基本文献集第2巻 大空社 1990.12. 〔下記23番の復刻を含む〕
3 家庭医学百科辞典―― 素人療法 伊藤尚賢著 己羊社出版部 1927(昭和2)
4 諸病営養療法 伊藤尚賢編 実業之日本社 1927(昭和2)
5 誰にも判かる医学の知識 伊藤尚賢著 聚文館出版部 1927(昭和2)
6 薬になる食物と薬用植物 伊藤尚賢著 実業之日本社 1926(大正15)
7 健康保全日日の衛生講話 伊藤尚賢著 文録社 1926(大正15)
8 万病回春素人治療学 伊藤尚賢著 一誠社 1926(大正15)
9 思春期に於ける性的関係 伊藤尚賢著 隣人社 1925(大正14)
10 通俗医科大学講座第1-10 伊藤尚賢著 文録社 1925(大正14)
11 最新家庭医学 伊藤尚賢ほか著 一誠社 1924(大正13)
12 素人診断病気の特徴調べ 伊藤尚賢著 実業之日本社 1924(大正13)
13 男女性的障害と神経衰弱 伊藤尚賢著 東華書院 1923(大正12)
14 通俗胃腸病治療法 伊藤尚賢・杉本東造編 健康相談所 1923(大正12)
15 なるほど 増補改訂60版 松本重彦・伊藤尚賢編 一誠社 1923(大正12)
16 活きんとするものゝ為に 伊藤尚賢・森繁吉著 一誠社 1922(大正11)
17 内臓健康法 伊藤尚賢ほか編 健康相談所 1922(大正11)
18 病気相談十二ケ月 伊藤尚賢著 東華書院 1922(大正11)
19 衛生警察全書 菊池林作・伊藤尚賢著 大日本衛生警察協会 1921(大正10)
20 心臓の衛生―― 附・肝臓の衛生 竹中繁次郎・伊藤尚賢著 実業之日本社 1921(大正10)
21 実際問答衛生相談 伊藤尚賢著 健康の研究社 1921(大正10)
22 性慾研究と其疾病療法 羽太鋭治・伊藤尚賢著 実業之日本社 1921(大正10)
23 父と子の性慾問答――如何に性慾に就て教ふべきか 羽太鋭治・伊藤尚賢編 新橋堂 1921(大正10)
24 通俗最新花柳病療養法 羽太鋭治・伊藤尚賢編 新橋堂 1921(大正10)
25 一人一人の体力精力能力増進法 伊藤尚賢・森繁吉著 一誠社 1921(大正10)
26 有益食物と有害食物の新研究 岡崎桂一郎述、伊藤尚賢編 新橋堂 1921(大正10)
27 飲食物研究叢書第1編(喰合せの研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
28 飲食物研究叢書第10編(神経衰弱病者飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
29 飲食物研究叢書第2編(危険な飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
30 飲食物研究叢書第3編(断食減食飽食の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
31 飲食物研究叢書第4編(小児飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
32 飲食物研究叢書第5編(婦人飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
33 飲食物研究叢書第6編(年齢体質季節に関する飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
34 飲食物研究叢書第7編(体力精力増進飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
35 飲食物研究叢書第8編(胃腸病者飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
36 飲食物研究叢書第9編(呼吸器病者飲食物の研究) 伊藤尚賢編 新橋堂 1920(大正9)
37 代用食の研究 伊藤尚賢編 東亜堂 1920(大正9)
38 妊娠より分娩まで 高橋政秀・伊藤尚賢著 新橋堂 1920(大正9)
39 肺病治療法五十種 菊池林作、伊藤尚賢著 新橋堂 1920(大正9)
40 病気の事は何でも分る――疾病大字典 伊藤尚賢編 新橋堂書店 1920(大正9)
41 万病家庭自療法 伊藤尚賢編 日新閣 1920(大正9)
42 医学的秘伝百法 伊藤尚賢編 京橋堂書店 1919(大正8)
43 薬になる食物と病人の食物 伊藤尚賢著 実業之日本社 1919(大正8)
44 健康法辞典 伊藤尚賢編 丙午出版社 1919(大正8)
