礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

OCRソフトで表示された珍しい漢字10

2022-12-26 02:13:10 | コラムと名言

◎OCRソフトで表示された珍しい漢字10

 文書をスキャンし、OCRソフトで処理すると、読みとりミスによって、見たこともないような漢字が表示されることがある(私が使っているOCRソフトは、たぶん、中国製である)。
 このブログでは、そういった漢字について、これまでも何度となく紹介してきたが、本日もまた、それらを紹介してみたい。
 部首、韻、音読み、訓読み等は、後藤光憲編『活版鮮明 広益新撰玉編』(鐘美堂、一九〇五)に従った。【  】内に示したのは、栄田猛猪ほか編『大字典』(講談社、一九六五)における説明と漢字番号(漢字番号がない場合はページ数)。それぞれの辞書に該当する文字がない場合は、「なし」と記した。

弋 弋零画 職入  ヨク・ヨク くひ・くひぜ・いぐるみ・くろし
          【標識として立つるクヒのこと・3032】
愎 心九画 職入  ヒョク・ビキ みだる・もとる・おごる・たがふ 
          【剛戻自ら用ひ他の言を顧みざること・3403】
狠 犬六画 刪平  ガン・ゲン いぬ・せりあふ 【犬の齧合ふ声・7143】
羧 なし      【なし】
瘓 疒九画 旱上  タン・タン やむ 【なし】
諝 言九画 語上  シヨ・ソ さとし 【才智ノ称・11064】
酞 なし      【なし】
鋅 なし      【シン 亜鉛・2306頁】
韉 革十七画 先平 セン・セン 鞍韉ハしたぐら 【鞍の下じきの革・13230】
麄 鹿四画 眞上  ソ・ソ 俗麤 【麤の俗字・14630】

 明治期の字書になく、大正期に編纂された『大字典』にもない漢字が、OCRソフトに入っていることに驚き、そういった字が、グーブログでやすやすと表示されることにも驚く。

*このブログの人気記事 2022・12・26(8位になぜか内村鑑三)

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小沢さんは柄笊を持って、お布施を集めてまわりました

2022-12-25 02:51:08 | コラムと名言

小沢さんは柄笊を持って、お布施を集めてまわりました

 昨日の「説教の会」という文章には示されていないが、関山和夫さんは、一九七一年三月の岩波ホールに始まる「説教の会」に、深く関与している。そうは書かなかったところに、この方の奥ゆかしさがある。
 関山和夫さんは、二〇一三年五月に亡くなられたが(一九二九~二〇一三)、亡くなる四年前に『にちぎん』という雑誌の第17号(2009年春号)のインタビュー記事「情念で人は解放される」に登場された(この記事は、インターネットで読める)。その中で関山さんは、次のように語っておられる。聞き手は、日本銀行情報サービス局長(当時)の恵谷(えたに)英雄さん。

日本の芸能の底流を流れている仏教
――三〇年以上前ですか、先生は、俳優の小沢昭一さんとご一緒に、「節談説教〈フシダンセッキョウ〉」を上演して回られました。これはどういうことだったのでしょう。
関山 それは小沢さんの慧眼【けいがん】なんです。「節談説教」に目を付けるところがあの人のすごさで、ほかの役者さんとの違いでしょうね。彼は放浪の芸能者に非常に興味を持って、廃れていく芸能を取材し、録音する仕事にも関わっていました。どんどん社会が近代化するにつれて衰退していく庶民の芸能が本当に大切なものをはらんでいたことに、ちゃんと気付いていたのだと思います。
 小沢さんは私が発表した節談説教に関する研究に興味を持ってくださって、のちに小沢さんや東京の真宗寺院生まれの永六輔さんらと、東京の岩波ホールで最初の「節談説教の会」を開きました。まず私が講演したのち、私が光栄にして台本を書かせていただいた親鸞聖人一代記「説教板敷山【いたじきやま】」を小沢さんがちゃんと袈裟【けさ】をつけて実演、次に真宗大谷派の布教師だった故・祖父江省念【そぶえしょうねん】さんが「忠臣蔵・寺岡平右衛門」を実演、永さん司会の座談会で終わるというプログラム。岩波ホールはそれほど収容人数が多くはありませんが、お客さんでいっぱいになってくれるかどうかとても心配したものです。ところがふたを開けてみたら超満員(笑)。
 続いて名古屋、大阪、福岡、岐阜、沼津などでも開催し、どこも大変な好評をいただきました。ずいぶん有名な作家や俳優さんも来てくださったんです。
 小沢さんがこっそり客席の方をのぞいて、「いやあ偉い人が来ている。震えちゃうよ」なんて言ってましたが、舞台に上がっちゃったらやるしかしようがない。終わった後では袈裟を脱いで、柄笊【えざる】(柄の先に笊がついているもの)を持って客席を歩きまして、お布施を集めてまわりました(笑)。
――節談説教はただの芸能ではなく、あくまでも「布教」だからですね(笑)。芸能ということで咄家【はなしか】さんなどもいらっしゃったのではないでしょうか。
関山 たくさん来てくれました。亡くなった先代の林家正蔵師匠が「昔はこういう話芸からも学んだものだったが」というようなことを言ってくれましたね。

