礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三文字正平の証言「葬られた繆斌工作」

2017-05-11 06:04:50 | コラムと名言

◎三文字正平の証言「葬られた繆斌工作」

 このブログでは、かつて、小磯国昭内閣時の「繆斌工作」に関する証言を紹介したことがあった。また、東京裁判で小磯国昭の弁護人を務めた三文字正平〈サンモンジ・ショウヘイ〉についても触れたことがあった。
 連休中に古雑誌を整理していたところ、三文字正平が、「繆斌工作」について語っている文章を見つけた。『人物往来』第五〇号(一九五二年二月)、特集「昭和秘史・戦争の素顔」に載っていた文章、三文字正平「葬られた繆斌工作」である。本日は、これを紹介してみたい。なお、「繆斌工作」の繆斌〈ミョウ・ヒン〉は、人名である。

 葬られた繆斌工作   三文字正平【さんもんじ しようへい】

敗色濃し二十年の早春、重慶を通じる全面和平工作の最後の
絆は断切られた!この謎を究明する筆者は小磯国昭の弁護人

  小磯内閣のガン・重光の留任
 昭和十九年〔一九四四〕七月十一日、サイパンが失われた。もはや国民の誰の眼にも戦況は不利に映じた。この直後東条〔英機〕内閣は総辞職し、越えて同月十八日、朝鮮総督小磯国昭に大命が降下された。時に小磯は産業奨励の為黄海道〈コウカイドウ〉の山中にあったが、報を受けて十九日早朝京城に戻った。直ちに小磯に会った私は、「遂に貴方が起つ時が来ました。前内閣は戦争をした内閣だが、今度の内閣は戦争を終局する内閣ですよ。出来得るだけ速かに上京し、組閣して戦争を停止せねばなりません」と進言し、小磯も同意して必ず実現すると非常な意気込みで飛行機で上京し、私も後を追って上京した。
 上京してみると、小磯と米内〔光政〕との新内閣に前内閣から三閣僚が残っていた。蔵相石渡荘太郎〈イシワタ・ソウタロウ〉、軍需相藤原銀次郎、外相重光葵〈シゲミツ・マモル〉がそれである。これでは新内閣としても重要なポストを前内閣に押えられたようなものであり、私は小磯に対し「前に述べた様にこの内閣は戦争をやめる内閣であるのに、戦争を始めた前内閣の閣僚が居残ってることは、内閣の方針に添わぬことであり、又東条首相が辞職したのにその閣僚が留まるということは大義名分上からも宜しくないから留任三閣僚は直に辞職させねばならない」と強硬に進言した。
 小磯は米内と話し合ってそのことを決定した。ところが病気中の藤原銀次郎、石渡荘太郎は直ぐに辞表を提出したのに、重光だけは依然として出さない。その夜木戸〔幸一〕内大臣から米内に電話がかかり、翌日の昼、米内の秘書官が小磯に手紙を持参した。書かれていることは、「重光だけは残してほしい」ということだった。こうして重光留任のまゝ、小磯内閣は発足したが、大命を受けた時から意図した小磯の和平工得作は、悉く重光外相に反対され決定的な敗戦を目前にしてもがきながら、遂に空しく倒れたのである。
 さて、いかにして終戦を遂行するかということは重大問題であった。私は日時は記憶に薄いが、昭和十九年〔一九四四〕八月初旬頃だったと思う。総理官邸で小磯と会って、「終戦をやる第一の方法はソ連を通じて米英とするより外ないと思う」と話すと小磯も「自分も同感だが如何〈ドウ〉したらよいだろう」との事であった。そこで私は、
「外務大臣が貴方の意のまゝにならないで辞めないのだから、せめてソ連駐在の大使を代えてスターリンと直接肩でもたゝいて〝スターリン君もう戦争はやめようではないか〟といゝ得るような人物をソ連の駐在大使とし、スターリンを世界平和の神様にでもまつり上ける位の能力あるものを遣し〈ツカワシ〉、米英に対しては勿論、ドイツに対しても停戦を声明せしめて終戦に持って行くより外はないではないか」というと、小磯も大いに賛成で、「それでは君は誰がいゝと思うか」と訊いた。「例えば松方幸次郎さんの様な些細なことに拘泥しない人がよいと思う」と答えると、小磯は「自分は久原房之助〈クハラ・フサノスケ〉氏に松岡洋右〈ヨウスケ〉をつけてやりたいと思う」という案を出した。しかし松岡は当時病気が重くて到底旅行が出来ないので、結局広田弘毅〈コウキ〉氏の起用を考えていた。
 ところが重光外相はソ連大使の交替を承知しない、不承知だけではなく、既に木戸を通して上奏していた。九月半ば、私は小磯に対しソ連大使を更迭する旨を上奏する様すゝめ小磯は宮中へ参内したが、すぐに官邸へ戻って来た、「拝謁許されると小磯は一言も申上ないのに陛下は、ソ連大使を変えることは相成らんと仰せられた」ということである。これで中立関係にあるゾヴィエトを通じた和平工作は挫折したのである。しがし日毎に〈ヒゴトニ〉不利となる戦局の現状から和平への道は急がれた。しかも今や中国を通じて和平を計る以外に道はなくなった。そこで繆斌工作へと事は運ばれたのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・5・11(4・7・10位に珍しいものが)

