◎「中日全面和平案」もしくは「山県・繆斌協定」
昨日の続きである。三文字正平の「葬られた繆斌工作」という文章(『人物往来』第五〇号、一九五二年二月)を紹介している。本日は、その二回目。
昨日、紹介した「小磯内閣のガン・重光の留任」という節のあとに、「繆斌・山県全面和平の具体案」という節が続く。本日は、この節を紹介しようと思うが、その前に、まず、同節にある「繆斌氏の略歴」というカコミ記事(編集部注)を紹介しておきたい。
繆 斌 氏 の 略 歴
江蘇省の無錫〈ムシャク〉に生れ、丕成〈ヒセイ〉と号した。上海の南洋大学電気科在学中に革命連動に身を投じ、大学卒業後は黄埔〈コウホ〉軍官学校の電気通信の教官となった。軍官学校時代には孫文主義学会を祖織して、周恩来の青年軍人聯盟に対抗したが、国民革命第一聯隊が編成されるや国民党代表として第一聯隊付となった。その後国民革命第一軍副党代表、総軍司令部経理局長を経て、二十四歳の若さで国民党第二次中央執行委員となり一九二九年には江蘇省の民政庁長となる。一九三六年初頭、日本研究のため夫人と共に渡日、日華事変当初は北京で新民会を創設し指埠に当ったが、これが何時の間にか日本人の民衆団体と化した為に辞めて、汪兆銘〈オウ・チョウメイ〉政権の立法院院長になった。然し間もなく汪兆銘に睨まれ、考拭院副院長に左遷されたが退官、和平工作に従事したが、戦後漢奸として逮捕され、一九四六年五月二十一日蘇州獅子口〔江蘇〕第三監獄で李曙東から死刑執行の宣告を受けた後、上告も許されず銃殺された。 (編集部)
繆斌・山県全面和平の具体案
繆斌工作は小磯〔国昭〕内閣成立直後、小磯の同期生山県初男(退役陸軍大佐)が、先ず全面和平の瀬踏みの為、華北華中の状況を確かめに出かけたことに端を発する。山県氏は在支四十年、中国の事情に最もよく通じた人である。氏は天津、北京、上海に約五十日滞在し、人を介して重慶政府に確実に通じる人物を確かめた。当時華北には日本軍占領後に出来た王克敏〈コウ・コクビン〉政権があり、南京には汪兆銘〈オウ・チョウメイ〉政権があったが、山県氏は、このいずれにも屈せぬ民間人で、重慶と連絡のつく人を探し求めていた。
十二月二十八日にかねて頼んであった上海から情報が入り、山県氏に小磯総理の代理として和平交渉を行うべき使命が与えられた。しかし柴山〔兼四郎〕陸軍次官はなかなか飛行機の便宜を計らず、明けて一月十六日になって漸く席をとったことを通知して来、十八日に羽田を発って上海に向った。そこで相内重太郎(元満鉄社員)元駐日代理公使の周●(華中水産会社々長)に逢い、両氏から重慶への路線は沢山あるが人物としては繆斌が一番確かであるとすゝめられた。
その頃、繆斌は南京政府の立法院長から考試院副院長に左遷されて上海にあった。しかし上海の財閥を押えていて、繆斌邸には重慶側の要人も多く出入しているようであったし蒋〔介石〕総統の片腕として活躍していた藍衣社の戴笠〈タイ・リュウ〉と連絡がとられていた。この点最も重慶と深い関係があると見られたし、又山県氏は繆斌の人格に魅かれたようである。重慶政府は一つには中国共産党との種々の事情があって和平締結を望んでいたが、繆斌その人は、本当の和平論者であった。山県氏は上海に三週間滞在の間、相内重太郎・田村真作等の援助をうけて、繆斌との間に左記の如き全面和平案を作製した。
中日全面和平案 山県・繆斌協定
全面和平は政治的対立、軍事的対立、経済的対立の現状を解消するを原則とする。
その実行案次の如し。
一、南京政府を即時解消す
1、南京政府は自発的に解消の声明を行う
2、南京政府の重要責任者数名は日本国内に静養せしむ
二、南京政府解消と同時に重慶政府の指定するもの及び重慶政府の承認する民間有力者を以て民意に依る「留守府〈リュウシュフ〉」(中華民国々民政府南京留守府)政権を組織す。
1、南京政府解消発表と同時に各地方政府省各軍隊各民衆団体より○○氏擁護の通電を発して全面和平を達成され度〈タキ〉旨の懇請をなす。