 これを読むと、小沢昭一さんが、「節談説教」に興味を持つようになったキッカケは、関山和夫さんが発表した節談説教に関する研究にあったことがわかる。
 また、「説教の会」の冒頭には、関山さんによる講演があったこと、小沢さんが演じた「説教板敷山」の台本は、関山さんを書いたこともわかる。
 このインタビュー記事を読んで、いちばん興味深かったのは、小沢さんが、出番のあと、袈裟を脱いで、柄笊を持って客席をまわったというところだった。これを私は、小沢さんがみずから「賽銭方」を引き受けたと解釈した。文脈からして、小沢さんは、最初の岩波ホールのときから、この役割を引き受けられてきたようだ。
 これについて、聞き手の恵谷英雄さんは、〝節談説教はただの芸能ではなく、あくまでも「布教」だからですね(笑)〟と受けているが、少し違うと思う。
 節談説教が「布教」であるから「布施」を集めたのではなく、節談説教は、もとは放浪芸であったために「銭」にこだわるところがあったのだと思う。地方巡回の大衆演劇などの世界では、今でも「投げ銭」がツキモノだと聞く。小沢昭一さんは、そうしたことを、よく知っておられ、あえて「賽銭方」を演じたのではないだろうか。
 ちなみに、小沢昭一さんが亡くなられたのは、二〇一二年一二月のことであった(一九二九~二〇一二)。
 節談説教と「銭」との関わりについては、当ブログ、今月二〇日および二一日の記事を再読いただければ幸いである。

*このブログの人気記事 2022・12・25(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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小沢昭一氏の「説教板敷山」が大入りの聴衆を魅了した

