礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤村操と岩波茂雄は顔なじみの仲であった

2018-06-25 03:44:00 | コラムと名言

◎藤村操と岩波茂雄は顔なじみの仲であった

 今月の二一日および二二日、岩波書店の創業者・岩波茂雄が設立した「風樹会」について紹介した。その際、山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)という本を参照した。この本は、だいぶ前に古書として買ったものだが、買っただけで、ほとんど読んでいなかった。
 読みはじめてみると、予想以上におもしろかった。岩波茂雄という出版人の特異な人物像が、実にイキイキと描かれている。読むにつれ、この人物に愛着すら湧いてくる不思議な本である。
 さて、今回、読んでみて、ひとつ認識を新たにしたのは、若き日の岩波茂雄が、藤村操〈フジムラ・ミサオ〉と「顔なじみの仲」だったというということである。藤村操は、華厳滝〈ケゴンニタキ〉に飛び込んだことで知られる哲学青年で、当時、第一高等学校の生徒だった。岩波茂雄もまた、当時、第一高等学校に在籍していた。
 以下は、前掲『岩波茂雄』の第二章「東都への遊学」にある「藤村操の投瀑」という節の後半部分である。

 こんなハメをはずした、愉快な生活をしていた岩波は、明治三十五年(一九〇二)十月十日の夜、一高寄宿寮でトルストイ(加藤直士訳)の『わが懺悔』を読んだ。近角【ちかずみ】常観の勧めで本郷の文明堂という本屋で買ったものである。あまりの感激に消灯後もローソクの下で読みつづけたが、かれは、まったく自分のために書かれたもののような感動を受けた。そしてこういっている、「トルストイの<信仰なきところに人生なし>の言葉を発見したときなど躍り上るほどの喜びだった。これは僕の思想上の一転機といへよう。」(「回顧三十年」)
 あんなに熱中していたボート部も辞【や】め、岩波はまるで人間が変わったように、人生問題に悩む憂欝な青年になっていった。その原因については失恋の傷手〈イタデ〉とか運動部の醜い内実に対する失望などが考えられるが、日露戦争前の青年学徒を襲った当時の風潮でもあった。即ち、岩波が実科中学を卒業して一高へ入学した頃の、憂国の志士をもって任ずる学生が「乃公〈ダイコウ〉出でずんば蒼生をいかんせん」といったような、悲憤慷慨の時代は過ぎて、「人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く」というようなことを問題とする内観的煩悶時代を迎えていた。「立身出世」とか「功名富貴」などという言葉は男子として口にするさえ恥ずべきであり、「永遠の生命」とか「人生の根本義」のためには死もまた厭わずという時代であった。そしてこれに決定的な刺激を与えたのが、明治三十六年(一九〇三)五月二十二日の藤村操投瀑事件である。
 藤村は当時十八歳、岩波より一年下の哲学科一年生で、たがいに顔なじみの仲であった。その藤村が突然、母と二弟一妹を残して日光の華厳滝に投じ永遠に帰らなかった。死に臨んで藤村は瀑上の大樹を削って次のような「巌頭之感」を書き残した。
《悠々たる哉〈カナ〉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟【つい】に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉す〈ツクス〉、曰く、「不可解」。我この恨〈ウラミ〉を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。》
 これほど若い青年学徒にとって晴天の霹靂〈ヘキレキ〉だったことはない。まして日々、藤村と接していた一高生にとって、さらに同じ悩みを語らっていた友人にとって、名状しがたい衝撃【シヨツク】であった。それは驚愕といぅょりは寧ろ、一種の羨望であったかもしれない。友人の中でも林久男はほとんど狂せんばかりに動かされ、学校にも行かず、寮を出て、雑司ケ谷〈ゾウシガヤ〉の畑の中の一軒屋に昼間でも戸を閉めたままこもっていた。同じ悩みを抱く岩波は渡辺得男とつれだって慰問に行ったが、三人は「巌頭之感」を誦しては泣くばかりだった。それがあまりに激しかったので、友人は悲鳴窟と呼んだ。岩波の手記に、
《……事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であった。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣〈テイキュウ〉したこと幾度であったか知れない。友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。死以外に安住の世界がないと知りながらも自殺しないのは真面目さが足りないからである、勇気が足りないからである、「神は愛なり」という、人間に自殺の特権が与えられていることがその証拠であるとまで厭世的な考え方をしたものである。(「思い出の野尻湖」)》
 感傷的な気分にかられた岩波は、静思の機会を求めて大自然のふところへ飛びこんで行った。求めた場所は郷土信濃の北奥野尻湖であった。明治三六年〔一九〇三〕夏のことである。