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「近衛上奏文」の原文と流通している本文(その2)

2017-05-10 05:45:02 | コラムと名言

◎「近衛上奏文」の原文と流通している本文(その2)

 昨日の続きである。昨日、「近衛上奏文」の原文と、流通している本文とは、おそらく異なるものであろうと述べ、さらに、「流通している本文」のひとつとして、『終戦秘録2』(北洋社、一九七七)に収録さているものを紹介した。
 本日は、「流通している本文」のうち、異なるバリエーションのものを紹介してみたい。紹介するのは、大谷敬二郎著『にくまれ憲兵』(日本週報社、一九五七)に載っているものである。大谷敬二郎は、戦中、東京憲兵隊長の要職にあり、吉田茂らヨハンセン・グループの取調べに当たった人物である。その著書『にくまれ憲兵』の冒頭には、「吉田茂逮捕の真相」という章があり、その章末に【註】として、「近衛上奏文」の全文が紹介されている。「近衛上奏文」の「流通している本文」のひとつとして、紹介しておく価値はあるだろう。
『にくまれ憲兵』にある「本文」では、おおむね新漢字が使用されているが、「ソ連」の連、「連盟」の連のみは、旧漢字が使われている。ここでも、その形で引用した。「国体」という熟語については、引用にあたって、旧漢字に戻した。【  】内は、『にくまれ憲兵』の「本文」における原ルビを示している。

