「他力本願」というと、なんだか如何にも主体性のない、他人任せの感じがしますが、先日、ある保護者の方と子供を交えての面談の席で子の言葉が頻繁に出て少しばかり困惑しました。
これを口にされた保護者の方は、「子供が自分から進んで物事をしようとしない。何につけても他力本願で困る。どうにかしてほしい」と、そういう趣旨での言葉の使用でした。
それを聞きながら、私は実は頭の中で「違うような気もするなあ」と思っていました。
■違うような気 その①
中学生の子は全て一様に自主性があって然るべきと保護者が一方的に決め付けていること自体がまずおかしい。
■違うような気 その②
それを一まとめに「他力本願」などという言葉で括って「だから駄目なのよ」的な考え方の流れが次におかしい。
■違うような気 その③
このケースに限ってのことだが、そういう保護者自身がなんでもかんでも子供に代わってやってしまうようなところが多々窺えて、それが子供の自主性が育つことを邪魔しているのだという認識が薄い、またはそれ自体が無いのがおかしい。
たとえば、私が子供に質問しても、ほぼその全てに保護者が答えてしまい、子供が発言しようにも、その機会を次々に奪われてしまいました。
ちなみに、学習塾の面談ですから、話題の中心は「勉強の成果をどうやって挙げていくか」に集中します。
そのための方法論を互いに検討したり、今の時点の問題点とその解決策を、当の子ども自身がどのように考えているか(考えていないかも含めて、ですが)を言葉に出して確認することが大切ですから、保護者から見てはがゆく思えても、まずはそのあたりをある程度時間と回数を重ねて話し合ってみてはいかがでしょうか。
そうした積み重ねが、「他力本願」からの脱皮につながっていくと思いますよ。