礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス

2017-05-16 07:27:21 | コラムと名言

◎満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス

 今月一二日のブログで、山県初男と繆斌〈ミョウ・ヒン〉の会話内容を紹介した際、山県が、「満州国に憲法なく皇帝に関する法規はない」と述べたのは、とんでもないウソだと指摘した。当時の満州国(満州帝国)には、憲法こそなかったが、憲法に準ずる「組織法」(康徳元年=一九三四)という法律があった。また、帝位の継承について定めた「帝位継承法」(康徳四年=一九三七)という法律も存在した。
 たまたま、書架に、『日文 満洲新六法』(満洲行政学会、一九三七)という本があった。本日は、ここから、「帝位継承法」を紹介してみよう。

  帝位継承法  (康徳四年三月一日)

我ガ満洲帝国ハ日本帝国ノ仗義援助ニ頼リ斯ノ洪業ヲ開キ斯ノ邦基ヲ奠ム是ヲ以テ朕登極以来仰テ
眷命ノ本ゾク所ヲ体シ俯シテ国脈ノ繋ル所ヲ念ヒ有ユル守国ノ遠図邦国ノ長策悉ク日本帝国ト協力同心以テ益両国不可分離ノ関係ヲ敦ウシ一徳一心ノ真義ヲ発揚シ夙夜勤求敢テ或ハ懈ルナシ今茲ニ帝位継承法ヲ制定シ継体付託ノ重キニオイテ厥ノ法典ヲ定メ諸ヲ久遠ニ示ス大宝儼然建中易ラザル実ニ
日本天皇陛下ノ保佑ニ是レ頼ル夫レ皇建極アリ惟レ皇極トナリ天道ヲ裁成シ地宜ヲ輔相シ民ノ父母トナリ人以テ其ノ政ヲ行ヒ義以テ其ノ法ヲ制スレバ則チ重煕累洽覆燾ノ下永ク君民一体ノ美ヲ懋ニシ当ニ天地ト其ノ徳ヲ合シ日月ト其ノ明ヲ合スベキナリ凡ソ朕ガ継統ノ子孫及臣民タル者深ク肇興ノ基其ノ繇テ奠マル所ト
受命ノ運其ノ繇テ啓ク所トニ鑑ミ咸ナ朕ガ萬方ヲ撫綏シテ宵肝倦マザルノ心ヲ以テ心トシ聿修惟慎ミ欽戴替ルナクンバ垂統萬年必ズ無彊ノ休ヲ享ケ克ク長治ノ福ヲ保タム  
   (国務総理、宮内府大臣副署)

 帝位継承法
第一條 満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス
第二條 帝位ハ帝長子ニ伝フ
第三條 帝長子在ラザルトキハ帝長孫ニ伝フ帝長子及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝次子及其ノ子孫ニ伝フ以下皆之ニ例ス
第四條 帝子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス帝庶子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出子孫皆在ラザルトキニ限ル
第五條 帝子孫皆在ラザルトキハ帝兄弟及其ノ子孫ニ伝フ
第六條 帝兄弟及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝伯父及其ノ子孫ニ伝フ
第七條 帝伯叔父及其ノ子孫皆在ヲザルトキハ最近親ノ者及其ノ子孫ニ伝フ
第八條 帝兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第九條 帝嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ参議府ニ諮詢シ前数條ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
第十條 帝位継承ノ順位ハ総テ実系ニ依ル
 附 則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

*このブログの人気記事 2017・5・16(9位に珍しいものが入っています)

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十三分隊だけが帰らないのは変だ(面会人)

2017-05-15 03:34:37 | コラムと名言

◎十三分隊だけが帰らないのは変だ(面会人)

 昨日の続きである。『太平洋戦争実戦記 4』(土曜通信社、一九六三)所収の、中川要の「戦艦陸奥の爆沈」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。「帰りの旅」の章の一部、および「帰らぬ十三分隊」の章の全部を紹介する。

