礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和二十年初夏、一丈余りの条虫が出た

2024-08-26 05:13:45 | コラムと名言
◎昭和二十年初夏、一丈余りの条虫が出た

 富田健治『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四九号〝近衛公自決の真相「その一」〟を紹介している。本日は、その三回目。

 私は十二日朝の近衛公東京入り以来、伊藤氏との連絡その他で十五日迄連日、長尾〔欽哉〕邸を出たり、はいったりしたことであった。その間に親近者のうちで『近衛公は若い時に胸を二度も患い〈ワズライ〉、一、二ヵ月間は絶対安静、一切無言で療養という時代もあった。そのため近衛公は、第一次近衛内閣に際し首相になることを、陛下の御前に出ることの多いからだであるからという理由で医者に相談をし、特にその見地から診断を求められたこともある位である。又昭和二十年初夏の候、一丈余り〔3メートル余〕の条虫が出てきたのであるが、その駆除も一日延ばしになってまだ完全に済されていなかったので、それやこれやで、一度完全な身体検査を受けられてはどうか』という意見が起ってきたのである。固よりその内心では医師の診断の結果、それを理由に近衛公の巣鴨入りを延ばしたいという意図に基づくものであった。近衛公は案外この提言には、素直に直ぐ応じた。そこで東京帝国大学内科の柿沼〔昊作〕博士、外科の大槻〔菊男〕博士(公爵は二年越し、二回に亘って、戦時中、痔の手術を大槻氏から受けた)の診断を求めることになった。その結果、両博士の診断は『公の昔からの痼疾(呼吸器疾患)は入所によって悪化の可能性が非常に多い、なるべくなれば、入所を延期せらるるがよろしいと思う。政治上のことは判らぬが、医者としては、このことを断言する』とハッキリ言った。更に条虫駆除は入所前に一日も速くやられた方がよいという注意であった。そこで私は当時外務省の公使で巣鴨係りを担当していた中村豊一〈トヨイチ〉氏にこのことの交渉に行くことになった。偶然にもこの中村公使は私と京都三高時代の同級生で、極めて、親しくもあり、両博士の診断、条虫駆除のことなど卒直に話して出頭延期(既に池田成彬〈シゲアキ〉氏等にその例があった)は出来ないものか、又せめて条虫駆除のため一週間位でも延期してもらうように、計らってもらえないものかなどと懇談したのである。中村氏も一々良く私の申入れを聞いて呉れて、一つあちら側と交渉してみようということで、直ぐ中村氏はかけあいに行って呉れた。そして私に電話があったので、中村氏を再度外務省に訪ねると中村氏の曰く『君の希望通りには行かないようだ。元来近衛公に対する出頭命令は政治的意味が多分にあるので、余人ならば格別、アメリカ側としては到底近衛公の出頭延期は認めない空気である。健康状態のことも言ったが、問題にしてくれないし、条虫に付いては、とても最近良い薬がアメリカには出来たから、入所してそれを飲ませれば、すぐ駆除できてしまうというような始末であった。近衛公出頭の際は、特に自分がお伴をして梨本宮さまの時のような惨めなことはさせないから安心して呉れ給え』という話であった。この話を聞いたのは、たしか十三日の夜のことだったと思う。私は直ちに車を走らせて、長尾邸の近衛公にこれらの報告をなすべく駆けつけた。恰も私が到着した時は極く少数の近親者近衛秀麿、水谷川忠麿〈ミヤガワ・タダマロ〉、山本有三、牛場友彦氏等十数名で、お別れの夕食をしていたが、流石〈サスガ〉の近衛公も、室に入って行った私に対し『御苦労でした。どうでしたか』と急がしく問いかけられた。一瞬一同の眼と耳も、私の返事を待っていた。私は落ちついて『仲々出頭延期は難しいようですね』という程度に止めた。そのうち近衛公は急に立ち上って私に向い『一寸』と言って、ズンズン独りで隣室へはいって行く。私も付いて行った。すると近衛公は『どうです、延期の見込はありそうですか』と問われた。この時はいつもの近衛公と少し異っていた。いかにもあせり気味のようであった。今から思えば出頭延期に付いては近衛公も相当の希望を持っていたようだった。又戦争反対であれ迄やってきた自分に、せめて延期位は認めても当然だろうという自信もあったように窺われた。〈283~285ページ〉【以下、次回】