45 生殖器障害と其救治法  伊藤尚賢編 矢口書店 1919(大正8)
46 通俗肺結核治療養生法 額田豊著、伊藤尚賢編 新橋堂 1919(大正8)
47 通俗皮膚病治療養生法 岡村竜彦述、伊藤尚賢編 新橋堂出版部 1919(大正8)
48 なるほど 松本重彦・伊藤尚賢編 一誠社 1919(大正8)
49 肺炎と其他の肺疾患 続家庭医学叢書第1編 宮原立太郎著、伊藤尚賢編 新橋堂出版部 1919(大正8)
50 胃膓健康法 健康法研究叢書第3編 深瀬恒太著、伊藤尚賢編 新橋堂 1918(大正7)
51 衛生滋養経済美味理想食物 伊藤尚賢著 一誠社 1918(大正7)
52 強肺法 健康法研究叢書第2編 竹中繁次郎著、伊藤尚賢編 新橋堂 1918(大正7)
53 健脳法 健康法研究叢書第1編 森繁吉著、伊藤尚賢編 新橋堂 1918(大正7)
54 天然利用健康増進法 伊藤尚賢著 実業之日本社 1918(大正7)
55 九種伝染病の話 家庭医学叢書第48編 森有道著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
56 誰にも出来る脳力増進と記憶法 伊藤尚賢編 崇文堂 1917(大正6)
57 通俗疾病大字典 伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
58 糖尿病と腎臓病の話 家庭医学叢書第31編 額田豊著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
59 有効和漢薬療法の話 家庭医学叢書第35編 岡崎桂一郎著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
60 理学的療法の話 家庭医学叢書第47編 宮原立太郎著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
61 理想的飲食の話 家庭医学叢書第50編 横手千代之助著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1917(大正6)
62 眼病の話 家庭医学叢書第27編 井上温著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1916(大正5)
63 呼吸器病の話 家庭医学叢書第28編 森友道著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1916(大正5)
64 実験有効民間療法 伊藤尚賢著 新橋堂書店 1916(大正5)
65 美容法の極意 高橋毅一郎・伊藤尚賢著 東亜堂書房 1916(大正5)
66 肛門病の話 家庭医学叢書第10編 森直卿著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
67 呼吸静座法 体力養成叢書第6編 伊藤尚賢述 新橋堂 1915(大正4)
68 小児病の話 家庭医学叢書第2編 唐沢光徳著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
69 神経衰弱の話 家庭医学叢書第4編 山田鉄蔵著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
70 耳鼻咽喉病の話 家庭医学叢書第3編 千葉真一著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
71 脳力養成と神経衰弱自療法 伊藤尚賢著 文盛館 1915(大正4)
72 肺結核の話 家庭医学叢書第5編 額田豊著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
73 皮膚病の話 家庭医学叢書第6編 岡村竜彦著、伊藤尚賢編 新橋堂書店 1915(大正4)
74 生殖器衛生顧問 伊藤尚賢著 朝野書店 1914(大正3)
75 神経衰弱自療法―― 附・記憶力増進法 伊藤尚賢著 文潮社 1913(大正2)
76 看病と養生 家庭百科全書 第43編 伊藤尚賢著 博文館 1912(大正1)
77 気海丹田吐納法 川合清丸著、海野景影実験、伊藤尚賢編 東京崇文館 1912.3.(明45.3.)
78 神経衰弱自療法と記憶力増進術 伊藤尚賢編 崇文館 1912.4.(明45.4.)
79 男女学生健康法 佐藤得斎・伊藤尚賢編 博文館 1907(明治40)

