風吹く豆腐屋

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「正義」を強要するな

2008-08-01 04:28:50 | Weblog
7、8年前に嫌いなタイプは?と聞かれたとすれば、
真っ先に父を思い浮かべ、

「自分の物差しでしか物事を捉えられない人間」

と答えていただろうと思います。

当時は反抗期だったせいでもありますが、
今でもそういう性質には受け入れがたいものを感じます。


そういう「自分がものさし」な人はある意味で強く、
ある意味でひどく脆いものだと思います。

最近の言葉でいえば「KY」的な要素を多分に備え持っているわけで
周囲に影響されずに自分の信じるままに行動できるのが大きな強みです。
そこにカリスマ性があれば、周りを牽引する大きな流れを生み、
独善的なものでしかなければ、煙たがられる「頑固おやじ」のような存在になります。

いずれにせよ、それは自分を支える骨格のようなもの。
アイデンティティとも密接に関わってくる要素です。


しかし、だからこそ、それは脆さを併せ持つことになります。

それがあまりに固いものであるがゆえに、
それが崩れたとき、その人はもはや他にすがるものを持ちえません。


実際、自分が「正義」だと妄信していた父が自分の非を認めて
すっかりしょげてしまうことは過去に何度かありました。
いずれも悲惨なものでした。

普段それを快く思っていなかった母に、「そっとしておいてあげて」と言わせる程に。



しかし、面白いもので、そういう人たちはどんなに打ちのめされることがあっても
しばらく後にまた何か新しい信念を打ち立てているんですよね。
懲りないなぁ・・・と傍から見ていて思いますが。



僕は自分はその頑迷な姿勢を批判できる立場にあると思っています。

父と言う素晴らしき反面教師が身近に居たため、
こんな風にはならないようにしようとずっと思ってきました。
自分の信念で凝り固まってしまわないように、客観性を失わないように気をつけているつもりです。


ただし、固い信念は持たず、
「何が正しいかなんて分かるわけが無い」と諦めてしまうことの弊害も多々ありますよね。
客観性を失わないようにすることは、重要な決定を人の判断に委ねることともいえます。
また、数に迎合する生き方をしてしまう恐れもあります。



僕は全ての物事に理想的な中庸域があると思っています。
自分が信じるままに行動することと、人の意見に耳を貸すことについても、
理想的なバランスをとればいいだけ。


ただ、その微妙なさじ加減が難しく、分かりにくいんですけどね・・・



1つだけはっきりしていることは、
僕は独善的な判断に基づいて行使された「正義」は受け付けないと言うこと。
そして、だから僕は正義を強要はしない、ということ。


これは、見方を変えれば、
僕が主観的な決定を重視する「頑固者」であることの明かしとも言えそうです。

しかしまた、付和雷同を得意とする日本的な文化にすっかり飲み込まれているともみなせます。
客観性とかいいながら結局は多数派の意見に迎合しているだけ、という―

・・・やはり、自分の立ち位置が見えません。






・・・なんで嫌いなタイプの話なんて書こうと思ったんだか。
この記事で父以外の人間を批判しようなんて陰湿な意図は全く無いのでそれは安心してください(ぁ

なお、別に僕は父との関係が悪いわけでもありません。
欠点だけに目がいくほど幼い人間ではないつもりです。



P.S.

深夜やっているメジャーの再放送が面白い。
おかげでなんか寝るのが遅くなってしまいます。
そして(うまく乗せられた気はするけど)甲子園が楽しみになってきました。
初戦から強豪だけど、どの辺までいけるかなぁ。