【註】
   昭和二十年二月十四日  近 衛 文 麿 上 奏 文 案
 敗戦は遺憾ながら、最早、必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾【かきん】たるべきも、英米の輿論は、今日迄の所、國體の変更にまで進み居らず、(勿論、一部には、過激論あり、又、将来、いかに変化するかは測知し難し。)従つて、敗戦だけならば、國體上は、さまで、憂ふる要なしと存候。
 國體護持の立前より、最も、憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に候。
 つらつら、思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向つて、急速度に進行しつゝありと存候。即ち、国外に於ては、ソ聯の異常なる進出に御座候。我国民は、ソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち、二段革命戦術採用以来、殊に、最近、コミンテルン解消以来、赤化の陰謀を軽視する傾向顕著なるが、これは、皮相安易なる見方と存候。
 ソ聯が究極に於て、其周辺諸国には、ソヴィエット的政権を樹立せんとして、著々、其工作を進め、現に大部分成功を見つゝある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭【ポーランド】に対しては、予め、ソ連内に準備せる波蘭【ポーランド】愛国者聯盟を中心に、新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼【ルーマニア】、勃牙利【ハンガリア】、芬蘭【フインランド】に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつゝも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上、ソヴィエット政権に非らざれば、存在し得ざる如く強要致候。イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致候。瑞西【スイス】がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西【スイス】政府を以て、親枢軸的なりとして一蹴し、之が為、外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下の仏蘭西【フランス】、白耳義【ベルギー】、和蘭【オランダ】に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は、何れも、政治的危機に見舞はれつゝあり。而して、是等武装団を指導しつゝあるは、主として、共産系に御座候。
 独乙【ドイツ】に対しては、波蘭【ポーランド】に於けると同じく、已に、準備せる自由独乙【ドイツ】委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは、英米にとり、今は頭痛の種なりと、存ぜられ候。
 ソ聯は、かくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては、極度の内政干渉をなし、国内政治は親ソ的方向に引きずらんと為し居り候。ソ聯のこの意図は、東亜に対しても、亦同様にして、現に延安【えんあん】にはモスコーより来れる岡野(編集部註・野坂参三)を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立聯盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
 かくの如き形勢より推して考へるに、ソ聯は、やがて、日本の内政にも干渉し来る危険、充分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣――ド・ゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く――治安維持法、及び、防共協定の廃止等々)
 翻つて、国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々、具備せられ行く観、有之候。即ち、生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所謂【いわゆる】新官僚の運動、及び、之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内、特に、憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我國體は共産主義と両立するものなりと信じ居るものゝ如く、軍部内革新論の基調も、亦、こゝにありと存候。皇族方の中にも、此の主張に耳傾けるゝ方ありと仄聞【そくぶん】いたし候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは、共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。已に、彼等は、軍隊教育に於て、國體観念丈けは、徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は、國體と共産主義の両立場を以て、彼等を引きずらんとしつゝあるものに御座候。
 抑々【そもそも】、満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して、遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりしこと、今や、明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が、事変の目的は、国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変は永引くがよろし、事変解決せば、国内革新は出来なくなる」と、公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚、及び民間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂右翼は、国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に、共産革命に迄、引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て、大過なしと存候。
 此の事は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り、交友を有せし不肖【ふしよう】が、最近、静かに反省しで到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々、頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は、この間、二度迄、組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ、是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を充分に、看取する能はざりしは、全く、不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今、戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に、勢を加へつゝありと存候。かゝる主張をなす者は、所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつゝあるは、之により国内を混乱に陥れ、革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は、次第に濃厚になりつゝある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひても、ソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又、延安との提携を、考へ居る者もありとの事に御座候。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と、成長致しつゝあり、今後、戦局益々不利ともなれば、此の形勢は、急速に、進展可致と存候。
 戦局の前進につき、何等か一縷【いちる】でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を、之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。従つて、國體護持の立場よりすれば、一日も速かに、戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態にまで、時局を推進し来りし軍部内の、かの一味の存在なりと存候。彼等は、已に、戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽く迄、抵抗可致者と存ぜられ候。もし、此の一味を一掃せずして、早急に、戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志、この一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従つて、戦争を終結せんとすれば、先づ、其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚、並に右翼、左翼の民間分子も、声を潜むべく候。蓋し、彼等は、まだ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達すんとするものに外ならざるが故に、基本を絶てば、枝葉は自ら枯れるものと存候。
 尚、これは、少々、希望的観測かは知れず候へ共、若し、此等一味が一掃せらるゝ時は、軍部の相貌【そうぼう】は一変し、英米及び、重慶の空気或は緩和するに非らざるか。元来、英米乃至重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改まらば、彼等としても、戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はれ候。それは、兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断こそ、望ましく存候。以上   (原文のまま)

 昨日、紹介した『終戦秘録2』所載の「本文」と、この「本文」とを比べると、句読点、改行、字句、表記などで、かなりの相違が見られる。
 最も、大きな違いは、本日、紹介した本文には、「皇族方の中にも、此の主張に耳傾けるゝ方ありと仄聞いたし候」(下線)という一行があるのに、『終戦秘録2』所載の本文には、これがないというところであろう。この違いが、生じた理由は、いまのところ不明、「原文」に、この一行があったのか否かも不明。
 なお、「勃牙利」に【ハンガリア】というルビがあるのは誤りであって、ここは【ブルガリア】と振らなければならない。また、「岡野」にカッコして、「編集部註・野坂参三」とあるのは、発行元である日本週報社の編集部の註であろう。
 そもそも、この本においては、「近衛上奏文」自体が【註】という扱いになっている。この「近衛上奏文」に関する文責は、日本週報社編集部にある(大谷敬二郎にあるのではなく)と見るのが妥当かも知れない。