 お孫さんのコメントに、「『薬になる食物と薬用植物』(大正15年刊行)という父の本」とあったが、これは、上記の6番である。また、同じく、「『なるほど』なんぞといった生活百科全書」とあったのは、15番、48番である。
 それにしても、短い期間に、大量の本を出版している。当時、それだけ、健康法に関する、この種の本の需要があったということであり、編著者の伊藤尚賢に、そうした需要に応えうる企画力と執筆力があったということである。
 伊藤は、これらの本を、すべて「自分で書いた」わけではないだろう。しかし、「○○○○著、伊藤尚賢編」となっている本の多くは、実質的には伊藤が書いていた可能性が高い。また、伊藤が携わった本で、このリストには載っていない本(つまり、国立国会図書館に架蔵されていない本)も、かなりあると思われる。
 いずれにしても伊藤は、大変な数の本を書いていたわけであり、お孫さんのコメントに、「右腕が疲れるので、友人の医師杉本清吉氏に注射して貰った」とあったのも、納得できる。

*このブログの人気記事 2014・12・10

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伊藤尚賢と東京大塚の健康相談所

2014-12-09 06:57:35 | コラムと名言

◎伊藤尚賢と東京大塚の健康相談所

 昨年の一二月一七日に私は、このブログに「衛生新報社と伊藤尚賢」と題するコラムを書いた。その前半部を以下に、再度、掲げる。

 一昨日〔二〇一三年一二月一七日〕のコラムで、衛生新報社編纂の『物理的健康増進法』(新橋堂書店、一九一七)という本を紹介した。その際、この本が、「家庭医学叢書」の第三七編であることを指摘するのを忘れていたので、ここで補足しておきたい。
 また、この本は、「衛生新報社編纂」となっているが、実際には、奥付に「編纂者」として名前が挙がっている同社編輯局の伊藤尚賢〈ナオカタ〉が「執筆」したものと、ほぼ推定されるということも補足しておく。
 ところで、この伊藤尚賢だが、今日では、ほとんど忘れられてしまった人物であり、生没年すらわからない。しかし、大正期を中心に、多くの著書を残しており、研究してみる価値のある人物ではないかと思う。たとえば、一九一六年(大正)に刊行された『実験有効民間療法』(新橋堂書店)などは、当時の「民間療法」を網羅的に紹介しており、史料としても貴重であるし、今日読んでも、なお有益な部分があるような気がする。

 コラムでは、このようなことを書き、「伊藤尚賢という人物について、博雅のご教示を乞う」という言葉で締めくくった。
 ところが、その後、一年近くたった昨日、伊藤尚賢のお孫さんを名乗られる方から、このコラムに対して、コメント投稿があった。以下に、そのコメントを引用させていただく。

 初めまして。お尋ねの伊藤尚賢氏は、私の祖父伊藤尚賢(しょうけん)と同一人物ではないかと思います。亡父の書き遺したものによりますと、尚賢は「明治7年(1874)秋田県の横手で生まれたもの、と推定」されます。
 尚賢は伊藤家18代目と言われていますが、定かではありません。「伊藤家は出羽久保田(秋田)藩の佐竹侯の分家出羽湯沢の佐竹氏に医者として使えたそうだが、いつ頃から医業にたずさわるようになったか分からない。」とか。尚賢の祖父「為仙はとくに名医の評判が高」かったそうですが、明治になって尚賢の父は町医者になりました。
「尚賢の幼、少、青年時代のことはほとんど分かっていない。」というのですが、「中村千代松氏が社長であった「衛生新報社」の記者を勤めたことがある。」「明治37年(1904)7月の日付で「人民新聞社」の「本社庶務主任兼広告係ヲ嘱託ス」という辞令が出てきた。」と父は記しています。
「医師試験に合格後、東京小石川で開業し、関東大震災前に小石川区大塚仲町36番地で、「健康相談所」を開設、傍ら「救世薬園」の看板で、乳の出る薬や神経衰弱の薬などを調剤・販売」、「漢方に当時すでに着目して、東西医学の融合に努めた」そうです。
「小学校の校医までも引き受け」「大塚医師会の役員」を務めました。
「医業の傍ら、通俗医学書を良く書いた。」「本は全国で読まれ」「(救世薬園の薬は)当時日本領であった台湾や朝鮮からも注文が舞い込」んだといいます。
「医学書のほかに「なるほど」なんぞといった生活百科全書のようなものも書いている。」「本格的な医学の研究もモルモットを使うなどして行い、その研究報告が薄いpaperとして残っていた。」「「漢方と民間薬百科(大塚敬節著)の「民間薬の研究資料」の項に「薬になる食物と薬用植物」(大正15年刊行)という父の本が掲っていた。」と書かれています。
「父は通俗医学書をはじめ、色々な本を書き、それで右腕が疲れるので、友人の医師杉本清吉氏に注射して貰ったところ、消毒が不完全であったため、菌が這入って丹毒になり、腕が腫れてしまった。昭和3年(1928)3月27日に死去。」
 53歳の若さでした。長男であった私の父が小学校5年生の時であったそうです。
(「」内は父の書き物よりの引用です。)