  帰 り の 旅
   本当なら機密保持のため帰らせられないのだという
  特 別 の 措 置
 実習中の苦しみは、なんといっても多くの僚友を呑んだ海が、すぐそこだということであった。艦内ならわからないが、一度上甲板に出るとプーンと重油のくさい匂いが鼻をつき、掃海船が行きかい、遺体処理の煙が見え、私たちは又してもがっくりとするのであった。
 又一通りの品物は貰ったとは言え、何もかも無くしたので、毎日の生活が不自由このうえもなかった。
「陸奧遭難者は上甲板に整列」
 ある日こんな号令がか、って、私たちも大急ぎでその列に加わった。だいたい兵で三十円位いの手当が支給されたのである。私たちは大変喜こんだ。しかし練習生には交付されないということで、私たちはさびしくそこを立った。
「練公は半人前だ」私たちは卒業するまでこの言葉を何処へ行っても、誰からも聞かされ、ずいぶん苦しい思いをしたが、又ここでもそうだったのである。
「チェッ、馬鹿にしてやがる、俺等だって泳いだんだぞ」
「死んでもかまわんのだよ。一銭五厘で代りがワンサとあるんだから」
 私たちはこんな捨てぜりふをはいて不平をまぎらわしたが、酒保にも行けず、塵紙や石鹸にも不自由しながら、僚友の好意に気兼ねをしつつ毎日の実習をつづけねばならなかった。
 それでも一ケ月の実習を無事終わって、私たちはなつかしい土空〔土浦海軍航空隊〕へ帰ることになった。たまたま服装は下が黒、上が白の海軍特有の半黒半白の時季だったが、私たちは長門に乗っている軍楽兵から服をかりて帰ることになった。
 その日私たち十三人の者は、艦橋の作戦室に一人一人呼ばれて、艦長と対面し、絶対秘密保持を誓わされ、いろいろと秘密を洩らした者の処罰された例をひかれ、本当ならば帰らせることは出来ないんだが、特別の措置によって帰隊させるのだから、その点をよく考え、亡き友の分までも奮斗しなくてはならんことを、こんこんと訓された。
 そして長門にうつり、今度は高射機関銃座取付工事のため、呉に入港する長門に便乗して帰路につくことになった。
 があれほど秘密々々といわれ、瀬戸内海の離島で起こって、それこそ我々以外知るはずもない事件が、呉に入港してみればすでにニュースでもなんでもなく、旧聞に属し、秘密々々といっておそれているのは私たちだけ「陸奥は沈んだ」と誰も彼も話しているのには、秘密々々もあてにならんものだと驚くとともに、どこからどう伝わったのかと、その早さと正確さを不思議に思った。
 呉の軍港では、駆逐艦や潜水艦、潜水学校を見学したが、来たときの編成にみせるため何ケ班にも分け、あくまで十三分隊の〔人数が〕不足していることをカムフラージュするようにしていた。
 呉駅から軍用列車に乗り込むのも風の如く、なんだかコソコソと乗車させられたようだった。列車の編成も来た時のままで、途中で受け取る弁当なども十三分隊を含めた数字を受け取っていた。従って車中はゆっくりとし、弁当なども二つ渡され、皆は大喜こびをしていたが、私としてはいつまでもメソメソしてはいられなかったが、他の者のように、手ばなしで楽な旅行を喜こび、二人分の飯を食う気にはなれなかった。
 呉駅で呉海軍病院に入院していた和田と落ち合ったが、元気になったとは言えまだ顔色がとても悪く、
「まだ、重油くさいゲップが出る」と言っていたが、私たちは仲間が一人でもふえることは嬉しく心強いことだつた。
 皮肉にも、或はそれは一種の陽道作戦とでもいうものかもしれないが、帰りは大きな駅には殆どの如く停車し、右をみれば豚車、左をみれば坑木といった様な、来る時の状態は一度もなく、私たちを楽しませてくれたが、私は来る時の事を思い出して、〔死んだ大阪出身の竹本にとって〕あれが故郷の最後の見納めだったのにと、来るとき心ゆくまで見せてやりたかったと思った。
  大 阪 の 灯【略】