2、留守府成立と同時に留守府は重慶中央政府に対し「留守府に於ておいて暫時の間地方の秩序を維持しているから中央政府は速に南京に還都され度」旨を通電する。
3、留守府は同時に日本に対し「全面和平のため速に停戦し撤兵されんことを希望する」旨の通電を発する
4、留守府は更に又世界及米英に対し「人類の幸福の為に速に世界平和を希望する」旨の通電を発する。
三、日本政府及重慶政府は南京留守府政権成立と同時に同政権を通し相互に停戦撤兵の交渉を開始す
1、〇〇留守は日本天皇に謁見す。
2、留守府政権成立後直に〈タダチニ〉停戦及撤兵に関し日中双方より軍事代表を出し紳士協定を秘密裡に締結する。
3、留守府は蒋〔介石〕主席に対し「世界和平のため日、米英間の和平を仲介され度」旨を懇請する。
4、停戦に関する正式発表は重慶中央政府の南京還都と同時に行う(同時に日華新条約を締結する)
四、留守府は財界の急激なる変動を考慮し、経済安定の為、経済統制を撤廃し、物価〔ママ〕の流通を図り、又重慶法幣も儲備券〈チョビケン〉、聯銀券と併行し同様の価値を以て同時に通用せしめる。 以上
この他に満洲問題は触れずに和平成立後に討議することを秘密条件とした。この点に関する両人の話し合いは次の通りである。
繆斌 満州問題は日華事変発生の原因であるから満州皇帝を取消さなければ全面和平は中国側として絶対に不可能である。
山県 御意見至極御尤だが今直ぐに満洲皇帝を取消すことは、日本側として既に世界に声明している為、これ又絶対に承認出来ないことである。しかし私に一案がある。満州国に憲法なく皇帝に関する法規はないから、万一皇帝に事故のある場合は誰が皇位を継ぐか或いは皇位を廃するか等の問題が起るだろう、その場合は皇帝を取消すことも考えられる。従ってこの問題について双方の主張を争う時は遂に和平は成立出来ないから、中国の方で皇帝問題は触れないことゝし、和平成立後、日本は中国の面子を立てるということに紳士的言質〈ゲンチ〉を与えることにしたい。
繆斌 貴方の説の如く満州は時期を見て取消すという日本側の言質を得て此の問題は表面は触れないことにしましょう。
ということで表面満州問題には触れないことになった。【以下、次回】
文中、○○氏、○○留守とあるところには、それぞれ、繆斌が入っていたのであろう。なお、「留守」は、〈リュウシュ〉と読み、留守府の責任者を指す言葉と思われる。
また、「元駐日代理公使の周●」という箇所があるが、この人名は、今のところ、確認できない。●にあたるのは、「王へんに王」という珍しい字である。
さて、繆斌と山県初男との間で作成された「中日全面和平案」については、以前、このブログでも紹介したことがあった。
南京政府は即時解消(繆斌の和平実行案)
これは、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)に載っていたものを、そのまま紹介したものだが、同書においては、「中日全面和平実行案」という名前で呼ばれていた。
いま、『永田町一番地』にあるものと、ここで三文字正平が紹介しているものとを比較すると、後者のほうが詳しい内容になっている。つまり、この「葬られた繆斌工作」という文章は、参照に値する文献かもしれない。
なお、本日、引用した部分の最後に、繆斌と山県初男の会話がある。ここで、山県は繆斌に対し、「満州国に憲法なく皇帝に関する法規はない」ということを述べているが、これは、とんでもないウソである。こういう重大な交渉で、こういうウソをつくのは、いかがなものか。たしかに、満州国(満州帝国)に憲法はなかったが、憲法に準ずる「組織法」(康徳元年=一九三四)という法律があり、その第一章は、「皇帝」であった。また、帝位の継承について定めた「帝位継承法」(康徳四年=一九三七)という法律も存在した。このあたりについては、数回のちに、もう少し詳しく紹介してみたい。
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