 というわけで、非常に貴重な情報提供であった。「尚賢の孫」さん、ありがとうございました。
 一年前のコラムでは、伊藤尚賢の尚賢の読みを〈ナオカタ〉としたが、これは、国立国会図書館のデータに従ったものである。しかし、お孫さんからの情報によれば、〈ショウケン〉という読みが正しいようだ。
 また、一年前のコラムでは、「生没年すらわからない」と書いたが、今回の情報提供によれば、生没年は、「一八七四~一九二八」である。
 今回の情報提供については、いくつか補足できることがあるが、これは次回。

*このブログの人気記事 2014・12・9

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藤村操青年と「ホレーショの哲学」

2014-12-08 05:55:16 | コラムと名言

◎藤村操青年と「ホレーショの哲学」

 藤村操のいわゆる「巌頭の感」に、「ホレーショの哲学」という言葉が出てくる。この言葉は、シェイクスピアの『ハムレット』に登場する脇役(ハムレットの親友)・ホレーショ(Horatio)に由来するという。以下は、言語郎さんのブログにあった「華厳の滝投身自殺と『ホレーショの哲学』(改訂版)」という記事(二〇〇七・五・二三)からの引用である。

「巌頭乃感」と題した遺書は、滝のかたわらのナラの大木の幹に書かれていた。「人生、曰く不可解」という文言で知られているが、文中に「ホレーショの哲学、ついに何等のオソリティーに価するものぞ」という一節がある。旧制一高の超エリートには及びもつかない凡才ながら、昭和30年代後半に釧路の片田舎の高校生だった私は、青春時代特有のリリシズムからか、この「巌頭乃感」の全文を諳んじていた。だが、「ホレーショの哲学」が長い間分からなかった。
 ホレーショという名の哲学者ないしは学派が実在するのか。なにか参考文献はないものか。ホレーショが、実在した哲学者ではなく、シェークスピアの『ハムレット』の脇役的な登場人物と知ったのは、中年になってからである。
 疑問はしかし、完全には氷解しなかった。『ハムレット』を通読しなおしてみても、ホレーショがどんな哲学――それも読者の一人を厭世自殺させるような人生観――の持ち主なのかさっぱりつかめなかったからだ。該当の原文は、主人公の王子・ハムレットが親友でもある臣下のホレーショに対し
"There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy"
と語る個所だ(第1幕、第5場)。
 字句通りに訳せば、「ホレーショよ。天と地の間には君の哲学で夢想されるよりはるかに多くのものがあるのだ」となる。つまり"your philosophy"を「君の哲学」=「ホレーショの哲学」と読んでもおかしくないように思える。ところが、これが誤訳というのだから翻訳は一筋縄ではいかない。
 
 言語郎さんの翌日のブログによれば(二〇〇七・五・二四の記事)、この"your philosophy"を、「君の哲学」と訳すのは誤訳で、「例の哲学」、「いわゆる哲学」などと訳すべきだという。
 そうだったのか。ホレーショというのが、ハムレットに登場する人物であることは知っていた。しかし、「ホレーショの哲学」が、誤訳に基づいたものであることは、昨日、言語郎さんのブログに接して、初めて知らされた次第である。それにしても、インターネットというのは、ありがたい。まさに情報の宝庫である。
 さて、以下に再度、言語郎さんのブログから、引用させていただこう(二〇〇七・五・二四の記事)。