  帰 ら ぬ 十 三 分 隊
   どれ一つ、涙を誘わぬものはなかった
  機密保持の苦しみ
 土浦駅へ着いたのは夕方だった。航空隊へついてからも兵舎には入らず、隊門からすぐ左へ折れて、講堂の横を通って剣道場へ入った。教員や分隊長の顔は血走って、何かおののいているような感じで、そわそわと私たちを指揮した。
「今更なにを」と私たちは不思議に思ったが、剣道場に集った理由は、機密保持を確認するためだった。
「十三分隊は艦の都合で当分帰らぬ」ということにするから、体の都合やなにかで艦務実習に行かなかった教員や、連習生に問われた場合にはそういう風にいうことなど注意があり、私たちもそのまゝ十二分隊になりすまして兵舎に帰った。
 陸奥のことは、隊内ではほとんどの練習生が知っており、それだけではなく、十三分隊の兵舎から変な声が聞えるとか、火の玉が飛んだとかあらぬ噂までたっていたほどで、艦の都合で帰らないなどという私たちは、却っていい笑い者になった。その理由の一つは、私たちより一期上の十期の練習生が卒業の関係で横須賀で山城に乗艦、艦務実習中であり、実習中の練習生が呉からの「陸奥沈没」の飛電をキャッチしていたせいもあった。
 それでも機密保持には必要以上の神経がつかわれ、いろいろな物品の交付などでも、私たちはいつも「十三人の者」という呼び名で呼ばれ、陸奥でなくした品物などの交付にも、一応過失によりなくしたと届け出て、分隊長、主計長の判を貰って受け取る始末であった。事情をしらない主計課倉庫の兵隊から、「ぼやぼやしているから」とさんざん油をしぼられて、やっと貰うということも度々で、つくづく情ないやら腹が立つやらであつた。
  面 会 人
 面会人も多数来るが、何時も「十三分隊は帰らん帰らん」で門前払いをくっていた様子で、いつかも日曜だったが、私は外出せず隊内に残っている時だった。
 私の親しい戦友の父母と思う人が面会に来たが、例によって「十三分隊は帰っていないから」との門衛の言葉に、不思議に思つて、他の外出している練習生にでも尋ねたのであろう。十一十二は帰っているのに十三だけが帰らないのは変じゃないかと、再三尋ねられ、何処でどう私の名前をきかれたのかは知らないが、私に面会を求められたらしかつた。面会所から中川に面会人が来ているという電話があったそうである。幸か不幸か私はたまたま兵舎にい合わせず、とうとうそのまゝになってしまった。故郷の遠い私は面会など来てくれる人もなく、面会ときいて、とびあがらんはかりに驚いたが、いろいろ後になつて事情をきゝまずまずあの場合電話口にいあわせずよかったとひそかに思いもした。が、そんな事があるにつけ、亡くなった戦友の父母のことが思われ、気の毒にたえず、常に心をいためていた。
 人の噂も七十五日とか、だんだんと十三分隊のことも人々から忘れられた頃、私たちはなつかしい兵舎に入って遺品整理を行なった。
 書きかけの手紙、穴のあいた靴下、つかいかけの石鹸、休暇の時の土産用にいろいろと酒保の品物などためている者、どれひとつをみても涙さそわぬものはなかった。
 その後整理した遺品は、釣床〈ツリドコ〉など一切の十三分隊の用具とともに温習講堂に移され、私は鍵を渡されていたが、まもなく航空隊を去ったので、その後がどうなったかつまびらかではない。
 十三分隊の兵舎にも、後輩の練習生が入ってきて、永遠に十三分隊のことは謎につつまれたまゝ人の口からは忘れられていった。  (終)

*このブログの人気記事 2017・5・15(2位にかなり珍しいものが入っています)

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救助されるという安心で一ぺんにぐったりと来た

2017-05-14 03:07:44 | コラムと名言

◎救助されるという安心で一ぺんにぐったりと来た

 四月二六日のブログ「陸奥爆沈は永久の謎となろう(北上宏)」で、北上宏の「軍艦・陸奥爆沈の真相」という文章(一九五六)を紹介した。「軍艦・陸奥爆沈」とは、一九四三年(昭和一年)六月八日の白昼、広島湾南部の連合艦隊秘密泊地に停泊中の、軍艦・陸奥が、大音響とともに爆沈した怪事件である。
 北上宏は前記の文章の中で、「海軍部内でもM事件と名づけ陸奥爆沈などとは一切言わない程の注意が払われたので、終戦までこの事件を知らない人が多かつた」と述べている。もちろん戦後は、この事件が公になり、関係者が「真相」を語りはじめた。北上宏のこの文章も、そのうちのひとつである。
 また、生存者の体験談も発表されている。そのひとつとして、よく知られているのが、中川要の「戦艦陸奥の爆沈」である。この文章は、最初、土曜通信社刊の月刊誌『今日の話題 戦記版』の第一六集(刊行年月は未確認)として発表され、その後、土曜通信社の「今日の教養文庫」の『太平洋戦争実戦記 4』(一九六三年四月)に、収録されている。
 中川要は、土浦海軍航空隊の甲種飛行予科練習生として、「艦務実習」中に、この事故に遭遇した。全体に、非常に興味深い文章だが、本日は、「静かなる最後」の章に含まれる二節分のみを紹介したい。

