礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近衛文麿の〝矜恃〟が屈辱よりも死を選ばせた

2024-08-20 02:22:44 | コラムと名言
◎近衛文麿の〝矜恃〟が屈辱よりも死を選ばせた

『人物往来』1955年12月号から、富田健治執筆「近衛文麿の自決」という記事を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

   誤っている近衛評
 当時、斉藤隆夫氏の議会での「近衛攻撃」についても、「斉藤君のようなマジメな人にならいつかは判ってもらえる」ことを期待しまた、翼賛会のことについても、「ナチの一国一党に習って翼賛会を作ったとの中傷は正に的外れである。翼賛会の真の狙いは、この国民組織によって軍部の専横を抑制し、支那事変の解決を早めたいとの念願からに他ならなかった」のである。そして、公は、「今日の日本は、すべてが総崩れではないか。止めどのない民族頽廃の雪流〈ナダレ〉だ」と語り、日本国の前途を悲しい眼付で捉えていた。そこで自決によって、今日の日本に少しでもキリットした立ち直りの気持ちを、起させる何らかの寄与ともなれば幸いであるというような考えも近衛公にあったのではないかと、私の忖度するのは無理であろうか。
 占領軍からの逮捕命令の出る以前から、心中秘かに死を決意していた公は、日本人としての、節を守り通そうとしていたようだし、 戦争中、「和平論者」として憲兵の尾行によって身辺の危険を感じていたころでさえ「自分には覚悟は出来ている」と国家、民族の運命に命を托していたようでもあった。
 近衛公を称して「インテリの弱さ」「良心の呵責からの自決」などと世間の批評もあったが、公を知るほどの人なら、その所信に対する消極的な強さ、ねばり、静かなる勇気、などの常人には見受けられない特性を見逃す訳には行かないのである。皮相的には〝卑怯〟だとも見られた公の内面には、事に処してはテコでも勳かない魂の固り〈カタマリ〉があぐらをかいていたことを見逃すことは出来ない。
 したがって、公自身が自決の道を選ばれたのも、熟慮に熟慮を重ねた結果であったし、更には、日本の民族と盛衰を共にしてきた近衛文麿の〝矜恃〈キョウジ〉〟が、屈辱よりも死を選ばせたことになったと考える方が正しいであろう。とにかく、波乱万丈の昭和政界の渦巻きの中に静かに消えて行った近衛文麿公は、まさに激流に抗して死を求めた〝運命の人〟であったということが出来よう。 (筆者は第二、第三次近衛内閣書記官長)〈113ページ〉

 富田健治(とみだ・けんじ、1897~1977)には、『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、1962年7月)という著書がある。当ブログでは、この本について、これまで何度か紹介してきた。昭和前期の歴史を研究しようとする者にとって、第一級の資料であることは間違いないが、残念なことに、刊行以来、一度も、全文の復刻を見ていない。

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陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)

2024-08-19 00:04:47 | コラムと名言

◎陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)

『人物往来』1955年12月号から、富田健治執筆「近衛文麿の自決」という記事を紹介している。本日は、その二回目。

   僕の志は知る人ぞ知る
 私は十二日の朝公にお目にかかった時、公から「犯罪人としての出頭は、拒否するのが当然ではないか」と強い語調できかされてこんなことはそれ迄私には思い及ばなかったことで、実はビックリしたことであった。その日から十五日の朝まで時に独りで瞑想し、時に親近者の意見をきかれて、その最後の時間を待っていたのである。そして十五日夜、入浴後午後十一時ごろから床に就いた公は、次男の通隆〈ミチタカ〉君と翌十六日の午前二時ごろまで語り合った。その際公は、通隆君に対して、硯〈スズリ〉の蓋を台にして鉛筆で近衛家の用箋に自ら認め〈シタタメ〉られ、「これは字句も整っていないが、自分の心境であるから……」とメモを手渡したのであった。そのメモが、もちろん公の最後の言葉となったのであるが、その鉛筆の走り書きは次のようなものであった。
「僕は支那事変以来、多くの政治上の過誤を犯した。これに対し深く責任を感じているがいわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは、堪え難いことである。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、この事変の解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から犯罪人として指名を受けることは、誠に残念に思う。然し、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえ、そこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗けた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言蜚語〈リュウゲンヒゴ〉と、是等一切のいわゆる輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。その時初めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう」
 このメモの一部は、当時占領軍によって新聞紙の掲載を禁止された。更に生前、公と通隆君との雑談中に洩れた言葉の中に次のようなことがあるのだ。
一、自分は日支事変の解決、日米交渉の成立に全力を尽したが力及ばず、今日の事態に立至ったことを深く遺憾とし、上は陛下に対し下は全国民に対して責任痛感していた。
二、自分は第東亜戦争直後(昭和十七年初め)「第二次及び第三次近衛内閣における日米交渉の経過」を、またその後において「三国同盟に付て」を記しておいたから、自分として言うべきことは大体あの中に尽くしているつもりだ。あれによって世界の公正なる批判をうけたい。 
三、国体護持の問題については自分が全力を尽してきたところのものだ。これは国民は別 して近衛家としては当然そうあらねばならぬ。