2022-12-24 00:45:58 | コラムと名言

◎小沢昭一氏の「説教板敷山」が大入りの聴衆を魅了した

 関山和夫さんの『話芸の系譜』(創元社、一九七三)の紹介に戻る。本日は、「説教の会」という文章を紹介したい。

 昭和四十五年〔一九七〇〕九月二十二日・二十三日両夜に東京の岩波ホールで「説教の会」が催され、すこぶる盛会であった。
 この催しは、仏教行事ではない。俳優小劇場演劇研究所・芸能研究室が主催した「埋もれた芸能史からの招待」で、日本の話芸の源流を日本仏教の説教の歴史の中に求めて、その本質を探究しようとする、まことに珍しく且つ有意義な企画であった。すべて俳優・小沢昭一氏の発想によるものである。
 わが国の落語・講談・浪花節などの話芸は、古くからある昔話がその語り手たちによって伝承されたという考え方で研究者は調査を続けて来たが、それだけでは物足りなかった。実際に高座に登って〝はなし〟をする技術は、仏教の説教(演説体)によってつちかわれ、洗練され、発展して来たものである。それは歴史に徴して明白である。小沢昭一氏は、全国各地を巡回して芸能の原点を求められた(ビクターレコード『日本の放浪芸』)が、調べれば調べるほど芸能と仏教の深い関係を知り、説教と話芸の親密なかかわりを認識されたという。そして、今もわずかに残る伝統説教を聴き、小沢氏もみずから演じて日本の話芸の特質を知ろうという試みであった。
 この会は、東京で大成功をおさめ、その評判が忽ち全国に伝わり、翌昭和四十六年〔一九七一〕三月二十日・二十一日の両夜に名古屋・東別院青少年会館で、五月一日には東京・浅草の東京本願寺で、十月二十七日夜には大阪・南御堂〈ミナミミドウ〉の御堂会館大ホールで、さらに昭和四十七年〔一九七二〕六月七日夜には福岡・電気ホールで、六月八日夜には京都・シルクホールでそれぞれ催され、いずれも盛況であった。
 この会で、演出家・早野寿郎〈トシロウ〉氏のセンスあふれる構成の中で演じた名優・小沢昭一氏のみごとな「説教板敷山【いたじきやま】」が、大入りの聴衆を完全に魅了し、永六輔氏の司会による鼎談【ていだん】もまことにおもしろかった。
 それとともに、賛助出演された本物の説教師(真宗大谷派布教使)・祖父江省念【そぶえしょうねん】師(名古屋市北区辻町四-五・有隣寺住職)の節談【ふしだん】説教「忠臣蔵・寺岡平右衛門の段」が、きたえぬかれた説教師独特の豊かな声量と巧みな演出、卓越した表出力で満員の聴衆を驚嘆させた。祖父江師の発声法は、日本の芸能者に見られる〝しゃがれ声〟系統のすばらしいもので、現代では芸能のどのジャンルの人にもない美しいものだ。まさに日本一の美声というべきである。
 この会の聴衆は、寺院における説教の聴聞者(善男善女)とはおよそ異質の大学教授・青年僧・布教師・俳優・噺家・講釈師・作家・学生その他都会の若い男女で占められていたが、いずれも説教技術の伝統の底力に恐れ入った様子であった。
 放送界で活躍する永六補氏は、当日のパンフレットに祖父江師の説教を評して「息の根を止められる思いがした」と述べ、さらに「放送芸人の一人として、説教の伝承の義務を感じる」と記しておられる。これは、宗教的立場からの発言ではなく、説教話芸のすばらしさに感動しての発言であろう。昭和四十八年〔一九七三〕八月四日に、金沢東別院でも満堂の膀衆を集めて〝節談説教を聴く会〟が開かれた。〝能登節〟〝加賀節〟の懐しさに聴衆は酔った。小沢昭一氏の司会で寺本明観〈メイカン〉・川岸不退〈フタイ〉・広陵兼純〈ヒロオカ・ケンジュン〉の三師が口演され、まことに有意義であった。まさに北陸は説教の本場である。
 伝統文化の再確認ということは、現代の日本人にとってまことに重要である。文化の進展につれて経験は洗練とともに爛熟して時に本質を忘れてゆがめてしまう。まして、その由来や筋道などは全然別のもののように遠いところへと追いやられてしまう。明治以後の日本は、西欧文明の移入にのみ汲々【きゅうきゅう】として、貴重な日本の伝統文化遺産の継承発展の仕事を忘れてしまった感がある。明治以後の学問研究の方法についてもそれがいえる。わが国の〝はなしの系譜〟を探究するのも、神道系の方法、民俗学による昔話の蒐集の仕事がずっとおこなわれてきた。それはそれで貴重だが、わが国の話術や話芸の歴史の主流を占めたものは〝説教〟であったことも注意しなければなるまい。
 ところが、この説教の歴史研究の方法は近代の学問には全然登場しなかった。それは肝心の宗門の中に説教者を〝河原乞食〟とさげすむ傾向が古くからあり、教団発展に最大の貢献をした説教者を蔑視してきたからである。いわば説教者は日本仏教の歴史を通じて日蔭者扱いをされ、近代においては全く無視されてしまったのである。だが、説教者たちが命がけで話し方技術を訓練し、大衆の大きな支持を得た功績は、日本話芸の歴史追及の面で高く評価されねばならない。〈五六~五九ページ〉【以下略】