 条虫(じょうちゅう)は、絛虫(とうちゅう)の慣用表記、慣用読み。脊椎動物の腸内に寄生する一群の扁形動物のことで、条虫類(絛虫類)ともいう。俗称は、サナダムシ。目黒寄生虫館には、全長8・8メートルに及ぶサナダムシ(日本海裂頭条虫)が展示されているという。

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今の場合、出頭拒否はできますまい(伊藤述史)

2024-08-25 00:44:40 | コラムと名言
◎今の場合、出頭拒否はできますまい(伊藤述史)

 富田健治『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四九号〝近衛公自決の真相「その一」〟を紹介している。本日は、その二回目。

 然も近衛公は、いつもと異って私に向い、厳然、伊藤〔述史〕氏と至急このことについて連絡をとって欲しいと言うのである。ところがこの伊藤氏は戦時中、那須の山奥に疎開してしまったので、仲々連絡がつかない、やっとの思いで伊藤氏に至急上京方の連絡がついた。そして十三日私は、伊藤氏を上野駅に迎えたことである。さてその時の伊藤氏の姿は、今でも記憶に残る異様そのものであった。頭に戦闘帽、づだ袋を肩にかけ、洋服は外国仕立てのものだが、勿論非常にくたびれている。茶褐色の巻ゲートル、そして足袋、はきものは草履〈ゾウリ〉で、これを子供のして貰うように、足のずれないように、紐でくくりつけてある。和洋折衷、古今東西混合型の身仕度であった。上野駅はゴッタ返すような人間の渦である。私はその一隅に伊藤氏を連れて行って、実はと言うことで近衛公の『出頭命令拒否意見』に対する伊藤氏の所見を求めると共に、その研究をお願いしたいのだと話した。
 ところが、国際法専門の法学博士であり、多年外交官として幾多の経験と学問的研究をしていた伊藤氏ではあったが、いとも簡単に答えた。
 『そりゃ問題になりませんよ。敗けた日本ですよ。理屈ではそんなことが言われるかも知れないけれど今の場合、出頭拒否はできますまい。併し摂政関白の誇りを持つ近衛公らしい考えですね。私も一つ研究はしてみましょう。又外務省の者にも逢って、現実に近衛に対する出頭命令の情報を集めて見ましょう』。
 その後伊藤氏は別途研究の上、近衛公にその結論の報告に行ったのである。勿論、近衛公の意見にも一理はあるが、仮令〈タトイ〉それを主張して見ても現状では実際問題としてなんとも救済のしようがないということであった。併し私はその後近衛公の自決が、色々の理由に基づくとしても、その重要な原因の一つは、近衛公の『国際法上権限のない逮捕、出頭命令はこれは拒否するのが当然である。併し今の自分にはこれを拒否し徹す実力がない。これを訴える国際機関もない。然もこの不合理なことに屈することは自分には、どうしても、できない。とすればこれを拒否する唯一の道は自決ということである』との出頭拒否に対する信念であったかと思う。〈282~283ページ〉【以下、次回】

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待てどくらせど近衛公は現われない(富田健治)

2024-08-24 00:17:52 | コラムと名言
◎待てどくらせど近衛公は現われない(富田健治)

 富田健治『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)の紹介を続ける。本日以降、同書の第四九号〝近衛公自決の真相「その一」〟を紹介したい。

(四九) 近衛公自決の真相「その一」
    (昭和三十四年十一月十日記)