  艦 尾 の み 残 る
 待つ身はつらいというが、救助はどうしてかはかどらず、救助艇はなかなか私たちの方にはやってこない。雨はやっとあがった様だったが、寒さと疲労と、空腹で私たちはだんだん心細くなった。しかし誰一人救助を求める人もなく、ただじっと救助艇の活躍を歯グキをガタガタいわせながら見守っていた。すると右前七、八十米〈メートル〉位いにいた一かたまりの人たちが、
「助けてくれーい。ケガをしてるんだぞ」と大声で救助を求めはじめた。すると堤をきった水の如く、あっちからも、こっちからも「助けてくれーい。助けてくれーい」という声がしだし、軍人精神などもどこへやら、誰も彼もあわれな声を出して必死になって叫んでいる。私たちも急に心細くなって、一二三と声をそろえて叫び出した。
「助けてくれーい。四人おるぞ、ケガ人があるぞ」
 又一呼吸ついては、一二三と声をそろえて叫びつづけた。どんな時でも、一人でも弱音をはき出すと、軍人精神もなにもあったもんではないなと、私は叫びながらつくづく情なく感じた。それでも私たちは叫びつづけた。
 あわれな声をふりしぽって、
「助けてくれーい。早くきてくれーい。ケガ人がいるぞーっ」と。
 それからまた大分たって、やっと一隻のカッターが私たちの重油の層の方にやって来はじめた。
「来た来た。来たぞ」私たちは口々にこう叫んで、又一段と声をはりあげて救助をもとめた。私たちが必死になって見つめるうちにそのカッターは、だんだん近づいて来ていたが、急に今まで綺麗に合っていた櫂が、バラバラに乱れて、艇は止ってしまった。浮流物や大変な重油のためにすべって艇が動けなくなったらしい。
「なにしよるんか、くそっ」と私たちは切歯した。すると一人の水兵が艇尾に立ってむこうをむいて手旗信号を始めた。
「フリウブツノタメ テイノシンコウフノウ シキウ エイコータノム」
「チェッ、何時〈イツ〉のことかわかりゃせん」
 私たちはガッカリして声も出なくなった。今まで気がつかなかったが、その方向に軽巡らしい艦がぼんやりとかすんで見えた。一隻、二隻、三隻、四隻
「おい、あすこにも大きいのがいるぞ」
西川にそう云われて見れば、転稷した陸奥のむこうに、これもぼんやりとかすんで相当大きな軍艦のマストが見えた。(これが扶桑だった)「扶桑もやられたっていうが、あのマストの格好は扶桑によく似てるのう」
 私ははじめ乗りこむことになっていた扶桑の前檣の根本が特徴あるまがり方をしているのを憶えていた。
「それにしてもどうしたんかのう?」私はもう一度そう考えてみた。
 時計もないし太陽も見ることが出来ないので時間がさっぱりわからないが(後できくところころによると大体三時半)
「みろ、もうあんなに沈んだぞ!! 」西川にいわれて見れば、陸奥の前部は殆ど水面に影を没しようとしていた。そうして私たちの見ているうちに沈んでいった。それは静かなる往生だった。あれほど私たちの心配していた渦なども全々起らず、海の城といわれた大戦艦の最後としては、あまりにあっけなく、しかしそれだけに堂々たる最後のように思えた。艦尾も大部沈みはしたがまだまだ盛んに水煙をあげていた。あの下では多くの人たちが苦しみながら死んでいったであろうと思えば私の心は暗くなるのだった。艦首のブイも其後大分(三十分間位い)浮かんでいたが、知らぬ間に沈んでしまっていた。くさりのたるみのある間は浮かんでいたが、その後艦にひきづられて沈んでいったらしい。その少し前までまだ相当数の人が乗っていたようだったが、沈没の瞬間を目撃できなかったのでどうなったかわからないが、気がついてブイのなくなっているのを見て私はハッとした。刻々沈みゆく艦を見ながら、最後まであそこに留まっていた人たちだから、きっと泳ぎには自信のない人たちだろうが……私は暗い気持だった。
  遂 に 救 助 さ る
 私たちの待ちにまったカッターは、本艦から来た内火艇に曳行されて一度、浮流物の外に出て今度は遠く迂回して私たちの救助にやって来た。
「イーチ ニ、イーチ ニ」と見事なピッチで艇は近づいて来た。
私たちは土空〔土浦海軍航空隊〕で「陸々短々猛訓練」という言葉をさかんにつかっていたが、日課表の陸戦二時間、短艇二時間の略称のことで、陸戦とともに苦しい課程の一つで、何回となく乗りなじみ深いカッターだったが、艇外から見るのは始めてで、意外に船べりの高いのには驚いた。
 先ずケガをしている水兵を艇の人たちがひっぱりあげた。ぐったりとしているうえに体中重油でズルズルで艇の人も手こずっていた。
「さあ次、来い」という声に私は五十嵐の方をかえりみた。
「ハイッ」と五十嵐は元気に船べりに手をかけた。パチャッと音がして、グーンととびあがるのかと思っていた私たちの前でフニャフニャフニャと五十嵐は崩れおちそうになった。私はアッとびっくりしたが、
「この野郎!元気出さんか」という艇員の一喝とともに五十嵐はひっぱりあげられた。長い時間の疲労と空腹、それに救助されるという安心で一ぺんにぐったりと来たらしい。
「さあ、次!!」とまた声がかかって西川がチラッと私の方をみて、
「いくぞ」といって艇にとびついた。私はうなずいて之を見送った。ところがどうだろう。西川も五十嵐と同じようにフニャフニャと崩れおちてしまったのである。
「こいつもか!!」艇員の人たちは口々に叫びながらひっぱりあげた。なんだ西川の奴もか、だらしがないなあと思った私は、
「よし、俺は人手をかりずに乗ってみせるぞ」と思いながら艇からの合図をまった。
「さあ、も一人か来い!!」
「ハイッ」と私は元気を出して、パツと船べりに手をかけた。そして「ウン」と力を入れて体をもちあげようとしたが、手がズルズルして力が入らない。
「こら、元気出さんか」という艇員の声にもう一度力を入れてみたがだめ、クラクラして体が海の中へひきこまれそうである。
「この野郎、元気だせ」という声とともに先の三人同様、私もひっぱりあげられた。今考えてもおかしいようだが、あの瞬間まではあれだけはりきって、前二人の元気のないのを笑った私だったが、やっぱり駄目だった。後で救助された人の話をきくとみんながそうだった。ひどいのになると艇に手をかけたまま、事きれている人もいたなどときいて、なるほどと思ったものであった。
 私たちは、安心と寒さと、疲労と空腹で、ぐったりして艇の底に横になった。
「大丈夫か、しっかりせい」と艇員の人々がかわるがわる背中をたたいたり、肩をたたいたりして下さった。
「おい、お前たちは実習飛行兵か」その人も救助された人らしく、軍服はぐっしょりと濡れ、下半身は私たちと同様重油でまっ黒である。
「ハッ、そうであります」
「お前たちもそうか」
 西川、五十嵐も元気に答えた。
「そうか、よく助かったのお。もう大丈夫だから安心せえよ。これから先、こんなことは再々だよ。そういう点からいって、お前たちは又とない経験をしたことになるよ。考えようによっては今日のことは感謝せにゃいけん位いだぞ。もう安心だ。元気を出せ。元気を」
 一兵卒あがりなのであろうその人は、胸に「青葉中尉」と書いた布きれを縫いつけた、好々爺〈コウコウヤ〉という感じの人だった。口びるのへんに相当ひどい怪我をしているらしく、タラタラと鮮血がながれていた。それでも私たちに元気を出させるためか、ニコニコと断えず笑っていた。
 私はこのときほど嬉しく感じたことはなかった。嬉しかった。熱いなみだが後から後から絶間なく出て来て、重油で真黒に染った膝の上に水滴をつくっていく。【以下、略】