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「近衛上奏文」の原文と流通している本文

2017-05-09 05:03:52 | コラムと名言

◎「近衛上奏文」の原文と流通している本文

 数日前、図書館から、新谷卓〈アラヤ・タカシ〉氏の『終戦と近衛上奏文』(彩流社、二〇一六)を借りてきた。まだ読み終えていないが、興味深く刺激的であり、労作であることは間違いない。この本についての感想は、いずれ、述べてみたいと思う。
 読んでいて、ひとつ気になったことだが、今、「近衛上奏文」の原文というのは、どこに保存されているのだろうか。また、原文における表記は、どんな形になっているのだろうか。
 むかし、雑誌か何かで、「近衛上奏文」の影印を見たような記憶がある。たしか、カタカナ文であったと思う。しかし、今日、「近衛上奏文」が引用されるとき、たいていの場合は、ひらがな文になっている。適宜、改行がなされ、句読点、濁点が付き、ルビまで施されている。しかし、原文はおそらくカタカナ文で、改行はあまりなく、句読点や濁点はなく、もちろん、ルビもなかったのではないか。
『終戦と近衛上奏文』においても、もちろん、「近衛上奏文」が引用されている。しかし、全文が紹介されているわけではない。また、その表記は、『終戦秘録2』(北洋社、一九七七)に収録さているものに従っている。『終戦秘録2』は、岩淵辰雄が、その論文「近衛の上奏文」(『世界文化』第三巻第八号、一九四八年八月)に引いたものに依拠しているという。岩淵の論文を、初出の形で読んだわけではないが、少なくとも、『終戦秘録2』にある「近衛上奏文」は、ひらがな文になっている。適宜、改行がなされ、句読点、濁点が付き、ルビが施されている。判読し、利用しやすくなっていることは認めるが、原文のどこををどのように改変しているのかは、明らかにされていない。
 本日は、参考のため、『終戦秘録2』にあるものに基づいて、「近衛上奏文」の全文を紹介しておこう。その際、『終戦秘録2』の表記に従って、漢字は新漢字を使用したが、「ソ連」の連、「連盟」の連、および、「国体」のみは、旧漢字に戻しておいた。【  】内は、『終戦秘録2』における原ルビを示している。

   上奏文
 敗戦は遺憾ながら最早【もはや】必至なりと存【ぞんじ】候。以下此の前提の下に申述【もうしのべ】候。
 敗戦は我國體の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論【よろん】は今日迄の所國體の変更とまで進み居らず(勿論、一部には、過激論あり、又将来如何に変化するかは測知し難し)随【したがつ】て敗戦だけならば國體上はさまで憂ふる要なしと存候。國體の護持の建前より最も憂ふべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に御座候。
 つらつら思ふに我国内外の状勢は今や共産革命に向つて急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我が国民はソ聯の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解消以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ聯は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧洲諸国に対する露骨なる索動により明瞭となりつつある次第に御座候。
 ソ聯は欧洲に於て其周辺諸国にはソヴィエット的政権を爾余【じよ】の諸国には少くとも親ソ容共政権を樹立せんとして、著々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之【これあり】候。
 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座侯。波蘭【ポーランド】に対しては予【あらかじ】めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。
 羅馬尼【ルーマニア】、勃牙利【ブルガリア】、芬蘭【フインランド】に対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非らざれば存在し得ざる如く致し候。
 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以つて、内閣総辞職を強要致し候。瑞西【スイス】がソ聯との国交開始を提議せるに対しソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下の仏蘭西、白耳義【ベルギー】、和蘭【オランダ】に於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何【いず】れも政治的危機に見舞はれつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるは主として共産系に御座候。独逸に対しては波蘭に於けると同じく已に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。
 ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し表面は、内政不干渉の立場をとるも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治は親ソ的方向に引きずらんと為し居り候。
 ソ聯のこの意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に日本解放聯盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。
 かくの如き形勢より押して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ド・ゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻【ひるがえ】つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条、日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心【てきがいしん】の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所謂【いわゆる】新官僚の運動、及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内味の革新運動に有之候。
 少壮軍人の多数は我國體と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり又彼等は軍隊教育に於て國體観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以つて、共産分子は國體と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 抑々【そもそも】満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変は永引くがよろしく事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂右翼は國體の衣を着けたる共産主義なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に躍らされたりと見て大過なしと存候。
 此の事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省しで到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々頗【すこぶ】る多きを感ずる次第に御座候。
 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相剋摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分に看取する能【あた】はざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之【これなく】深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之により国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的に英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。
 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば此の形勢は急速に進展致すべくと存候。
 戦局の前途につき何等か一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存じ、随て國體護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結を講ずべきものなりと確信仕り候。
 戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来たりし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致【いたすべき】者と存ぜられ候。
 もし此の一味を一掃せずして早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志、此の一味と響応して、国内に大混乱を惹起し所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば先づ其の前提として此の一味の一掃が肝要に御座候。
 此の一味さヘ一掃せらるれば、便乗の官僚並に右翼、左翼の民間分子も影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故にその本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと存候。
 尚これは少々希望的観測かは知れず候【そうら】へ共【ども】若し是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非らざるか。元来英米乃至重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変りその政策が改まらば、彼等としても、戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思はれ候。
 それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提、先決条件なれば、非常の御勇断をこそ願はしく奉存【ぞんじたてまつり】候。