 文中、「小沢昭一氏は、全国各地を巡回して芸能の原点を求められた」とあるが、それについては、関山和夫さんからの教示も少なくなかったであろう、と推測する。ちなみに、『話芸の系譜』四二ページによれば、小沢昭一さんは、一九七〇年(昭和四五)一二月四日、関山さんの案内によって、三重県坂本の敬善寺(きょうぜんじ)に藤嶽敬道(ふじたけ・きょうどう)師を訪ねたという。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2022・12・24(10位になぜか岩淵悦太郎)

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(22・12・23現在)

2022-12-23 00:47:41 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(22・12・23現在)

 本日は、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50を紹介します。
 なお、これは、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かった記事の順位ではありません。

1位  16年2月24日  緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位  15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位  19年8月15日  すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位  16年2月25日  鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位  18年9月29日  邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位  16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位  14年7月18日  古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
8位  21年8月12日  国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
9位  21年6月7日   山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
10位 18年8月19日  桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      

11位 17年4月15日  吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
12位 21年3月4日   堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
13位 18年1月2日   坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
14位 19年8月16日  礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
15位 18年8月6日   桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
16位 17年8月15日  大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
17位 18年8月11日  田道間守、常世国に使いして橘を求む
18位 22年8月2日   朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か
19位 22年12月20日 「開帳は夜ふけに限る」と敬道師はいった
20位 17年1月1日   陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)

21位 22年6月22日  大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について
22位 17年8月6日   殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
23位 22年9月20日  太田光氏の「まともな感覚」に期待する
24位 22年10月6日  家々に代々伝へて来るのが「モタル」であります
25位 22年9月22日  坊さんには生活の苦労を知らぬ人が多い(山田孝雄)
26位 17年8月13日  国家を救うの道は、ただこれしかない
27位 22年10月5日  安倍元首相は、「非業の死」を予期していたのか
28位 19年8月18日  速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
29位 21年8月14日  詔勅案は鈴木首相が奉呈して允裁を得た
30位 21年3月5日   ある予審判事が体験した二・二六事件

31位 22年8月17日  帝国憲法の条規中、絶対的に変更すべからざるもの
32位 22年12月19日 藤嶽敬道師は、いくら失敗しても絶対にくたばらない
33位 22年9月21日  君たちは学問がありすぎて常識を働かさない
34位 19年4月24日  浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論
35位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
36位 22年7月13日  伊藤博文の出自は、百姓もしくは軽輩
37位 20年2月24日  悪い奴等を葬るのが改革の早道だ(栗原安秀中尉)
38位 18年10月4日  「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
39位 20年2月26日  日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)
40位 22年10月7日  「梅尾」と書いて、昔から「トガノヲ」と読む

41位 22年9月13日  アウグストゥスは「現に生ける神なる皇帝」を意味した
42位 15年2月25日  映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
43位 19年1月1日   もちごめ粥でも炊いて年を迎えようと思った(高田保馬)
44位 18年5月15日  鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
45位 19年2月26日  方言分布上注意すべき知多半島
46位 22年12月16日 丸山先生が委員会で八月革命という表現を使われ……
47位 19年8月17日  後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)
48位 22年12月21日 この通り、御開山のお姿が刻みこんであります
49位 22年8月12日  同一の措辞は原則として同一の意義を有する
50位 22年12月17日 敬道師は堂々と「節談説教」を開始した

*このブログの人気記事 2022・12・23(8位になぜか甲午農民戦争)