   自決への招待者は誰か
 この雑談の後、通隆君は隣室に退き、時々公の寝室に声をかけたりなどしていたが、父文麿公は、案ずる令息の声を耳にしながら静かに毒を呷って〈アオッテ〉いったのである。自決の時刻は多分午前五時から五時半までの間であったと推測されている。枕頭には小さな茶色の瓶が空のままおかれ、安らかな眠りについたそのままの顔で、いつものように深々と布団の中に埋れていた。
 こうして、敗戦の混乱のさ中に、自らの手で死を選んだ近衛公の、偽らざる当時の心境とはどんなものであったろうか。一体、何が公をして死に追いやったのであろうか。それについては十二月六日から自決前日の十五日までに、公が側近者に洩らした片言雙句の集録から覗いてみるのが妥当であろう。
 まず近衛公は、「戦争には終始反対してきた」と言っている。公は支那事変の失敗を認め、「蒋政権を相手とせず」との考え方は、明らかに間違っていたとしている。支那事変は大東亜戦争とは性格を異にし、計画的なものではなかったといっている。それだけに戦争には終始反対し、日米交渉に全力をつくした。公自身を戦争犯罪人ということについて公は「犯罪には意思がなければならぬ。自身にはその意思は全くなかった」と述懐している。したがって米国から犯罪人呼ばわりされることは、絶対に認め難いと考えた公なのである。
 また、戦争犯罪人として逮捕命令に従うべき法的根拠について、多分に疑問をもっていた。戦勝国を楯に得手勝手は許されないとの毅然たる態度を貫き通そうとした。したがって理由なき逮捕命令は当然拒否すべきと考え占領軍に対して公なりの抵抗を示したものともいえよう。
 このような公自身の考え方も、所詮、戦敗国という決定的な運命には抗し切れなかったようである。公は、「逮捕命令は拒否すべきだが、今日の我が実情は、こちらにその権利は何一つないという考え方が、風潮をなしており、又その熱意はどこにもない、固より実力もない」と敗れ去った民族の悲哀を認めざるをえなかったようだ。加えて、梨本宮〔守正王〕の戦争犯罪容疑者としての出頭命令と天皇の退位を予想させる暗い客観情勢とがあった。しかし、「話せば分る」自由は、敗戦国の指導者には望むべくもないと判断したことだ。更に決定的なまで公自身を死の淵に追い込んだのは、「陛下のために弁護をする余地すらない」と自覚しはじめたことであったようだ。ある人が公に対して「陛下を弁護する人はあなたをおいて他にない」と言ったことに対して公は「もはや、そうは思えなくなった。陛下のおためになることなら考慮の余地もあるが自分は却って逆効果になるとさえ考えてきた」とまで悲観的な見方に移っていた。
 なかには、巣鴨入りについて身体の強健でない公に同情するものもあったが、公は「日常生活の苦しさなど問題ではない。ただ戦争犯罪人としての屈辱には、絶対に堪えられないのだ」と終始犯罪の汚名を憎んでいた。たとい、法廷に立っても真実は歪められるし、公正な批判は下されない、裁判の良心を否定してかかっていたし、「歴史は百年後に証明されるであろう」と一すじに未来だけを信じていたようでもあった。〈111~113ページ〉【以下、次回】

 富田健治によれば、近衛は、戦犯裁判への出廷について、「陛下のおためになることなら考慮の余地もあるが自分は却って逆効果になるとさえ考えてきた」と述べていたという。戦犯裁判において、近衛が正直に証言した場合、天皇を弁護するどころか、かえって逆効果になるだろう、と言うのである。これは、実に含みの多い言葉である。富田にしても、そうした「含み」について、十分、承知した上で、この近衛の言葉を紹介したのであろう。