*このブログの人気記事 2017・5・9(7・8・9位にかなり珍しいものが)

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吉野作造は東京帝大の伝統を破壊した

2017-05-08 05:32:32 | コラムと名言

◎吉野作造は東京帝大の伝統を破壊した

 昨日の続きである。吉野作造著『新井白石とヨワン・シローテ』(元々社、一九五五)の巻末にある赤松克麿による解題「校訂者の言葉」の後半部分を紹介する。

 彼の思想戦の影響力について、無視できない一事は、彼が東京帝国大学の教授であったことである。いったい東京帝国大学の法学部には、明治政府が官吏養成所としてつくった建学の伝統があって、したがってこの学校は、官僚政府の学問的または思想的牙城ともいうべき性格をもっていた。従来こゝの憲法学教授に穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉博士、上杉慎吉博士などがいて、大権政治学または天皇親政論を講じ、帝国憲法を専制主義的に解釈する学説が幅を利かした理由がこゝにある。もっとも一方に小野塚喜平次〈オノヅカ・キヘイジ〉博士、美濃部達吉博士、高野岩三郎〈イワサブロウ〉博士などの民主主義思想の学者がいたが、あまり影響力をもたなかった。美濃部博士が天皇機関説に立って、天皇主権説に立つ上杉博士と論戦を交え、一時学界を賑わしたことがあるが、これも憲法学的論戦の域を離れたものではなかった。ところが彼は、学内で民主主義政治学を講ずる一方、社会的論壇に立って民主主義の巨弾を放ち、官僚政治に挑戦したのである。いまゝで保守思想の牙城と目せられた東京帝国大学から保守階級の心胆を寒からしめる民主主義の学者が現われて、時代の新気運を指導することになったのである。この現象は社会の異常な注目をひき、そして彼の思想的影響力を大ならしめた一因であると考える。たしかに彼は東京帝国大学の伝統を破壊した第一人者であって、彼の時代以後、東京帝国大学は新思想の牙城のように見られるにいたった。それだけに保守階級の反感をまねき、彼にたいする風当りか強かったことも否定できない。
 彼は民主主義政治を確立するために、普通選挙の実施を主張し、そして民意を中軸とする責任政治の樹立を主張したが、これがためには、一方において国民にたいし民主主義の啓蒙教育を行うとゝもに、他方において民主政治実現の障害である保守勢力、すなわち軍閥・官僚・貴族等にたいして仮借〈カシャク〉なき攻撃的論陣を張った。わけても軍部にたいする攻撃は最も生彩に富むものであった。ことに彼は軍部の専横が我国の対外政策に介入することにたいし、心から憤りを感じていた。彼は明治以来、軍部にたいし正面から通烈な批判を加えたきわめて少数識者のひとりであった。それは彼の政治悪を憎んで仮借しない鋭い良心からくるとゝもに、軍部専制のため日本の前途に大きな憂いを感じたからであった。
 彼は非民主的勢力の一つとし枢密院を批判し、大正十三年〔一九二四〕三月から四月にかけて「枢府と内閣」という題名の論文を朝日新聞に連載した。ところがこの論文が当局の忌諱に触れ、彼は東京地方裁判所検事局に召喚され、いろいろ取調べをうけた。結局、起訴はされなかったが、以後こうした問題について評論しないということになり、彼は箝口令を布かれたのであった。この論文は彼の朝日新聞在職中に書かれたものであるが、これが当局の忌諱に触れたことにより、彼は同社顧問の退職を余儀なくされた。彼が東大を辞して朝日新聞に入社したのは大正十三年二月であり、そして退社したのは同年五月であった。
 彼は自分を臆病者だといっていた。右翼の壮漢などが訪ねてきて面談しているさい、いつ襲いかゝられるかもしれないから、いつでもうしろの逃げ口をあけておくのだといっていた。体力が弱く武道の心得もない彼は、個人的暴力にたいしては、無抵抗主義で逃げる以外に道はなかったから自分を臆病者だといったのであるが、しかし彼には普通の知識人に見られない烈々たる勇気があった。官僚軍部にたいしてきびしい批判を加えたのも彼の勇気のしからしめるところであるが、第一次大戦後、自由主義者に迫害を加えた右翼団体の浪人会を攻撃し「浪人会は國體擁護の美名に隠れて、その所属の大半は国家に有害なる運動を試みる団体である」と断じ、ついに吉野対浪人会の殺気みなぎる立会演説会(大正七年〔一九一八〕十一月二十日、東京神田の南溟倶楽部〔ママ〕)が行われ、彼が単騎で正々堂々の論戦を交えたことは、彼がいかなる威力にも屈しない勇気の所有者であることを語るものであった。この勇気は一種の宗教的のものであって、キリスト教的教養からきたものであると思われる。