*このブログの人気記事 2017・5・14(4・5・8位に珍しいものが入っています)

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二度と国の道を誤って貰っては困る(三文字正平)

2017-05-13 04:08:51 | コラムと名言

◎二度と国の道を誤って貰っては困る(三文字正平)

 一昨日、昨日の続きである。三文字正平の「葬られた繆斌工作」という文章(『人物往来』第五〇号、一九五二年二月)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

  腰抜け朝、野の態度
 この具体案を持って山県〔初男〕氏は再び〔一九四四年〕二月九日東京に舞い戻った。当日小磯〔国昭〕総理にあって委細を報告すると、総理は直ちに繆斌を招くことに決心し、訪日の具体的な話合いが進められた。繆斌等一行は、無電機、暗号手、通訳、相内氏ら七名と決り、東京、重慶間の一切の連絡を頼むことになった。しかし一応南京政府の要員である繆斌を通じるこの工作が、果して本当に日本政府の意を受けてなされるかを確める為に、北京に傍受所を置いて内容を確める計画であった。これで活路が開けるかと、私等は唯々〈タダタダ〉この実現が待たれた。
 繆斌等一行は出発の準備を終った。小磯は情報入手の名目で外務、陸、海軍の諒解をつけ、南京総軍から飛行機を出すように指示した。けれども陸軍のサボタージュでなかなか飛行機は用意されない。徒らに月日は経ち、三月に入って小磯総理のやっきの催捉にもかゝわらず、遂に陸軍からの便宜は得られなかった。仕方なく海軍からの許可を得て、漸く繆斌が来日したのは三月十六日であった。それも無電機も暗号手も伴わず、相内重太郎一人につき添われて羽田に着いた。その日繆斌は、「渡日については蒋〔介石〕委員長の諒解を得ている。しかし直接重慶を代表する者ではない。中日全面和平についての日本政府との折衝の期限は三月三十一日限りという蒋委員長からの内命を受けている」と語っていた。その後直接重慶との往復電報を、緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉氏、内閣書記官長田中武雄、山県氏に示した。それは次の文である。
 礼刪子電悉、繆斌請求指示事項、可照前在濾与山県所、商定之原則進行、万勿譲、並将洽語情形、随時具報、為要。
    礼廻午義仁甲渝六七〇号
 (訳文
 三月十五日の電報承知した。繆斌の請求して来た指示事項は、前に上海で山県と商定した原則に照し進行させ、決して譲歩するな。なお交渉の様子をその時々詳報せよ、
  三月二十四日 重慶義仁甲六七〇号)
 こうした繆斌の熱意をよそに、日本側は、重光〔葵〕外相、杉山〔元〕陸相l、米内〔光政〕海相らの反対意見で、政府の態度はにえきらなかった。繆斌訪日して間もない日の閣議で、米内海相が、
「繆斌を呼んで工作をしているのですか」
と問うた。小磯総理は「やっている」と答えたが,更に米内は「それはいかん」という。
「どうしていけないのか戦争指導者会議では和平を決議しているではないか」
「いや、和平が悪いのではない。総理がやるということがいけないのだ。和平は外務大臣がやるのが当然だ……」
「外務大臣がやらないから俺がやるのだ」
 と、こんなやりとりがあつて、小磯総理を援け協力する閣僚は乏しく,この問題に初めから協力していた緒方竹虎氏以外は反対、若しくは態度保留の極めて白けた空気であった。最高戦争指導者会議においても、真向から反対する重光外相につゞいて、杉山陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、及川〔古志郎〕軍令部長、米内海相等の反対意見で、まとまらぬまゝ散会している。
 繆斌は、小磯総理と会見した直後、傍ら〈カタワラ〉の山県氏をかえりみてこう語ってる。