 昭和二十年十二月六日、信州軽井沢で戦争犯罪容凝者としての逮捕命令を受けた近衛公は、依然として、此地に停まること五日、其の間は文字通り沈思黙考の時を過されたことであった。そして十一日夜、月光を浴びて、こゝ信濃高原を自動車を走らせながら、東京に向い、降りて行ったのである。肌にしむ信州の夜気〈ヤキ〉と、冷たい月の光は、一としおに近衛公の胸を強く締めつけたことであろう。同夜は遅く世田ヶ谷の長尾欽哉氏邸に着いた。そして十五日の朝迄この邸に逗留していたのであるが、従来の例と異り、一切の訪客を避け、親しい人達にも余り逢おうとせず、会った者は万已む〈バン・ヤム〉を得ない者に限られていたようである。併し十六日の出頭を控えて、十四日昼頃から、近親の人達にはボツボツ逢い出すという始末であった。前に述べた通り、私は十一日の軽并沢からの電話に依り、十二日の朝十時頃、長尾邸に公爵を訪ねたのであるが、半時間、一時間と待てどくらせど近衛公は現われない。他に訪問客もなさそうで、結局前晩遅く軽并沢から自動車で着かれたので、その疲労と、あとで近衛公から聞いたことであるが、十一日夜は仲々に睡られず、暁方まで何かと考えておられた様子であった。
 漸く正午過ぎになって、応接室に出て来た近衛公は、充分に熟睡をとった血色の良い顔色で悠然ふだんと少しの変りもない態度であった。
 『大へんお待たせしてすみません、ゆうべは疲労やら何かで、明けがたまで眠れなかったものですから』ということであった。
 『今日お出でを願ったのは他でもありません。伊藤述史〈ノブフミ〉君と連絡をして貰いたいのです。それは私の逮捕命令にも関係することですが、戦勝国だからといって、無条件降服だからと言って、終戦後において戦敗国の人間を勝手に裁判にかける、そのために逮捕する。一体そんなことが、国際法の上から許されることでしょうか。自分は色々ずっとこの間から考えて見たんだが、そんな権限は国際法上認められていないと思います。そこで、伊藤君に至急連絡して、この問題を国際法の上から研究して貰って下さい、このことをあなたにお願いしたかったのです』。
 と言うのである。併しこんなことは実は私にとって、今迄思いも及ばなかったことで、内心ビックリした。完全に敗戦した日本、そしてアメリカ軍が我国土を占領して、思うがままに、マッカーサー元帥が占領行政に当っている現在の日本である。総てが占領軍の思い通りに施政せられ、虚脱状態の日本人にとっては、そこに只卑屈だけが残っている状態だったのである。その際に『国際法上からは、出頭の義務なし、占領軍に出頭を命令する権限なしとせば、巣鴨出頭を拒否すべきではないか』というのが、近衛公の意見なのであった。〈281~282ページ〉【以下、次回】

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こと近衛公に関してはウソハッタリを書かなかった

2024-08-23 04:19:00 | コラムと名言
◎こと近衛公に関してはウソハッタリを書かなかった

 今月20日の記事で、富田健治の『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)という本に言及した。実は、当ブログでは、これまで何度も、同書の紹介をおこなっている。この本は、富田健治が、『明るい政治』と題する政治機関誌に連載した回想をまとめたものである。
 この回想は、第一号から第五六号からなり、当ブログでは、これまで、そのうちの、第四〇号、第四一号、第四二号、第四三号を紹介している。
 本日は、最後の第五六号「五年間の執筆を終るにあたって」を紹介してみたい。

(五六) 五年間の執筆を終るにあたって
    (昭和三十六年二月十日記)