 すぐれた翻訳家でもある英文学者の行方昭夫氏も、岩波書店の同時代ライブラリー・シリーズ『英文快読術』の中の「既知の語でも辞書を引く習慣を」と説いた行(くだり)で「ホレーショの哲学」を取り上げ、こう述べている。
[ 藤村青年はyourを「きみの」と解したのであった。この事件は明治36年のことであるから、当時の英和辞書には出ていなかったと思われるけれど、今の辞書なら何でも教えてくれるから、yourを引けば必ず「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」と説明されている。 ]

 これによれば、英文学者の行方昭夫〈ナメカタ・アキオ〉さんは、藤村操青年が、ハムレットを原文で読んでいて、その際に、yourを誤訳したと捉えているようである。
 しかし、藤村操青年は、本当に、ハムレットを原文で読んでいたのだろうか。むしろ、"your philosophy"を「君の哲学」(=「ホレーショの哲学」)と誤訳した翻訳書があって、それを読んでいたと見るほうが自然ではないか。
 このように言うのには、ひとつ根拠がある。藤村青年の投身した日の六日前に刊行された『天人論』(朝報社)という本がある。『万朝報』の記者・黒岩涙香(周六)が書いた哲学書である(一昨日のブログ参照)。同書の二八ページに黒岩は、三つの「名言」を引用しているが、その最初にあるのは、次の名言である。

 ホレーショよ、天地には汝が哲学にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト

「砂翁」とあるのは、あるいは「沙翁」の誤植か。いずれにしても、シェークスピアのことである。
 さて、黒岩涙香は、この言葉を、誰の翻訳から引いたのだろうか。これは、まだ調べていないが、できれば、博雅のご教示を得たい。いずれにしても、この当時、"your philosophy"を「汝が哲学」というように誤訳した翻訳家がいたことは間違いない。そして、ハムレットのこの台詞が、誤訳されたままで、引用、再引用されていた可能性も、十分に考えられる。あるいは、その誤訳に従って、「ホレーショの哲学」なるものがあるかのような誤解が、藤村操を含む一部の識者に広がっていた可能性もある。
 いずれにしても、藤村操の「巌頭の感」に「ホレーショ」という名前が出てくるのを知って、いちばん驚いたのは黒岩涙香であったに違いない。

*このブログの人気記事 2014・12・8

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那珂通世博士、藤村操の死に痛哭す

2014-12-07 04:40:55 | コラムと名言

◎那珂通世博士、藤村操の死に痛哭す

 東洋史学者として知られる那珂通世博士は、華厳の滝に投身した藤村操の叔父にあたる。那珂博士は、一九〇三年(明治三六)五月二三日、つまり、投身事件の日の翌日、甥の自殺を悼む文章を草し、これを『万朝報』に送った。黒岩涙香は、これに短い解説を付して、同紙に掲載した。
 本日は、この追悼文を紹介してみよう。引用は、「現代日本文学全集」第五一巻、『新聞文学集』(改造社、一九三六)より。なお、同書は、この記事が『万朝報』に掲載された日付を明記していない。