 文中、「トルストイ(加藤直士訳)の『わが懺悔』」とあるのは、正確には、トルストイ著、加藤直士〈ナオシ〉訳の『我懺悔』(警醒社書店、一九〇二)ことである。
 また、藤村操が、「哲学科」の一年生だったとあるのは、何かの間違いだろう。
 岩波茂雄の「手記」に「友達が私の居を悲鳴窟と呼んだ」とあるが、この「私の居」とは、どこを指すのだろうか。林久男が借りたという、雑司ケ谷の一軒屋のことを指しているようにも読めるが、このままではわからない。

*このブログの人気記事 2018・6・25

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト80

2018-06-24 03:18:43 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト80

 本日は、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト80を紹介する。順位は、二〇一八年六月二四日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
7位 18年1月2日  坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
8位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
9位 17年1月1日  陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
10位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)

11位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
12位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
13位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
14位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
15位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
16位 18年5月4日  題して「種本一百両」、石川一夢のお物語
17位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
18位 18年1月7日  ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎
19位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
20位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力

21位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
22位 18年5月30日 和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒
23位 18年2月14日 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒントに)
24位 18年3月15日 二・二六事件「蹶起趣意書」(憲政記念館企画展示より)
25位 15年8月5日  ワイマール憲法を崩壊させた第48条
26位 18年5月17日 日下部文夫氏の遺稿「UBIQUITOUS ユビキタス」
27位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
28位 17年8月16日 西神田「日本書房」と四天王寺の扇面写経
29位 18年1月24日 明確な目標なき新体制論議は国民を困惑させる
30位 17年3月11日 教育者は最も陰湿なやりかたで人を殺す

31位 18年5月28日 テーブルの上には「三種の神器」が置かれてあった
32位 18年5月24日 小磯首相の放送「大命を拝して」(1944・7・22)
33位 18年5月27日 政略結婚は昔から権力者の常套手段(猪俣浩三)
34位 18年5月21日 橋本凝胤師から「仏罰じゃ」と言われた鈴木治
35位 18年3月29日 丸川珠代参議院議員の印象操作
36位 18年5月22日 金堂薬師三尊と瓜二つの「講堂薬師三尊」
37位 17年2月18日 張り切った心持は激しい憤激に一変した
38位 18年4月18日 本塁打を打ったサミー・ストラングに25ドルの罰金
39位 17年1月4日  東京憲兵隊本部特高課外事係を命ぜられる
40位 17年4月29日 明治7年(1874)の新潟県「捕亡吏心得書」

41位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ
42位 18年3月19日 田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同
43位 18年5月29日 塩谷温、天津で宣統廃帝に面会(1928)
44位 17年8月20日 『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む
45位 18年3月13日 口は災いのもと、または、安倍首相と森友問題
46位 18年4月12日 クライストの戯曲に見る「独逸人の徹底」
47位 17年12月14日 「親族相続法」公布から一月半、満州国は滅んだ
48位 17年8月5日  ソ連は明8月9日から日本と戦争状態に入る
49位 16年12月6日 ルドルフ・ヘスの「謎の逃走」(1940)
50位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか

51位 18年3月10日 富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(1933)
52位 18年5月25日 なぜ小磯首相は「国民大和一致」を強調したのか
53位 18年1月18日 河出書房「河出新書」のリスト91~180
54位 18年4月16日 『週刊文春』の記事〝「捏造の宰相」安倍晋三〟
55位 18年4月16日 飯野吉三郎は明治天皇と瓜二つだった(猪俣浩三)
56位 17年4月14日 吉本隆明の思想はヨーロッパ的な理性の基準からはずれている
57位 18年1月30日 大逆事件の判決と特赦の筋書きを作ったのは誰か
58位 18年1月30日 岩波茂雄「風樹会設立の趣旨」(1940)
59位 18年6月1日  飯野吉三郎、バルチック艦隊の対馬海峡通過を予言
60位 17年12月13日 満州国「親族相続法」の口語化