 結語―
 昭和三十年九月十日「近衛公の思い出」第一回を、この「明るい政治」に載せて以来、回を重ねること、五十数回、凡そ〈オヨソ〉五ヵ年に亘ったのである。顧みて能くも書けたものだと思う。自分の生涯のうちに、一度は近衛公―少くとも自分の見た近衛公―の真実の姿を書いてみたいと思っていたのであるが、図らずも「明るい政治」に連載する機会に恵まれ、茲にその本望を達することが出来たのである。併し馴れない筆を執ってみると、毎号の「近衛公の思い出」執筆は容易ならざる仕事であった。一回位休ませて貰いたいと思ったことも度々あったが、その都度編集担当の浦中君から督促されるので、原稿締切の前日、夜午前二時、或るときは三時頃迄、執筆を強行したこともあった。そんな翌日は一日ねむ気を催したことであったが、同時に如何にも一大難事業を遂行し得たような気持ちもして甚だ楽しかった。
 この意味に於て張り合のある五年間の「近衛公の思い出」作業がつゞいて行った。そして「明るい政治」が私に最も関係深い政治新聞であり、従って私の宣伝機関紙とさえ言われるものであったけれども、こと近衛公に関しては、絶対にウソハッタリを書かなかったことを茲に更め〈アラタメ〉てお誓いする。勿論私の主観に属し、他人を批難するような記事の皆無でなかったことはこれを認めるし、又その限りに於て心からお詫びもするものであるが、記事の真実性に付いては、これを御信用願いたいと思う。
 この「近衛公の思い出」に対しては、内容が難しい、もう古くなったことで、時代遅れだ、いかにも戦前派の記事だと批評される方もあったが、他面、非常に面白い、はじめて日支事変、日米交渉、大東亜戦争の真相が解った。近衛公と言う人の真実に触れることが出来たと毎号激励して下さる方も案外多かった。
 そこで今私はこの「近衛公の思い出」を初回から読み直して、一巻の書にまとめてみたいと思っている。実は昨三十五年〔1960〕夏、何処か山にでも篭ってこれを実現したいと念願したことがあったが、恰も〈アタカモ〉総選挙気構えとなり、遂にその願望を果すべき機会を失したのである。そこでこの夏迄の間にはぜひこのことを速成致したいと心勇んでいる次第である。
 近衛公に付いて語るべきことは、まだまだ多いと思う。近衛公の私生活、殊に、婦人関係のことに付いて私に色々問われる人がある。併し私は元来、武藤〔章〕陸軍軍務局長が私をひやかして「君は無粋な近衛の侍大将で、内のことは何も知らない男だ」といったが、終生正にその通りであった。私は公と舞妓の侍る酒席を共にしたことは、長い一生を通じて恐らく、二、三回位であったと思う。又千代子夫人その他家族の方々にも御高誼を頂いたが、家庭深くはいり込むという態〈テイ〉のものでは全くなかった。私は公人として近衛公に接し、後には総理大臣対内閣書記官長として接するのみであったし、第三次近衡内閣総辞職後は、勅選貴族院議員として、近衛公の公的、政治的側近として共に大東亜戦争の早期終結に努力していたのであった。戦争中は軍部に迎合して英米撃滅論を強調し、戦後には、口をぬぐって昔からの平和論者、民主主義者面〈ヅラ〉をしている多くの政界、財界、新聞界の人達に比べて、私は幸福者であったと思っている。それは近衛公という見識秀れた、気品の高い、迎合性のない政治家の側近であったればこそ、私の態度は、幸いにして過誤なきを得たからである。
 それを思うにつけても、あの平和主義の、あの日支友好、日米親善のために努力して事、志と違った近衛公を、心からお気の毒に思う。この「思い出」がこういうことに付ても、その真相を伝え、近衛公に対する誤解を解き得れば望外の喜びである。
 戦後十六年を経過して、我国の経済は見事に復興した。物資も豊富になった。所得倍増の政治経済が高調されている盛況である。
 併し外、国際関係を振り返ってソ連、中共を中心とする共産圏と我国との関係はどうであろうか。朝鮮半島、ラオス・インドネシヤ等東南アジアと日本との関係は如何〈イカン〉。遠くアフリカ、ドイツ、中南米における米ソ両陣営の対立も日本の関心事でなければならぬ。
 しかも日本国内の政情はどうであろうか。昨年〔1960〕六月の安保闘争を頂点とする国内左翼勢力と国外共産勢力との関連、我国の全学連、総評、日教組、マスコミの傾向を果してどう評価したらよいのであろうか。
 国会乱入の集団暴力とこれに続く個人テロの続出、今こそ良識ある我国民は、一体日本はこれで良いのか、またどうしたらよいのかと真剣に考究し、殊に政治家は我国の現状と将来に思いを致し、その対策具現に全力を挙げなければならないと思う。
 私はこゝにおいて、マッカーサー占領軍司令官によって強制実施せられた現行日本国憲法そのものについても、今一度冷静に考えて見なければならない時機がきたと思う。国民主権、言論自由の名の下に、国家の象徴たる天皇を侮辱する文章が載せられてなお且つ大して反省も起らないような現状をみては、こゝに我々は、我国の秩序紊れ〈ミダレ〉て、共産革命への条件の日一日と具備されつゝあることも憂慮せずにはおれないのである。
 近衛公は京都大学時代の社会主義的傾向、後にはファッショにも心を惹かれたが、畢竟、自由主義者であったし、政治的には議会主義政党主義者であった、怒りもせず喜びもせず、讃め〈ホメ〉もせず、貶し〈ケナシ〉もせず寛仁大度〈カンジンタイド〉の巨人であった。しかし日本の伝統、殊にその伝統の中心たる天皇に対しては、心から尊敬の念を持し、天皇中心の国家観こそが、日本の礎〈イシズエ〉と確く〈カタク〉信じていた人であった。この信念は近衛公において蓋し揺ぎなきものであったと信ずる。
 現行日本国憲法においても天皇は「国家の象徴」であり「国民の統合の象徴」である。近衛公在世であれば、私は必ずや近衛公はこの象徴を中心とし、日本の伝統のうちに、 進歩と創造への基礎を置いたのではないかと思う。
 こゝに永きに亘る「近衛公の思い出」の読者諸彦〈ショゲン〉に心から御礼を申し述べ終結の辞といたす次第である。   (おわり)