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牧原出氏の新刊『田中耕太郎』を読んだ

2022-12-22 04:42:52 | コラムと名言

◎牧原出氏の新刊『田中耕太郎』を読んだ

 田中耕太郎という異色の学者、毀誉褒貶の激しい人物には、かねて関心を払ってきた。当ブログでも、本年一〇月三〇日から一一月七日までの間、田中耕太郎の文章を紹介したことがある。
 その田中耕太郎についての研究が、新書となって刊行されたという話を聞いて、早速、一読してみた。牧原出(まきはら・いづる)氏の『田中耕太郎――闘う司法の確立者、世界法の探求者』(中公新書2726、二〇二二年一一月二五日発行)である。
 期待に違わない意欲作であり、労作であった。特に、第7章「世界法へ――国際司法裁判所での九年」は、学ばされるところが多かった。
 おそらく、このあと、しばらく、本書を超える水準の田中耕太郎論は、あらわれないだろうと思った。そのように書いて、アマゾンにレビューを投稿した。
 牧原出氏の本を読むのは、これが初めてであった。一九六七年生まれというから、私などの世代から見れば、ずいぶん「若手」である。前途ある著者に対する激励という意味を込めて、いくつか気づいたことを挙げる。
 一〇三ページに、一九三八年(昭和一三)二月一日、三室戸敬光(みむろど・ゆきみつ)が貴族院で、田中耕太郎の著書『法と宗教と社会生活』(一九二七年一月刊)を論難したとある。一方、七四ページには、蓑田胸喜の『法哲学と世界観』という書名が出てくる。『法哲学と世界観』が刊行されたのは、同年の一〇月八日で、その第一ページには、「筆者は同書が昭和二年出版された当時『原理日本』誌上に於いて之を批判し」云々とある。貴族院における三室戸の論難の背後には、蓑田という存在があったと推察されるが、このあたりのツナガリを明確にしていただくとよかった。
 二二三ページに、「部分社会論」という言葉が出てくる。最高裁判所長官時代の田中耕太郎が、「部分社会論」を主張したことが、その後の判例に及ぼした影響は大きかった。管見によれば、田中自身は、著書においても、判決においても、「部分社会」という言葉を使っていない。田中の「法秩序の多元性」という考え方を、「部分社会」という言葉によって解説したのは、法哲学者の恒藤恭(つねとう・きょう)である(『法の基本問題』一九三六年、二二六ページ)。また、判例において「部分社会」という言葉が用いられたのは、一九七七年(昭和五二)三月の富山大学単位不認定事件最高裁第三小法廷判決だとされているが、そのときの裁判長は、天野武一(あまの・ぶいち)である。ちなみに、田中耕太郎は、この判決を聞くことなく、一九七四年(昭和四九)三月に他界している。
 本書巻末の「主要引用・参考文献」は、非常に有益である。私は、これを見て、蓑田胸喜『法哲学と世界観』という本の存在を知った(この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで、インターネット公開されている)。もっとも、なぜ、これが参考文献として挙げられていないのかと思うものもあった。たとえば、田中耕太郎「新憲法に於ける普遍人類的原理」(『季刊法律学』第三号、一九四八年三月)、田中耕太郎「教育権の自然法的考察」(『法学協会雑誌』第六九巻第二号、一九五一年八月)、ホセ・ヨンパルト「田中耕太郎の自然法論」(『法哲学年報1979』一九八〇年一〇月)、勝野尚行『教育基本法の立法思想』(法律文化社、一九八九年三月)など。

※ 訂正と補足です。参考文献に、田中耕太郎の論文「新憲法に於ける普遍人類的原理」(1948年3月)が挙げられていないと書きましたが、同論文は、田中耕太郎『平和の法哲学』(有斐閣、1954年10月)に収録されています。参考文献にある『平和の法と哲学』は、『平和の法哲学』のことだと思われますので、右論文が「挙げられていない」としたのは、適切ではありませんでした。
 細かいことですが、『平和の法哲学』は、「新憲法に於ける普遍人類的原理」の初出を、(昭和二十三年 法哲学四季報 第二号 所載)としていますが(73ページ)、これは誤りです。正しくは、(昭和二十三年三月 季刊法律学 第三号)です。当時、『法哲学四季報』という雑誌も出ていましたが、その第2号は、1949年(昭和24)2月刊で、田中耕太郎の論文は掲載されていません。なお、これまた細かいことですが、『平和の法哲学』の118ページには、正しい記載(「季刊法律学」三号 昭和二三年三月)が見られます。
 論文「新憲法に於ける普遍人類的原理」は、田中耕太郎『増補 法と宗教と社会生活』(春秋社、1957年5月)にも収録されています。初出についての誤りは、ここでも繰り返されていて、(昭和二十三年 法哲学 四季報 第二号 所載)となっています。2023・4・29付記

*このブログの人気記事 2022・12・22(2位と9位に極めて珍しいものが入っています)

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