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「母べえ」―贅沢は素敵だとまだ言えるうちに

2008年02月16日 09時48分42秒 | 映画・文化批評
 昨日はシフト休日だったので、次のブログ記事更新に必要な資料を探しに図書館に行き、そこで面白い本があったのでついでに借りてきて、その帰りに今話題の映画「母(かあ)べえ」を見てきました。

 「母べえ」というのは、言わずと知れた山田洋次監督製作・吉永小百合主演の映画で、1940年前後の東京郊外に住む野上家一家の日常を描いた作品です。家族同士がお互いに「父(とう)べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」と愛称で呼び合うような、あの時代には珍しいリベラルな家庭でしたが、ドイツ文学者である夫の滋(配役、以下同:坂東三津五郎)が治安維持法違反容疑で捕まってからは、「母べえ」こと佳代(吉永小百合)の細腕一つで子どもの「初べえ」「照べえ」を食わせていかなければならなくなりました。そこに夫の教え子の「山ちゃん」・山崎(浅野忠信)や夫の妹の「チャコちゃん」・久子(壇れい)も加わって、あの日米開戦前夜の暗い時代を乗り切っていく、というのがこの映画の大まかなストーリーです。

 この映画の見所は色々あるのですが、私は次のブログ記事更新の予定もあるので、ここでは一番印象に残ったシーンについての感想を書くだけに止めておきます。
 野上家に来る登場人物の中に、「山ちゃん」や「チャコちゃん」に混じって、一風変った人がいます。それが母の叔父の「仙吉」(笑福亭鶴瓶:この役柄にはぴったし!の感あり)で、わざわざ奈良から出てきたのですが、これがまた他の真面目一辺倒のキャラクターとは全然違うので、家族との間に一悶着あったりするのです。思春期を迎えた長女の「初べえ」に向かって「ええ乳してるなあ」とか言って顰蹙を買い、仙吉も仙吉で一向に反省せず、「(初べえも、治安維持法で捕まった夫の滋も)真面目一辺倒やからそんな目にあうのや、万事世の中はカネや、もっと上手に世渡りせんかい」とぼやく、そういう人物です。当然「真面目一辺倒」の「山ちゃん・チャコちゃん・初べえ」からは今で言うセクハラ親父の様な扱いを受けるのですが、何も自由にモノが言えないあの時代の中にあっては、その「仙吉」との会話が「母べえ」の唯一ホッと出来る時間でもあったのです。

 そういう豪放磊落な「仙吉」ですが、その思想とは一切無縁な彼ですら警察に捕まってしまいます。街頭で贅沢品追放運動を行っていた婦人会の面々に「女がお洒落して何処が悪いんじゃ」「贅沢は敵じゃない、素敵だ」と突っかかっていき、おまけに自分のしていた金の指輪を見止められてその供出も拒んだ為に、婦人会の面々から「非国民」となじられて警邏中の巡査にしょっ引かれてしまうのです。
 この「仙吉」にしても、大本営発表の延長線上に「日本はやがてドイツも放逐して世界制覇を成し遂げるのだ、その為に今はドイツと仲良くやって英米と戦うのだ」なんて講釈を垂れながら、統制経済の中で上手く立ち回ろうとする街の炭屋(この人は何くれと無く佳代の面倒を見てくれもするのだが)にしても、これが当時の庶民の一般的な姿だっただろうと思います。
 山師の「仙吉」は、今風に言えばネオリベ(新自由主義者、株主資本主義者)で、差し詰めホリエモンやグッドウィルの折口に当たるのでしょうか。街の炭屋なんて、今で言えばネットウヨクになるのかもw。でもそう書いちゃうと、何か違うような。今のネオリベやネットウヨクと比べたら、仙吉や炭屋の方がまだよっぽど人間的ですから。

 そういう「仙吉」ですが、それでも別れ際に、佳代に「何かの足しにしろ」とその金の指輪を譲り、「絶対に指輪を金属供出になんか出したらアカンで、あんなもの戦車や戦闘機を作るためなんて大嘘や、偉いさんがポッポ内々してしまうに決まってるんや」と列車の窓越しに言うシーンは、最後で庶民の意地を垣間見せたと言うべきか。
 しかし、そこまで来たら、もういくら抗っても手遅れなのです。「仙吉」の前に婦人会の贅沢検問に捕まっていた婦人の洋服姿も、今の感覚からすればどうってことないものです。しかし周囲がみんな割烹着やモンペ姿なので、それですら目立ってしまうのです。今はまだそこまでは行かない。少なくとも普通に食事が出来、服も着れる。言論・集会・表現の自由も、まだ建前上は保障されている。しかし今のまま右傾化がどんどん進めば、ホンの些細な贅沢(普通の服装)すら出来なくなってしまう時代が、再び来ます。そうなってはもう何もかもが手遅れなのです。今のネオリベやネットウヨクが、その事をどれだけ分かっているのかは甚だ疑問ですが。

※写真は映画のパンフレットから。右から左に、「母べえ」佳代、「チャコちゃん」久子、「山ちゃん」山崎(パンフの折り目になって殆ど見えませんが)、子供たち、仙吉。子供たちのうちで、手前に座って仙吉を睨みつけているのが長女の「初べえ」初子、その後ろに立っているのが次女の「照べえ」照美。 
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