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この戦争は負けだね(阿部謹也の祖母)

2024-08-22 16:29:39 | コラムと名言
◎この戦争は負けだね(阿部謹也の祖母)

 阿部謹也の『阿部謹也自伝』(新潮社、2005年5月)を読んでいる。阿部謹也(あべ・きんや、1935~2006)は、西洋中世史の碩学で、『刑吏の社会史』(中公新書、1978)などの著書がある。その人となりについては、よく知らなかったが、この本を読んで、なかなかの苦労人、努力家であったことを知った。
 同書の最初のほうに、敗戦前後のことが書かれている。本日は、これを引用してみよう。

 このころには学校の授業もほとんどが戦時体制となり、国語や歴史だけでなく、音楽などは全て戦意高揚歌になっていた。そのころの戦況を反映してそれも切り込み隊の歌や玉砕の歌ばかりとなっていた。「身には爆薬手榴弾。二十重〈ハタエ〉の囲み潜り抜け、敵司令部の真っ只中に散るを覚悟の切り込み隊」などという歌を皆で合唱していたのである。今でも幼いころの歌を歌おうとすれば、この種の歌しか出てこない私たちの世代の悲しさがある。
 ある日私の祖母は叔父たちが集まっている中で突然「この戦争は負けだね」と言った。叔父たちがあわてて「そのようなことを言っては駄目だよ」といさめたが、祖母は「日本の飛行機がアメリカを空襲したという記事があったかね。それなのに日本は毎日空襲されているだけじゃないか。負けに決まっているよ」と言って聞かなかった。何かを聞かれて私が「そのときには僕はもうおばあさんの孫ではないんだよ。天皇の子なんだから」と答えたことがある。すると祖母は 「そうかいそれじゃ、天皇さんに食わしておもらい」と言って私を黙らせてしまった。この祖母は戦争が終わったとき、これからは「天皇さんに秋刀魚〈サンマ〉が焼けましたからどうぞ、と言って持っていけるようになるよ」と言っていた。しかし実際にその予言は当たらなかった。
 敗戦の詔勅を聞いたのは所沢の駅前であった。母と二人で鎌倉まで荷物をとりに出かけた帰りに西武線が停車し、皆電車から下ろされて駅前の店に集められた。ラジオから天皇の声が聞こえたが雑音が多くて私にはよく解らなかった。母もよく解らなかったらしいが、「われに利あらず」という言葉から負けたらしいということは感じたらしく、前にいた中年の男性に「これからどうなるのでしょうか」と尋ねた。するとその男性はひと言「ますます食えなくなるんですよ」と答えた。それを聞いて母は「あんなにぞーっとしたことはない」とあとで語っていた。そうでなくても戦時中は食うものにはなはだしく事欠いていたから、これからますます食えなくなると聞いて前途に絶望したのだと思う。実際戦時中よりも敗戦後のほうがはるかに食糧難は厳しかったのである。
 私には戦争が終わったということが十分に理解出来ていなかった。戦争に負けたのに何故電車は動いているのだろうか。郵便屋さんは相変わらず郵便配達をしている。ラジオからは時折深刻な声も聞こえるが、普段と変わらない番組も流れている。敗戦の経験がなかったのは私だけではないが、日本人全体がどうしてよいのかわからなかったのであろう。学校も校長先生の話があっただけで、普段どおりの授業が進められていた。しかし私の生活は変わらざるを得なかった。それまではアメリカや日本の戦闘機に関心を持ち、その絵なども描いていたのだが、とたんにそのような関心は薄れ、予科練志望も消え、私の未来はまったくの空白となった。〈31~32ページ〉

 敗戦の少し前、阿部謹也の一家は、埼玉県入間郡芳野村伊佐沼に疎開し、謹也は、川越市内の国民学校に通っていたという。

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