61位 18年3月14日 森友学園問題から見えてきたもの(その2)
62位 18年6月22日 岩波生「風樹会の設立について」(1940)
63位 17年7月27日 三時間以上の睡眠をとったことは稀
64位 18年3月14日 初代・古今亭しん生と「九州吹戻し」
65位 18年1月31日 優生学と日本版「ニュールンベルグ裁判」
66位 18年5月18日 国家を維持する四本の綱は「礼・義・廉・恥」
67位 18年3月8日  ホンダN360とホンダCB450
68位 17年2月26日 牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎
69位 17年12月20日 金をもらって名前をかくすのは当然の人情(吉田茂)
70位 18年5月3日  あの講釈にも種本が有るのだらう(伊勢屋万右衛門)

71位 17年8月7日  草を食み土を齧り野に伏すとも断じて戦う(阿南惟幾)
72位 18年4月13日 吉田甲子太郎『星野君の二塁打』(1947)について
73位 18年4月13日 郭務悰らの一行は唐の政治工作隊(鈴木治)
74位 18年2月26日 北一輝の無罪論は成り立ちにくい(津久井龍雄)
75位 18年5月13日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト70
76位 18年2月3日  国書刊行会主旨(1905)は市島謙吉の執筆か
77位 17年8月19日 「市民ケーン」(1941)は今日なお映画史上の傑作
78位 18年6月17日 国民は尚ぼんやりして喪心状態に居る(馬場恒吾)
79位 18年3月28日 人間は振出しが大切だ(田中光顕)
80位 18年3月9日  筒井清忠氏の新刊『戦前日本のポピュリズム』を読む

次 点 18年5月2日  仇を報ゆるに恩を以てせよとやら

*このブログの人気記事 2018・6・24

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龍雲院の「林子平之碑」の碑文を紹介する

2018-06-23 01:39:23 | コラムと名言

◎龍雲院の「林子平之碑」の碑文を紹介する

 どこかに仕舞い忘れていた伊勢齋助編次『林子平先生伝』(龍雲院、一九二七)が、出てきた。その冒頭には、仙台・龍雲院の「林子平之碑」の碑文が載っている。「林子平之碑」については、これまで何度か取りあげてきたが、その碑文は、まだ紹介していなかった。
 以下にその碑文を紹介する。参照したのは、前記『林子平先生伝』と、インターネット上で閲覧できる「林子平之碑」の拓本である(2018・6・21閲覧)。『林子平先生伝』で紹介されている碑文は、一部に、誤記ないし誤植が見られたが、前記拓本によって訂正した。碑文は、全三十行で、原則として一行あたり四十七字が彫られている。「/」は、改行を示す。