 彼が東大において政治学と政治史の講座を担当したことは前に述べたが、彼は生来歴史が好きであって、政治史の研究にはかなり力を注いだ。ところで彼の研究した政治史は三つの部面に分れている。ヨーロッパの近代政治史、中国の近代革命史、日本の明治政治史がすなわちこれである。前二者は彼の壮年期において研究したものであって、大体完了したのであるが、明治政治史は晩年において最も力を注ぎ、そしてついに未完成に終ったものである。ところで彼は明治政治史を研究するにあたって、政治のみを対象とせず、ひろく明治文化の硏究に手をつけた。正しい明治政治史をつくるために、明治文化にも目を通す必要があったのであろうが、また一面から見れば、彼の生来の歴史趣味が、未開拓の余地のある明治文化の研究に興味をもたせたと思われる節もある。晚年において彼はほとんど政治評論を書かないで、もっぱら明治文化の研究に力を注ぎ、その凝り性を十分に発揮したのであった。
 明治文化の研究といえばすこぶる多岐にわたり、到底個人の力では及ばないので、彼は同好の士をあつめて協同研究をはじめた。大正十三年十一月、彼を中心として生れた明治文化研究会がこれである。同人は彼を加えて、石井研堂、石川巌、井上和雄、尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉、小野秀雄、宮武外骨〈ミヤタケ・ガイコツ〉、藤井甚太郎の八氏であった。この会の目的としてかゝげたのは「明治初期以来、万般の事相を研究し、之れを我が国民史の資料として発表すること」であって、機関雑誌「新旧時代」を発行し、時々講演会及び展覧会を開くことを事業とした。この会の創立は、彼にたいして宮武外骨〈ミヤタケ・ガイコツ〉氏が提案したことが直接の動機をなしたのであった。その後この会の同人はだんだん数を増して、昭和三年〔一九二八〕ごろには次のような顔触れになった。
 石井研堂、石川巌、早坂四郎、尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉、小野秀雄、奥平武彦、川原次吉郎〈ジキチロウ〉、柳田泉、高市慶雄〈タカイチ・ヨシオ〉、松崎実〈ミノル〉、藤井甚太郞、神代種亮〈コウジロ・タネスケ〉、小松清、小松薫、齊膝昌三、木村毅〈キムラ・キ〉、宮武外骨、下出隼吉〈シモデ・シュンキチ〉、吉野作造。
 この会は定時に例会を催うして共同研究を行い、時々講演会や展覧会を開いて研究を発表し、一方「新旧時代」(後に明治文化研究と改題)を発行して、歴史的価値ある資料や評論を掲載したのであるが、この会の業績として最も大きなものは明治文化全集の刊行である。この全集は二十四巻から成り、明治文化に関する貴重な資料と文献を収め、さらに厳正なる解題をかかげたもので、明治文化史を研究するものにとって、欠くことのできない宝典である。彼はこの全集の編集担当代表者であった。
 明治文化の研究について、彼がまづ最初に主眼を置いたのは、明治文化のうち、西洋文明に影響された方面を歴史的に研究することであった。そうするには維新以後のことだけでなく、幕末にさかのぼり、さらに洋書解禁を行った徳川吉宗時代までさかのぼらねばならぬ。こうした立場から、彼はいろいろの本を蒐集し、それを通読した。そして面白いと思ったものは書き留めておき、大切だと思ったものは詳細なる解説をつくった。こうした材料は分量が多くなるから、時々まとめて、「主張と閑談」と題する本のシーリズをつくることになった。そして大正十三年〔一九二四〕七月「主張と閑談」の第一輯として出版したのが「新井白石とヨワン・シローテ」である。このシーリズは固苦しい論文とちがって、肩のこらない面白いものであったから、歴史的読み物として、当時一部の知識人のあいだにすこぶる好評を博したのであった。彼のあつめた歴史的資料は、読み物として面白肖いばかりでなく、日本文化史の研究者にとって、貴重なる歴史的文献であることはたしかである。そこで版を新しくして、ここに元々社から出すに至った次第である。ところで、こんど「新井白石とヨワン・シローテ」を上梓するにあたって、書物の内容の分量がすこしすくないことに気がついたので、「新旧時代」や「明治文化研究」に掲載された彼の評論から数篇を拔いて、この本に増補することにした。増補したものは次の通りである。
 明治文化の研究に志せし動機(大正十三年〔一九二四〕四月号「新旧時代」)
 明治事物起源を読んで(大正十五年〔一九二六〕十二月号「新旧時代」)
 聖書の文体を通じて見たる明治文化(昭和三年〔一九二八〕一月号「明治文化研究」)
 西洋文芸の邦訳一つ二つ(大正十四年〔一九二五〕十一月稿)