 那珂博士の甥華厳の瀑に死す 自転車博士の異名〈イミョウ〉あるばかり斯道に嗜み〈タシナミ〉深き高等師範学校教授那珂通世文学博士の甥に方る〈アタル〉藤村操(十八)といふは第一高等学校の生徒にて同学中俊秀の聞えある青年なりしが去〈サル〉二十日家出をなし終に日光は華厳の滝壷に身を投じて悲酸なる最期を遂げたり右につき叔父那珂博士はわが社宛て左〈サ〉の如き悲痛の文を送られたり其青年の平生〈ヘイゼイ〉死因等明かに記されたれば其全文を掲ぐる事となせり
 嗚呼〈アア〉哀い〈カナシイ〉かな、痛しい〈イタマシイ〉かな、我が兄の子藤村操、幼にして大志あり、哲学を講究して、宇宙の真理を発明し〔明らかにし〕、衆生〈シュジョウ〉の迷夢を醒まさんと欲し、昨年より第一高等学校に入り、哲学の予備の学を修め居〈オリ〉たれども、学校の科目は、力を用ふるほどの事の非ず〈アラズ〉とて、専ら哲学宗教文学美術等の書を研究して居たりしが、去る二十日の夜、二弟一妹と唱歌を謡ひ、相撲を取り、一家愉快に遊び楽しみ、翌二十一日の朝、学校に行くとて出でたるまゝ、二十二日になりても帰らず、母大に〈オオイニ〉憂ひて、机の引出しを明けて見たるに、杉の小箱の蓋に『この蓋あけよ』と大書しあり、開いて見れば、七枚の半紙に、二弟一妹と近親五名と親友四名とに配賦すべき記念品と学校その外友人十余名に返すべき借用書籍の名とを(本木箱の番号までも書き添へて)委しく列記せり、『こは死を決したる家出なり』とて、急に大噪ぎ〈オオサワギ〉となり、親戚朋友の家へ電話電報にて問合せたれども、何れも『来らず』と云ふ、午後八時に至り『日光町小西旅館寓』として、郵書達し、『不孝の罪は、御情〈オナサケ〉の涙と共に流し賜ひてよ、十八年間愛育の鴻恩は、寸時も忘れざれども、世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば華厳の瀑〈タキ〉に投じて身を果す』との趣意を委しく告げこせる、余之を聞き、徹夜輪行して〔自転車に乗って〕日光に至らんと思ひ、駆け出したるが栗橋の渡しの夜の渡さぬに心付き、残念ながら下谷〈シタヤ〉より引返し、今朝(二十三日)の一番汽車にて操の従兄弟高頭正太郎氏と共に日光に至り、巡査車夫等と力を合せて華厳の瀑の上下を隈なく探したれば、瀑の落口〈オチグチ〉の上なる巨巌の上に蝙蝠傘〈コウモリガサ〉の地に植てる〈タテル〉あり、近寄りて見れば、大樹を削りて、左の文を書せり
 悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす、ホレーショの哲学竟に何等のオーソリテーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にて悉す、曰く『不可解』我この恨を懐いて煩悶終に死を決す、既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安ある無し、始めて知る大なる悲観は大なる楽観と一致するを
 樹の傍らには、傘の外〈ホカ〉に、大なる硯と墨と太き唐筆と大なるナイフとあり、此等の器具は、家を出づる時予め〈アラカジメ〉用意したりと見ゆ、その運筆の遒美〈シュウビ〉なるを見れば、巌頭に立てる時心中の従容〈ショウヨウ〉として安泰なることは察するに余りあり、鳴呼、余が如き楽天主義の俗人の甥に、いかなればかゝる極端の厭世家を生じたるか、思へば思へば、不可思議なり、巌角に攀じて〈ヨジテ〉瞰下せば〈ミオロセバ〉、六十丈の懸泉は、巌石を砕いて雷の如くに轟き、滝壷は、暴風雨の如き飛沫に蔽はれて見えず、かくて身の丈〈タケ〉五尺五寸余、眉目清秀にして、頬に微紅を帯び、平生孝友にして一家の幸福の中心と思はれし未来多望の好少年は去つて返らず、消えて痕なし、嗚呼哀いかな
 明治三十六年五月二十三日の夜
  中禅寺湖畔の旅館蔦屋にて
   叔父那珂通世哭して記す

 那珂通世は、自転車旅行を趣味とし、「自転車博士」の異名を持っていたという。二二日夜、一度は、自転車で日光に向かったというのは、いかにも自転車博士にふさわしい逸話である。
 それにしても、この一文は「名文」である。こういう名文で、その死を悼んでもらえた藤村操は、ある意味では幸せだったのかもしれない。また、その死は、『万朝報』の黒岩涙香の関心を引いた。これも藤村操にとっては、幸せなことだったのかもしれない。

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