「本日、小磯総理にお目にかゝって失望落胆と共に、少からざる不満を感じました。それを挙げてみると、一には、総理が私を信頼されているかどうかという点がはっきりしなかったのです。信頼されておらなければ仕事の出来る筈はありません。二には、外務省や陸海軍の諒解がなければ、話が出来ないというようなことでは、あまりに総理は無力ではありませんか、私共の折角〈セッカク〉信頼して来た総理が無力であっては、重慶側も手を引くでしょう。重慶では外務省や陸海軍を絶対に信用しておらないのです」と。
 この工作を最初から支持され、成就を期待されていた東久邇宮〔稔彦王〕が、杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招いて熱心に勧説されたが、このお骨折も水泡に婦した。四月に入って、小磯は宮中に参内を命ぜられ、「小磯、繆斌を呼んで和平工作をしているのか」と御下問がありその旨御奉答申し上げると、「たゞちに返えせ」と仰せられた。
 このお言葉で繆斌は目的を達せぬま、日本を去ることになった。
 その時の繆斌は次の詩に自らの心中を託して山県氏に残した。
  所感  繆丕成  於東京
 全局黒白愈分明、挽救狂瀾在此行
 保得東海一角在、休愁西洋百万兵
 驕横便覚仇人多、患難方知兄弟情
 独惜伊藤早謝世、誰来与我訂誓盟
山県氏も又次の詩を以て応えている。
  次繆丕成先生韻  山県初男
 誰言勝敗已分明、大局拾収存此行
 豈計廟堂空失幾、可憐堅子不知兵
 歳寒始見老松節、国乱愈彬烈士情
 排除万難須奮闘、与君誓結善隣盟
 それにしても妨害の手は、早くも木戸を通じて宮中にまで届いていたのである。この前日、外相、陸海大臣へ既に御下問され、三相揃って反対意見を申し述べていたのである。今、和平をしなければ破滅するという微妙な時機に、しかも繆斌の訪日が実現している時に、ついに和平への機会を逸したのである。これは小磯内閣瓦解の大きな原因であったが、思えば日本の政治が内蔵するあらゆる矛盾と腐敗が集約的に現われた時機であった。かくして日本は惨澹たる終戦を迎えねばならない主なる原因となったのである。
  重光、虎口を脱す
 その後、東京裁判に際して、私は小磯の弁護人として立った。終り近くなって口述書を作ることになり、これにソ連を通じての和平と繆斌工作を詳しく述べ、小磯が和平を計っていたことを書いているところへ、重光の弁護人、柳井恒夫とファーネスが来て、重光に関する問題は書かないでくれと懇請された。
「それを書いて出されると、重光は死刑になる」というのである。ファーネスは「小磯のためにロンドンまで行って有利な証言――以前日本にいたピコール少将の証言をとって来るから書かないでくれ」とまでいうのだが、私は、これは小磯個人の弁護の為にではなく事実は事実として残して置きたかった。書きあげて小磯に廻わすと、小磯はその箇所を削って返えして来た。「これを書くと重光が死刑になる、重光を死刑にするのは小磯だということになるから書けない」という。東京裁判でキーナン検事は「昭和二年〔一九三七〕から一貫した侵略行為」ときめつけているのに、事実を事実として指適するのに何が悪かろう。私は小磯に言った。
「貴方の弁護は辞める。私の使命は貴方個人の弁護のみではないのだ。日本の真実の歴史
をこゝに残そうと思うからソ連を通じての和平及び繆斌工作の顛末を書きたかったのだ」その時本当に私は辞めるつもりであった。が小磯はたゞ黙って〝管鮑貧時之交〟と云う詩の一節を私に寄せられたので、その心情を汲んで弁護を続けることになったが、結局口述書は「小磯はソヴィエト及び重慶を通じて和平を計った」という一行に止められた。昭和二十五年〔一九五〇〕小磯は遂に刑務所内に於て不帰の人となった。この工作に反対した重光は再び脚光を浴びて政界に入り、今や外交の中心に存在する。不思議な時代だと思うが、二度と国の道を誤って貰っては困る。
 繆斌は戦後漢奸として逮捕され一九四六年死刑に処せられた。これを以て日本では、現在、繆斌に対して二重人格者などという奴輩〈ドハイ〉があるが、これは全くの誹謗の言である。アメリカからの帰りに渡日した何応欽〈カ・オウキン〉は、「惜しいことをした。私がアメリカに行かずに中国にいたなら、決して彼を殺しはしなかったものを」と語っていた。繆斌の人格については生証人〈イキショウニン〉として何応欽氏が現存している。   (筆者は弁護士)