 若干、注釈する。ここで、赤松克麿が取りあげている美濃部達吉と上杉慎吉の論争は、一九一二年(大正二)にあった学問上の論争(家永三郎のいう「第一回の機関説論争」)で、一九三五年(昭和一〇)に起きた、いわゆる天皇機関説事件のことではない。
 赤松は、吉野作造対浪人会の立会演説会(一九一八)の会場を、「東京神田の南溟倶楽部」としているが、「神田南明倶楽部」が正しいと思われる。

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吉野作造は社会的情熱をもつ思想的闘将

2017-05-07 03:37:21 | コラムと名言

◎吉野作造は社会的情熱をもつ思想的闘将

 今月一日のブログで、吉野作造著『新井白石とヨワン・シローテ』(元々社、一九五五)という本について紹介したが、その巻末にある赤松克麿による解題「校訂者の言葉」は、まだ紹介していなかった。本日は、この解題を紹介してみたい。

  校 訂 者 の 言 葉    赤 松 克 麿
 吉野作造博士(明治十一年〔一八七八〕宮城県古川町に生れ昭和八年〔一九三三〕死去す)が欧米三年の留学を終えて帰朝したのが大正二年〔一九一三〕七月であった。翌三年〔一九一四〕七月に東京帝国大学法学部の助教授から教授となり、政治史と政治学の講座を担当した。彼は教壇で講議するかたわら、雑誌に筆を執りはじめた。最初はキリスト教の雑誌「新人」に寄稿し、ついで「中央公論」に寄稿した。彼を中央公論の論壇に引っぱりだしたのは同誌の主筆瀧田哲太郞(樗蔭〈チョイン〉)氏であった。そのころ彼はあまり雑誌に書くことに興味をもっていなかった。外国留学から-帰ったばかりの彼は、大学の講義に関心を注いで、雑誌に執筆することには気が進まなかった。瀧田氏が最初彼を訪ねたのは、彼が留学から帰った年すなわち大正二年の十一月であったが、瀧田氏の依頼に応じてはじめて執筆したのが大正三年の一月の中央公論に載った「日米問題」でる。その後瀧田氏はたびたび彼を訪ねて熱心に寄稿を促したが、彼は瀧田氏の要請に応じなかった。しかし瀧田氏はなかなか引っこまなかった。瀧田氏はいったんこれと見込んだ人間にたいしては執拗に食い下って、これを引っぱりだす強引力をもっていた。ついに瀧田氏は彼にたいして、それほど余暇がないなら、私があなたの口述を筆記しましょうといゝだした。彼は瀧田氏の熱心にほだされてちょいちょい書いているうちに、段々と雑誌に書くことに興味を覚えてきた。そのうち欧洲大戦(大正三年七月勃発)がはじまった。この大戦の勃発によって世界思潮は大きく動揺したが、これが彼が積極的に論壇に乗りだすに至った強い契機であった。彼は手記のなかで「やがて欧洲大戦が始った。近く欧洲の形勢を見てきた私として、おのづから心の躍るを覚えざるをえない。加之〈シカノミナラズ〉、戦争の進展とともに、デモクラシイの思潮が涌然〔ママ〕として勃興する。そこへ瀧田君は再々やってきては私をそそのかす。到頭私は瀧田君の誘導に応じて、私から進んで半分雑誌記者見たような人間になってしまったわけだ。これを徳としていゝのか悪いのか、とにかく瀧田君は私を論壇に引っぱりだした伯楽である」と書いている。