林子平伝    太政大臣従一位勲一等三條実美篆額  齋藤維馨撰  従五位長炗書/
仙台有奇士曰林子平父源五兵衛名良通仕幕府有故削籍而姉適聘為本藩側室故子平及兄嘉膳皆受藩俸然子平/
倜儻有大志常見人之酣豢於富貴飽暖自安者以為是遭変故則不堪其用也於是寒素自給雖藍縷糲食不厭自視猶/
在兵陳間性健歩好游四方靡遠弗至行輙躡屐如往来鄰里者人不知其行千里之遠也所過風土之美悪地勢之利害/
政刑民俗之得失皆諳知之尤注心於辺防前是寓藩医工藤球卿家球卿素有辺防之議子平論与之合於是従鎮台再/
游長崎接異邦人咨訪海外緒国情状益知辺防之為急適清商在館者激事忤命鎮台命子平及諸士勦之子平奮闘先/
衆生虜数人曰吾知西人之伎倆矣既帰遂著海国兵談若干巻大意以為西北諸蕃概以奪地拓彊為務威力日強必且/
朶頤於我而彼長航海洪波大涛視如坦途我環国皆海近自日本橋至鄂羅斯阿蘭陀同一水路無有阻隔彼欲来即来/
而我拱手無備亦已危矣節国用修兵備瀕海要地設台置砲数年而沿岸皆塁儼然成一大長城矣然後一日有変以逸/
待労庶可無患而尤可慮者我南北諸島委而不顧彼或拠之是異日之大患也因著三国通覧以論諸島之形勢然海内/
未甞知外寇之如此也咸謂諸蕃之来商船耳漁船耳曷有他志彼張皇無根之事不過為釣名計幕議亦以為然命禁錮/
于仙台時寛政壬子五月十五日也於是子平作六無歌自号六無齋主人蓋以寓逍遥自適之意焉時輙為子弟談兵罵/
世之講兵主一家曰甲曰越者曰彼何適用苟欲適用不若読古戦記録而察其勝敗之由為有用也又見子弟之読書者/
曰読書可也然足跡遍天下者然後読書亦足以為用卿輩足未甞出里閈何足用哉歳甞餓為藩老佐藤伊賀著富国策/
以為東海多鯨苟能捕之亦足以助国用其他陳省費済財之術雖不行識者知其可用焉又著父兄訓盖謂前是童蒙有/
訓然今之世父兄亦不可無訓也隨筆雑記有数巻皆居常聞見所得巨細尽載亦多裨人者高山正之蒲生秀実皆以奇/
士称然不与子平合初子平在京師謁中山亜相亜相盛称正之忼慨論時事涕随言下状子平曰彼有泣癖耳今時昇平/
奚以泣為即可憂者唯辺防而彼一泣外計無所出公亦以彼為善不知一旦外寇之変生坐待風浪干萬一耶秀実亦甞/
訪子平行装甚野子平一見罵曰何物措大鄙野乃爾秀実亦忿曰野老之謾人亦至此耶不交他語而去子平既廃閲歳/
没其後十余年東陲果有鄂虜之変秀実服其先見上閣老書曰祭子平之墓而謝其霊可也及幕議修辺防蓋亦有取於/
其言追賜赦姪某始封其墓事在天保壬寅距其死凡五十年子平名友直子平其字也論曰余在郷常従亘理往齋游往/
齋即受兵於子平者也甞為余言曰子平為人磊落而守己謹厳尤有可称焉子平自禁錮之後幽居一室人或謂之曰子/
雖禁錮事係幕議非出本藩之意且歳月已久雖間出游莫或知者何不出訪隣里友朋而自消遣也子平曰日月在天人/
可欺也天可欺哉因作国歌以自述至死未甞隻歩出戸庭嗚呼子平之自守如此豈特一奇士而已哉/
明治十二年己卯十一月余奉命巡視奥羽過仙台訪林子平墓墓在荒径野艸之間石麤而小僅刻其姓名字細苔蝕殆/
不可弁嗚呼天明寛政之際天下無事上下恬煕不復知海警為何事独子平懐嵬偉之資察海外形勢深究攻守之策著/
海国兵談三国通覧諸書其意在欲警醒天下之耳目以謀綢繆於未雨而廟堂不察斥為狂妄禁錮終身不得展其抱負/
厥後時事一変世之言海防者紛々而起要皆不能出乎子平之範囲此所謂先天下之憂而憂者豈得不謂豪傑之士也/
哉顧距其死未百年而其墓既荒可深慨也余慕子平之為人惜其湮没於是更樹貞石勒以齋藤維馨所撰之伝欲使其/
卓行偉節表著于後世亦発潜闡幽之意也参議兼内務卿正四位勲一等伊藤博文記     廣群鶴鐫

*このブログの人気記事 2018・6・23

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岩波生「風樹会の設立について」(1940)

2018-06-22 04:19:34 | コラムと名言

◎岩波生「風樹会の設立について」(1940)

 昨日は、岩波書店の創立者・岩波茂雄が執筆し、一九四〇年(昭和一五)一〇月に発表した「風樹会設立の趣旨」という文章を紹介した。本日は、その続きで、同じく岩波茂雄が執筆した「風樹会の設立について」という文章を紹介してみたい。
 この文章は、「風樹会設立の趣旨」を補足する性格のものであり、署名は「岩波生」、日付は付されていないが、内容から、同年一一月二日以降で、同年のうちに書かれたものであることがわかる。
 山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)に引かれていたものを重引する。仮名づかいは、同書の通り。