 繆斌工作については、まだ研究途上なので、この文章における三文字正平の見解についてコメントすることは避けたい。しかし、繆斌あるいは小磯国昭という人物に対する評価が、これまで、あまりに低かったのではないか、という印象は持っている。

*このブログの人気記事 2017・5・13(2・4・10位にきわめて珍しいものが)

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「中日全面和平案」もしくは「山県・繆斌協定」

2017-05-12 05:31:38 | コラムと名言

◎「中日全面和平案」もしくは「山県・繆斌協定」

 昨日の続きである。三文字正平の「葬られた繆斌工作」という文章(『人物往来』第五〇号、一九五二年二月)を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した「小磯内閣のガン・重光の留任」という節のあとに、「繆斌・山県全面和平の具体案」という節が続く。本日は、この節を紹介しようと思うが、その前に、まず、同節にある「繆斌氏の略歴」というカコミ記事(編集部注)を紹介しておきたい。

  繆 斌 氏 の 略 歴
 江蘇省の無錫〈ムシャク〉に生れ、丕成〈ヒセイ〉と号した。上海の南洋大学電気科在学中に革命連動に身を投じ、大学卒業後は黄埔〈コウホ〉軍官学校の電気通信の教官となった。軍官学校時代には孫文主義学会を祖織して、周恩来の青年軍人聯盟に対抗したが、国民革命第一聯隊が編成されるや国民党代表として第一聯隊付となった。その後国民革命第一軍副党代表、総軍司令部経理局長を経て、二十四歳の若さで国民党第二次中央執行委員となり一九二九年には江蘇省の民政庁長となる。一九三六年初頭、日本研究のため夫人と共に渡日、日華事変当初は北京で新民会を創設し指埠に当ったが、これが何時の間にか日本人の民衆団体と化した為に辞めて、汪兆銘〈オウ・チョウメイ〉政権の立法院院長になった。然し間もなく汪兆銘に睨まれ、考拭院副院長に左遷されたが退官、和平工作に従事したが、戦後漢奸として逮捕され、一九四六年五月二十一日蘇州獅子口〔江蘇〕第三監獄で李曙東から死刑執行の宣告を受けた後、上告も許されず銃殺された。  (編集部)