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近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた

2024-08-18 00:09:42 | コラムと名言

◎近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた

 人物往来社から発行されていた雑誌『人物往来』の第4巻第12号(1955年12月号)は、「昭和重大事件の真正報告」と題された特集号になっている。この特集号にある記事のひとつ「護衛に撃たれた美濃部達吉」(有松祐夫執筆)は、以前、当ブログで紹介したことがある。
 今回は、この特集号から、富田健治の「近衛文麿の自決」という記事を紹介してみたい。

  近 衛 文 麿 の 自 決
   ――平和を求め激流に抗して死を求めた政治家!
     出頭命令から自決までの心境を秘書たりし筆者が描く――
                  富 田 健 治【とみだけんじ】

   近衛公逝きて十年
 私は今ここに、近衛公逝って十年の冬を迎え、その時の情景を、きのうのことのようにさえ思い返えされるのである。戦前は軟弱といわれ、戦争中は和平、敗北論者と罵られ、更に戦争が終れば、戦犯の汚名をきせられて行った近衛公の移り行く運命の皮肉を、どう算定すればいいのであろうか。いま、公の自決の真相を、明かにせんとして感慨又新たなるものがあるのである。

   運命の出頭命令
 近衛公は、昭和二十年十月四日マッカーサー元帥の求めにより、元帥と約二時間にわたって会談した。その会談が基になって、公は内大臣府御用掛〈ゴヨウガカリ〉として佐々木惣一博士らの援助をうけ、憲法改正の大事業に着手することになったのである。それから四十数日間、公は箱根の入生田の山荘で憲法改正の御奉答について案を練っていた。そして十一月二十二日、宮中に参内して改憲についての奏上、同時に一切の栄爵拝辞の手続をとった。
 この間、東久邇宮内閣当時から、公に対する攻撃の声が次第に高まり、公が内府御用掛になるに及んで故意や誤解に基く、中傷さえ追々強くなってくるのであった。又終始戦争反対であった公に対し、その戦争責任を問うという声までが新聞紙上に喧伝〈ケンデン〉され、近衛攻撃に拍車をかけて行く、世相の移り様〈ヨウ〉であった。こうした非難、中傷の声をよそに公は、十一月二十七日、独り晩秋の風も冷い軽井沢に赴いた。軽井沢は四季を通じて公がもっとも愛好された土地であり、ここで読書し、冥想することを唯一の楽しみとされていたようでもあった。梨本宮殿下の逮捕なども、この地で知られたのであった。暗然として信州の空の雲を追っていた公自身にもやがて運命の日が訪れた。十二月六日、戦争犯罪容疑者として占領軍総司令部から出頭命令の通知を受けとったのである。
 近衛公は、すでにこのことあるを予知していた風で、逮捕命令に接しても、不思議なほどいつもの通り、平静であった。今にして思えば、公の軽井沢行も、その運命に対する自己の所在を冥想の中に決しようとしたものであったといえよう。
 何ごとか胸中に決意した公は、十二月十一日、軽井沢の山を降り、帰京してからは一切の訪客を避けて世田谷の長尾〔欽弥〕邸の一室に閉じこもった。ひたすら静思してしるようであった。しかし、十四日からは身近な人たちともぼつぼつ会われ、十五日からは荻窪の荻外荘に移られた。この日は朝から、親しい人々とも話し合われ、ふだんの姿に返っていた。その日の夕刻には、外務省の中村(豊一)公使が「明日(十六日)の打合せに来ていた。また同じ日公は側近者の懇請によって帝大内科の柿沼〔昊作〕博士や二年越しの痔の手術をうけた大槻〔菊男〕博士の健康診断をうけた。両博士の診断では「公の痼疾は入所によって悪化の恐れが強い。政治上のことは、自分らには、わからないが、なるべくなら入所を延期されたい。医者の良心において確言する」との強い助言まで出ていた。更にこの年の初夏、一丈余〔3メートル余〕の条虫が出たこともあり、主治医からも「条虫の駆除のため一週間ほど入所を延期されたい」との注意もあったほどだ。こうした医者の忠告を公は、ただ黙ってきいていた。このあとの中村公使との会談において中村公使が、公に対する命令は、政治的意味が多分にあるから、余人ならば格別、出頭延期は、到底承認せられまいと述べたのに対し、公はうなづきながらきいていたが、「猶予のことは止めましょう」と一言ゆっくりと言われただけであった。しかし、「出頭する」とは終始一言も公の口からはきかれなかった。その時公自身運命の死に対決する決意を固めていたのかもしれない。〈110~111ページ〉【以下、次回】