 当時中央公論は論壇の王座的地位を占め、評論おいて文芸において、燦然〈サンゼン〉たる光彩を放ったが、これは偏に〈ヒトエニ〉瀧田氏の卓拔な編輯技能によるものであった。瀧田氏が強引に吉野博士を中央公論に引っぱりだして、自由に論陣を張らせたことは、雑誌経営の上からも成功であった。欧洲大戦がはじまってから、彼の執筆は多くなったが、大正三年から、大正十三年〔一九二四〕東大を辞して朝日新聞に入るまで、一二度病気其他の都合で休んだ外は「我ながらよくも毎月まめに書いたと思ふ」と後年述懐するほど精力的な筆戦をつゞけたのである。彼が中央公論を拠点として展開した筆戦は、全国の知識階級に大きな思想的影響を与え、彼は大正時代の民主主義の指導者をもって目せらるゝに至った。彼の思想的業績が我国の民主主義思想史上に画期的足跡を残したことはたしかである。
 彼は学者として象牙の塔に立てこもる性格ではなかった。彼にはキリスト教的人道主義からきた社会的情熱と勇気があり、そして何人にたいしても、胸襟を開くという開放的性格があった。そして親切であり世話好きであった。彼は天成のデモクラットであったということができる。彼は頼まれるままに社会運動や社会事業にたいして、直接関接にいろいろな指導や助力を与えた。したがって彼は多くの人々を引きつけ、彼の周囲にはつねに生き生きした新時代の気流が渦巻いたのであった。第一次世界大戦後の社会運動者、社会思想家、大学教授、ジャーナリストなどで、濃淡の差はあれ、吉野博士の門を潜り、その指導と感化をうけたもの実に多数に上っている。中国人や朝鮮人の学生で、彼の指導と助力をうけたものも決してすくなくない。
 ところで彼がわが国の民主主義史上に不滅の歴史的足跡を残したについては、時代的環境を考慮に入れて考える必要がある。明治時代が終りを告げて、大正時代を迎えると、なんとなく新しいものを求める風潮を生じた。「大正維新」の標語もジャーナリズムの上に現われた。たまたま大正元年〔一九一二〕に桂〔太郎〕内閣が成立したのを契機に、憲政擁護運動なるものが起り、藩閥官僚にたいする国民的反抗の運動が燃えあがり全国的に彼及した。これは支配階級の伝統的中核をなす藩閥官僚勢力にたいする政党の民主的抗争であったが、大正時代の民主的新気運の到来を思わしめるものがあった。こうした社会的動向のあったとき、第一次世界大戦が勃発したのである。
 この大戦は全世界にわたって、思想的・社会的の一大変動の機縁となった。我国もその強い影響をうけた。この大戦はドイツの軍国主義にたいするイギリス・フランス・アメリ力の民主主義の戦いであると一般に解釈され、我国が民主主義陣営に加担して参戦するに及んで、国内的には民主主義の進展に有利な状勢をつくりだした。すでに大正時代に入って明治以来の官僚主義的または軍国主義的政治性格にたいする国民的反感がかもしつゝあったときであるから、大戦を転機として、民主主義を支持する空気が国民の間にしだいに高まったのである。彼が外国留学から帰ったのが、大正二年〔一九一三〕の七月であるが、その翌年〔一九一四〕の七月に欧洲大戦は起ったのである。彼は欧米において民主主義の政治学を研究し、さらに欧洲の政治状勢を視察し、今から民主主義の方向へ飛躍しようとする祖国に帰ってきたのである。しかし彼は純学究ではなく、社会的情熱をもつ思想的闘将の性格を備えていた。かように考えてくると、天の配剤が畤と人との調和の妙を発揮したと言いうるのである。彼が民主主義の論陣を張って一世を指導していたころ、新渡戸稲造〈ニトベ・イナゾウ〉博士が「吉野君は使命をもったひとである」と筆者〔赤松克麿〕に語ったことがあるが、彼は使命をもったひとと思はれるほど、絶好の舞台で打ってつけの役割を演じたのである。【以下、次回】

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