  風樹会の設立について    岩波生
 私が何故に〈ナニユエニ〉風樹会を設立するに至ったか、会の目的とするところは何か、また何故に風樹会と名づけたか等は、前掲の趣意書に述べたとほりである。私がこの趣意書を添へて財団法人設立の願書を出したのは教育勅語渙発五十年記念日の十月三十日であつたが、幸ひにして文部省本田〔弘人〕学芸課長、内山秘書官、岩見史朗氏の氏の御尽力をはじめ橋田〔邦彦〕文部大臣、岡田〔周造〕東京府知事までも煩はし僅々二日にして許可せられ、私の如く明治に育ちし者にとっては特に思ひ出深き明治節の直前、即ち十一月二日を以て、風樹会は正式にその設立を見た。年来の素志の一端を果し終って本年のこの佳節〔明治節〕を迎へまつることを得たのは、私として寔に〈マコトニ〉感慨浅からぬことであった。
 思へば、私が人の子を賊ふ〈ソコナウ〉を恐れて教職を去り斯業に暫しの隠れ家を求めたのは約三十年前の事に属する。予期した失敗も来らず〈キタラズ〉従って憧れし晴耕雨読の田園生活にも入る機会もなく事業が進展して今日に到り風樹会の設立を見た事は自分にとっても意外な事であった。これは一つには、創業以来多年に亘って指導鞭撻の労を吝まれ〈オシマレ〉なかった諸先生並びに知友諸君の高助によるものであり、また一つには、文化を愛する大方の知識人の絶大なる支援に基くものである。私は先づ何よりもこの方々に向って衷心より感謝を献ぐる者である。
 会の運用に関しては、理事として西田幾多郎〈キタロウ〉博士、高木貞治〈テイジ〉博士、岡田武松〈タケマツ〉博士、田辺元〈ハジメ〉博士、小泉信三博士の御就任を辱うし〈カタジケノウシ〉、且つ監事として第一銀行頭取明石照男氏を迎ふることを得、一切を挙げてこの方々に御一任することとした。これ迄も編輯に於ては理事の諸博士に、事業連営に於ては監事明石氏に負ふところ少からざるものがあるが、更に今回の企てに対し、かくの如き御協力を仰ぎ得たといふことは、何ものにも優る私の喜びである。かゝる諸権威を迎へて会に磐石の重きを加へた以上、会の運用については、私に於いて毛頭の不安もない。況んや、学界のこと、固より〈モトヨリ〉一出版者の容喙〈ヨウカイ〉すべき限りではない。世上往々にして、この種の事業にあたり、単に設立者たるの故を以て無縁の者が枢要の位置に坐する弊あるに鑑み〈カンガミ〉、私は風樹会の設立にあたっては自ら理事に就任せざるのみならず、資金の使途に関しても、万事を前記理事会に一任することとした。ただ事務上の雑事に関して諸先生を煩はすことは余りに恐懼〈キョウク〉であるから、これに就いては、一事務員として私が犬馬の労に服するつもりである。
 なお、出資百万円及び其の利子は純粋に学徒の生活の給費そのものに支出して厘毛と雖も他の使用を許さず、会の事業経営に要する総ての費用は私自身の負担とし、今後永久に別途これを会に寄附することと規定したのである。且つ又、在来この種の財団は専ら利子のみを以て事業を営み、その存続を期するのが習ひであるが、私は、かゝる事業に於いて自己の記念を思ふべきではないと信ずるので、利子のみによる経営法を採用せざることとした。従って、理事会に於いて有効適切なる使途と腮めらるゝ場合には、その全額を即時支出することをも敢えて厭はない方針である。私の偏へに〈ヒトエニ〉念願するところは、わが学術の逞しき生長と、わが国民の教養の向上にあり、特に風樹会にかゝはる限りでは、基礎的研究の輝かしき進歩である。この目的のためには、風樹会は一日も早くその財産全額を使ひ果すことを希望する。私の今回の挙が、この方向に向って些か〈イササカ〉なりとも貢献し得るならば、私の望みは以て足る。
 風樹会の設立以来、知友諸君及び未知の諸君子より夥しき〈オビタダシキ〉激励の辞を賜はり、私は意外の感激を受けた。一々御返事申しあげ得ぬ向きもあるので、茲に簡単な御報告を兼ねて謝意を表する次第である。

*このブログの人気記事 2018・6・22

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岩波茂雄「風樹会設立の趣旨」(1940)

2018-06-21 05:57:06 | コラムと名言

◎岩波茂雄「風樹会設立の趣旨」(1940)