 文中、「箱根の入生田の山荘」とあるのは原文のまま。ここは、「箱根宮ノ下の奈良屋旅館」などとすべきところであった。なお、「入生田(いりうだ)」は小田原市内の地名(大字)で、ここには、近衛文麿の別荘があった。

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(24・8・17)

2024-08-17 03:44:38 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(24・8・17)

 本日は、当ブログへのアクセス・歴代ベスト50を紹介する。
 順位は、2024年8月17日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かったコラムの順位ではない。

1位 2016年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 2015年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 2019年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 2016年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 2018年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 2016年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 2023年12月14日 大江健三郎氏は「一本調子」がかなり改まっている
8位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
9位 2024年7月3日 その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)
10位 2021年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)

11位 2021年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
12位 2024年7月4日 「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
13位 2018年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      
14位 2017年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
15位 2021年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
16位 2018年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
17位 2019年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
18位 2018年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
19位 2022年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2022年後半)
20位 2024年8月15日 御座所にはRCAのポータブルラジオが……

21位 2017年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
22位 2023年3月9日 松蔭を斬り、雲濱を葬りたる幕府当局を想起す(愛国法曹連盟)
23位 2023年12月12日 かうした地方を私は一型アクセントの地方といふ
24位 2018年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
25位 2022年8月2日 朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か
26位 2022年12月20日 「開帳は夜ふけに限る」と敬道師はいった
27位 2017年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
28位 2024年6月19日 国難ここに見る、弘安四年夏の頃
29位 2022年6月22日 大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について
30位 2022年12月31日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108

31位 2017年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
32位 2022年9月20日 太田光氏の「まともな感覚」に期待する
33位 2024年2月16日 宮城長五郎「思想に関する事件の思ひ出」
34位 2022年10月6日 家々に代々伝へて来るのが「モタル」であります
35位 2022年9月22日 坊さんには生活の苦労を知らぬ人が多い(山田孝雄)
36位 2024年7月2日 ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)
37位 2023年1月12日 加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題
38位 2017年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
39位 2022年10月5日 安倍元首相は、「非業の死」を予期していたのか
40位 2024年8月9日 御一新このかた一も欧米、二も欧米で

41位 2024年8月14日 これより謹みて、玉音をお送り申します
42位 2019年8月18日 速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
43位 2024年4月25日 大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ
44位 2021年8月14日 詔勅案は鈴木首相が奉呈して允裁を得た
45位 2023年11月14日 名古屋城のシャチホコから金をはがした金助
46位 2021年3月5日 ある予審判事が体験した二・二六事件
47位 2022年8月17日 帝国憲法の条規中、絶対的に変更すべからざるもの
48位 2022年12月19日 藤嶽敬道師は、いくら失敗しても絶対にくたばらない
49位 2022年9月21日 君たちは学問がありすぎて常識を働かさない
50位 2019年4月24日 浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論