  繆斌・山県全面和平の具体案
 繆斌工作は小磯〔国昭〕内閣成立直後、小磯の同期生山県初男(退役陸軍大佐)が、先ず全面和平の瀬踏みの為、華北華中の状況を確かめに出かけたことに端を発する。山県氏は在支四十年、中国の事情に最もよく通じた人である。氏は天津、北京、上海に約五十日滞在し、人を介して重慶政府に確実に通じる人物を確かめた。当時華北には日本軍占領後に出来た王克敏〈コウ・コクビン〉政権があり、南京には汪兆銘〈オウ・チョウメイ〉政権があったが、山県氏は、このいずれにも屈せぬ民間人で、重慶と連絡のつく人を探し求めていた。
 十二月二十八日にかねて頼んであった上海から情報が入り、山県氏に小磯総理の代理として和平交渉を行うべき使命が与えられた。しかし柴山〔兼四郎〕陸軍次官はなかなか飛行機の便宜を計らず、明けて一月十六日になって漸く席をとったことを通知して来、十八日に羽田を発って上海に向った。そこで相内重太郎(元満鉄社員)元駐日代理公使の周●(華中水産会社々長)に逢い、両氏から重慶への路線は沢山あるが人物としては繆斌が一番確かであるとすゝめられた。
 その頃、繆斌は南京政府の立法院長から考試院副院長に左遷されて上海にあった。しかし上海の財閥を押えていて、繆斌邸には重慶側の要人も多く出入しているようであったし蒋〔介石〕総統の片腕として活躍していた藍衣社の戴笠〈タイ・リュウ〉と連絡がとられていた。この点最も重慶と深い関係があると見られたし、又山県氏は繆斌の人格に魅かれたようである。重慶政府は一つには中国共産党との種々の事情があって和平締結を望んでいたが、繆斌その人は、本当の和平論者であった。山県氏は上海に三週間滞在の間、相内重太郎・田村真作等の援助をうけて、繆斌との間に左記の如き全面和平案を作製した。
   中日全面和平案   山県・繆斌協定
 全面和平は政治的対立、軍事的対立、経済的対立の現状を解消するを原則とする。
その実行案次の如し。
一、南京政府を即時解消す
 1、南京政府は自発的に解消の声明を行う
 2、南京政府の重要責任者数名は日本国内に静養せしむ
二、南京政府解消と同時に重慶政府の指定するもの及び重慶政府の承認する民間有力者を以て民意に依る「留守府〈リュウシュフ〉」(中華民国々民政府南京留守府)政権を組織す。
 1、南京政府解消発表と同時に各地方政府省各軍隊各民衆団体より○○氏擁護の通電を発して全面和平を達成され度〈タキ〉旨の懇請をなす。
 2、留守府成立と同時に留守府は重慶中央政府に対し「留守府に於ておいて暫時の間地方の秩序を維持しているから中央政府は速に南京に還都され度」旨を通電する。
 3、留守府は同時に日本に対し「全面和平のため速に停戦し撤兵されんことを希望する」旨の通電を発する
 4、留守府は更に又世界及米英に対し「人類の幸福の為に速に世界平和を希望する」旨の通電を発する。
三、日本政府及重慶政府は南京留守府政権成立と同時に同政権を通し相互に停戦撤兵の交渉を開始す
 1、〇〇留守は日本天皇に謁見す。
 2、留守府政権成立後直に〈タダチニ〉停戦及撤兵に関し日中双方より軍事代表を出し紳士協定を秘密裡に締結する。
 3、留守府は蒋〔介石〕主席に対し「世界和平のため日、米英間の和平を仲介され度」旨を懇請する。
 4、停戦に関する正式発表は重慶中央政府の南京還都と同時に行う(同時に日華新条約を締結する)
四、留守府は財界の急激なる変動を考慮し、経済安定の為、経済統制を撤廃し、物価〔ママ〕の流通を図り、又重慶法幣も儲備券〈チョビケン〉、聯銀券と併行し同様の価値を以て同時に通用せしめる。   以上
 この他に満洲問題は触れずに和平成立後に討議することを秘密条件とした。この点に関する両人の話し合いは次の通りである。
 繆斌 満州問題は日華事変発生の原因であるから満州皇帝を取消さなければ全面和平は中国側として絶対に不可能である。
 山県 御意見至極御尤だが今直ぐに満洲皇帝を取消すことは、日本側として既に世界に声明している為、これ又絶対に承認出来ないことである。しかし私に一案がある。満州国に憲法なく皇帝に関する法規はないから、万一皇帝に事故のある場合は誰が皇位を継ぐか或いは皇位を廃するか等の問題が起るだろう、その場合は皇帝を取消すことも考えられる。従ってこの問題について双方の主張を争う時は遂に和平は成立出来ないから、中国の方で皇帝問題は触れないことゝし、和平成立後、日本は中国の面子を立てるということに紳士的言質〈ゲンチ〉を与えることにしたい。
 繆斌 貴方の説の如く満州は時期を見て取消すという日本側の言質を得て此の問題は表面は触れないことにしましょう。
 ということで表面満州問題には触れないことになった。【以下、次回】

 文中、○○氏、○○留守とあるところには、それぞれ、繆斌が入っていたのであろう。なお、「留守」は、〈リュウシュ〉と読み、留守府の責任者を指す言葉と思われる。
 また、「元駐日代理公使の周●」という箇所があるが、この人名は、今のところ、確認できない。●にあたるのは、「王へんに王」という珍しい字である。
 さて、繆斌と山県初男との間で作成された「中日全面和平案」については、以前、このブログでも紹介したことがあった。
 南京政府は即時解消(繆斌の和平実行案)
 これは、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)に載っていたものを、そのまま紹介したものだが、同書においては、「中日全面和平実行案」という名前で呼ばれていた。
 いま、『永田町一番地』にあるものと、ここで三文字正平が紹介しているものとを比較すると、後者のほうが詳しい内容になっている。つまり、この「葬られた繆斌工作」という文章は、参照に値する文献かもしれない。
 なお、本日、引用した部分の最後に、繆斌と山県初男の会話がある。ここで、山県は繆斌に対し、「満州国に憲法なく皇帝に関する法規はない」ということを述べているが、これは、とんでもないウソである。こういう重大な交渉で、こういうウソをつくのは、いかがなものか。たしかに、満州国(満州帝国)に憲法はなかったが、憲法に準ずる「組織法」(康徳元年=一九三四)という法律があり、その第一章は、「皇帝」であった。また、帝位の継承について定めた「帝位継承法」(康徳四年=一九三七)という法律も存在した。このあたりについては、数回のちに、もう少し詳しく紹介してみたい。

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