 昨日、Yahoo!ニュースで、「時流におもねらず、時局と対峙する-岩波新書80年の伝統とは」という記事を読んだ(六月二〇日10:17配信)。岩波書店内の「岩波新書編集部」の写真などもあって、興味深い記事だった。
 記事の最後に、「諏訪市立信州風樹文庫」が紹介されていた。以前から、一度は訪れてみたいと思っていた場所である。
 岩波書店の創業者である岩波茂雄(一八八一~一九四六)は、一八九六年(明治二九)、十五歳にして父を失った上、一九〇八年(明治四一)、二七歳にして母を失い、「風樹の嘆」を味わった。その後、功成った岩波茂雄は、一九四〇年(昭和一五)一〇月、学術の基本的理論的研究を援助するため、財団法人「風樹会」を設立した。同じころと思われるが、郷里の長野県諏訪郡中洲村に公会所を寄付し、これを「風樹会館」と名づけている。一九四七年(昭和二二)五月、すなわち岩波茂雄の死の一年あまり後、地元青年の要望を受け、「風樹会」が、中洲村に「風樹文庫」(今日の「諏訪市立信州風樹文庫」)を設立した。
 さて、本日は、岩波茂雄が執筆した「風樹会設立の趣旨」という文章を紹介してみたい。山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)に引かれていたものを重引する。仮名づかいは、同書の通り。
 
  風樹会設立の趣旨     岩波茂雄
 今や我〈ワガ〉国運は世界的に躍進を遂げ、武威四海に輝くものあるも文運の隆昌は尚将来に期待すべきもの少くはない。世界的水準に立って我国に於ける学術進歩の現状を見れば尚謙虚なる態度をもつて大に欧米に学ぶべきものあるを痛感せざるを得ない。洵に〈マコトニ〉学術の進展と教養の向上とは我国現時の緊急にして根本的なる要請であらねばならぬ。今日高度国防国家の建設が強調せられると雖も〈イエドモ〉其の根幹の理念は之を哲学に求むるの外なく、又最新最鋭の武器弾薬も悉く之れ深奥〈シンオウ〉なる科学の所産なるは言ふ迄もない。学術の振興を外にして興隆日本の颯爽たる英姿を想望する事は絶対不可能である。私は文化戦線に立つ一兵卒として常に念願して止まざるは知識を世界に求むる明治維新御誓文の御遺訓を体して学術の進展に寸尺〈スンシャク〉の寄与をなし君国に報い奉らんとする唯一事である。
 近時学術の尊重すべきを知り其の応用的実際的方面の研究に援助を与うる気運漸く興れりと雖も尚基本的理論的研究に助力を与ふる施設は甚〈ハナハダ〉少い。思ふに単なる応用的研究のみを以てしてはその効果も覚束なく〈オボツカナク〉根幹的学理の研究を俟ってこそ初めて実用的目的の達成を期し得るのである。私が微力を顧みず財団を設け、哲学・数学・物理学等の如き学術の基礎的研究に力を致さんとするのも此の欠陥を補ふに資する為である。
 少年時代父を亡ひ〈ウシナイ〉青年時代母を亡ひ海嶽〈カイガク〉の慈恩に一片報ゆる処なかりしは終生に亘る私の最大恨事である。今に到るも尚父を懐い母を懐うて黯然〈アンゼン〉たるものがある。私が多少とも世に奉仕せんとするは此の風樹の歎を自ら慰めんとするに過ぎない。本寄付行為の名称は之に基づく。ありがたき国に生をうけ記念すべき皇紀二千六百年に際会し、日ならずして慕ひまつる明治天皇の佳節〔明治節〕を迎へんとする。今此の献芹〈ケンキン〉の微衷を父母の霊に告ぐるを得たるを欣び〈ヨロコビ〉茲に多年に亘り私の志業を扶け〈タスケ〉られし江湖の諸君子に深き感謝を棒ぐ。
 昭和十五年十月三十日 教育勅語渙発五十年記念日

 ちなみに、「風樹の歎」(一般的には「風樹の嘆」)とは、親に孝行しようと思ったときに、すでに親が死んでしまっていた嘆きという意味である。韓詩外伝の「樹欲静而風不止、子欲養而親不待也」に由来するという。

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