◎藤村操と岩波茂雄は顔なじみの仲であった
今月の二一日および二二日、岩波書店の創業者・岩波茂雄が設立した「風樹会」について紹介した。その際、山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)という本を参照した。この本は、だいぶ前に古書として買ったものだが、買っただけで、ほとんど読んでいなかった。
読みはじめてみると、予想以上におもしろかった。岩波茂雄という出版人の特異な人物像が、実にイキイキと描かれている。読むにつれ、この人物に愛着すら湧いてくる不思議な本である。
さて、今回、読んでみて、ひとつ認識を新たにしたのは、若き日の岩波茂雄が、藤村操〈フジムラ・ミサオ〉と「顔なじみの仲」だったというということである。藤村操は、華厳滝〈ケゴンニタキ〉に飛び込んだことで知られる哲学青年で、当時、第一高等学校の生徒だった。岩波茂雄もまた、当時、第一高等学校に在籍していた。
以下は、前掲『岩波茂雄』の第二章「東都への遊学」にある「藤村操の投瀑」という節の後半部分である。
こんなハメをはずした、愉快な生活をしていた岩波は、明治三十五年(一九〇二)十月十日の夜、一高寄宿寮でトルストイ(加藤直士訳)の『わが懺悔』を読んだ。近角【ちかずみ】常観の勧めで本郷の文明堂という本屋で買ったものである。あまりの感激に消灯後もローソクの下で読みつづけたが、かれは、まったく自分のために書かれたもののような感動を受けた。そしてこういっている、「トルストイの<信仰なきところに人生なし>の言葉を発見したときなど躍り上るほどの喜びだった。これは僕の思想上の一転機といへよう。」(「回顧三十年」)
あんなに熱中していたボート部も辞【や】め、岩波はまるで人間が変わったように、人生問題に悩む憂欝な青年になっていった。その原因については失恋の傷手〈イタデ〉とか運動部の醜い内実に対する失望などが考えられるが、日露戦争前の青年学徒を襲った当時の風潮でもあった。即ち、岩波が実科中学を卒業して一高へ入学した頃の、憂国の志士をもって任ずる学生が「乃公〈ダイコウ〉出でずんば蒼生をいかんせん」といったような、悲憤慷慨の時代は過ぎて、「人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く」というようなことを問題とする内観的煩悶時代を迎えていた。「立身出世」とか「功名富貴」などという言葉は男子として口にするさえ恥ずべきであり、「永遠の生命」とか「人生の根本義」のためには死もまた厭わずという時代であった。そしてこれに決定的な刺激を与えたのが、明治三十六年(一九〇三)五月二十二日の藤村操投瀑事件である。
藤村は当時十八歳、岩波より一年下の哲学科一年生で、たがいに顔なじみの仲であった。その藤村が突然、母と二弟一妹を残して日光の華厳滝に投じ永遠に帰らなかった。死に臨んで藤村は瀑上の大樹を削って次のような「巌頭之感」を書き残した。
《悠々たる哉〈カナ〉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟【つい】に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉す〈ツクス〉、曰く、「不可解」。我この恨〈ウラミ〉を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。》
これほど若い青年学徒にとって晴天の霹靂〈ヘキレキ〉だったことはない。まして日々、藤村と接していた一高生にとって、さらに同じ悩みを語らっていた友人にとって、名状しがたい衝撃【シヨツク】であった。それは驚愕といぅょりは寧ろ、一種の羨望であったかもしれない。友人の中でも林久男はほとんど狂せんばかりに動かされ、学校にも行かず、寮を出て、雑司ケ谷〈ゾウシガヤ〉の畑の中の一軒屋に昼間でも戸を閉めたままこもっていた。同じ悩みを抱く岩波は渡辺得男とつれだって慰問に行ったが、三人は「巌頭之感」を誦しては泣くばかりだった。それがあまりに激しかったので、友人は悲鳴窟と呼んだ。岩波の手記に、
《……事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であった。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣〈テイキュウ〉したこと幾度であったか知れない。友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。死以外に安住の世界がないと知りながらも自殺しないのは真面目さが足りないからである、勇気が足りないからである、「神は愛なり」という、人間に自殺の特権が与えられていることがその証拠であるとまで厭世的な考え方をしたものである。(「思い出の野尻湖」)》
感傷的な気分にかられた岩波は、静思の機会を求めて大自然のふところへ飛びこんで行った。求めた場所は郷土信濃の北奥野尻湖であった。明治三六年〔一九〇三〕夏のことである。
文中、「トルストイ(加藤直士訳)の『わが懺悔』」とあるのは、正確には、トルストイ著、加藤直士〈ナオシ〉訳の『我懺悔』(警醒社書店、一九〇二)ことである。
また、藤村操が、「哲学科」の一年生だったとあるのは、何かの間違いだろう。
岩波茂雄の「手記」に「友達が私の居を悲鳴窟と呼んだ」とあるが、この「私の居」とは、どこを指すのだろうか。林久男が借りたという、雑司ケ谷の一軒屋のことを指しているようにも読めるが、このままではわからない。