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涙が熄むと、死からの解放感が浮かび上がった

2024-08-16 01:08:19 | コラムと名言

◎涙が熄むと、死からの解放感が浮かび上がった
 
 篠田五郎『天皇終戦秘史』(大陸書房、1980)から、冒頭の部分を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 玉音放送は、いま、終わろうとしていた。再び繰り返されることのない、その戦中終結を告げる勅語は、いままさに、日本帝国にピリオドを打とうとしているのだった。
 東京・渋谷の焼け跡でラジオ放送を聞いている中学生たちは、これが天皇の声なのだという感想しか持てなかった。詔勅の意味を理解出来ないのだった。そして、何人かが、(やはり、これからも頑張れということなんだ)と思った。無理ないことであった。
 少年たちは、青年将校の方を振り向いた。が、飛行服を着たその姿は、いつの間にか、その場から立ち消えていた。少年たちは互いに顔を見合わせ、それからあたりを見回した。とにかく、青年将校の姿は、どこにも見当たらなかった。奇妙な想いが、少年たちの間に揺れた。
「……誓ッテ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」
 玉音放送が終わり、再び、〝君が代〟が流れた。
 多くの日本国民の間に、不審さからくる戸惑いが波紋のように拡がっていた。しかし、中には明確に勅語の意味を摑んだ人たちも少なくなかった。
 鎌倉に住む作家の高見順も、その一人であった。高見は日誌に誌している。
「遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
 夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。
 烈日の下に敗戦を知らされた。
 蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」
 多くの人たちが、漸く情勢の変転を知ったのは、続いて放送された内閣告諭によってである。
「本日畏くも大詔を拝し、帝国は大東亜戦争に従ふこと実に四年に近く、而も遂に聖慮を以て非常の措置に依り其の局を結ぶの他途【みち】なきに至る……」
 と、和田放送員が朗読した。
 国民は、あらためて、自分たちのまわりを見回した。その眼に映ったのは、破壊され、まさに壊滅状態にある日本の国土であった。人びとは今更の如く、自分たちが疲れ切っていることを痛切に感じた。
 すると、涙が出た。それは口惜しさとか、悔恨とかで簡単に理由づけられる性質のものではなかった。長い間の苦しい日々から解放されたことへの歓びでもない。日本が戦争に敗けたという、その歴史的な瞬間に立ち会った感動からくる涙であったかも知れなかった。
 しかし、それにしても戦争終結は、あまりにも突然過ぎる事態の変化であった。
 本土は空襲によって、鉄道を寸断され、物資輪送も自由にはならなかった。また、海上の輸送にしても途絶えがちであった。B29から投下された機雷だけでも一万二千百三十五個を数え、それに接触して損害を蒙った日本船舶は百二十万頓に達している。
 だが、それでも国民は、いまのいままで最後までの戦いを決意していたのである。それがいきなり、〝中止〟なのだった。
 その心境を、開戦以来、天皇の侍従武官として仕えてきた尾形健一大佐は日誌に書いた。
「盲目的ニ前進ヲ続ケアリシニ急ニ〝廻レ右、前へ〟ノ大号令ヲ受ケ、正ニ四肢ハ硬直シテ動カザルニ似タリ」
 多くの国民にしても、同じ想いであった。その日々の糧〈カテ〉を手にすることに喘【あえ】ぎながらも、国民は戦い続けてきたのである。そして、戦場で多くの肉親が示したように、天皇の兵士、日本人の戦には、死こそあっても降伏はないと理解していた。その戦いに、突如、幕が降ろされたのである。新たな戸惑いが、涙の後から襲った。
 宮城前広場には、午後になると、続々と人の波が詰めかけた。広場の砂利の上に土下座して慟哭する人びとの姿が、至る処に見られた。ある者は顔を砂利の中へ埋めるようにして、蹲った〈ウズクマッタ〉躯全体を大きく波打たせていた。涙で濡れた顔を仰向かせ、固く両眼を閉じたまま、〝海ゆかば〟を唱い続ける中学生の姿もあった。また、狂気の如く、「天皇陛下、万歳!」を絶叫し続ける若い娘も見られた。
 そうした人びとの姿を、その近くで不動の姿勢のまま立哨〈リッショウ〉している、近衛師団の兵士が見戍【みまも】っていた。しかし、兵士の頰もまた、涙で濡れ光っていた。その眼には、なにも映っていないようであった。
 人びとの間からは、
「天皇陛下……申し訳ありません……」
「陛下……お許し下さい……」
 という悲痛な叫び声が起きた、と翌日の新聞は伝えている。
 その声は、いったい、なにを意味するのだろうか。敗戦という忌まわしい事態を招いたのは、臣下である国民の努力が足りなかったためだという表意が、「お許し下さい」という言葉に表われたのではなかったか。
 いずれにせよ、それまでピーンと張られていた糸が、突如、断ち切られたのだった。まさに国民は、〝四肢ハ硬直シ〟であった。
 涙が熄【や】むと、人びとの脳裏には、本能的に死からの解放感が浮かび上がった。これで助かったんだ、という想いが、新たに胸の裡に拡がっていった。しかし同時に、(なぜ、もっと早く言ってくれなかったんだ)という憤懣が湧いてきたこともまた事実であった。【以下、割愛】

 筆者の篠田五郎は、敗戦時、「陸軍技術本部」に在職していたという。篠田自身が、どこで「玉音放送」を聴いたのかは不明だが、あるいは、東京・渋谷の掘立て小屋で、ラジオを聴いていた人々のひとりだったのかもしれない。

*このブログの人気記事 2024・8・16(8位の「宮城前に」は時節柄か)

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