安倍が祝辞を送ったA級戦犯の慰霊碑が高野山の奥の院にあると聞き、先日の公休日に早速行楽がてら見て来ました。
まずは、2014年8月27日付朝日新聞の関連記事「首相、A級戦犯ら法要に哀悼メッセージ「祖国の礎に」」から引用します。
● 安倍晋三首相が4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを書面で送っていたことが朝日新聞の調べで分かった。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、首相は「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と伝えていた。
メッセージを送ったのは高野山真言宗の奥の院(和歌山県高野町)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。元将校らが立ち上げた「追悼碑を守る会」と、陸軍士官学校や防衛大のOBで作る「近畿偕行会」が共催で毎年春に営んでいる。
追悼碑は連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に1994年に建立。戦犯として処刑されたり、収容所内で病死や自殺をしたりした計約1180人の名前が刻まれている。靖国神社に合祀(ごうし)される東条英機元首相らA級戦犯14人も含む。(以上引用)

その戦犯慰霊碑(昭和殉難者法務死追悼碑)が上記の写真です。高野山奥の院の中ほどにある「英霊殿」という施設の隣にあります。通常の参拝路入口「一の橋」よりも終点の「奥の院前」バス停で降りて裏参道から入る方が近道です。
慰霊碑には建立の由来なども書かれているのですが、昔の文章で今の私には一体何が書いてあるか理解できないので、前述「追悼碑を守る会」のホームページに載っていた2004(平成16)年の式典挨拶から、その由来について言及された部分を次に引用します。
● ここに眠る殉難法務死されました御霊は、帝国軍人軍属として職務上の責任又は、受命行為を、たまたま運悪く戦犯と呼ばれる苛酷な運命を背負い無念極まりなく刑場に連行されました。祖国の再建と人類の恒久平和を念じ、従容として悠久の大義に生き殉死をとげられました。(中略)
熾烈な戦に敗れたりとはいえ戦後日本が奇跡的な繁栄を遂げ世界の経済大国として、大きな役割を果たせるのは、ひとえに御英霊の尊い犠牲の上に築かれた御加護と大和民族の勤勉性の賜物と信じます。又、その尊い犠牲の血潮は、アジア諸民族の自覚と決断を促す民族独立と我国多年の悲願である人種差別撤廃の原動力となりました。(中略)
尊い犠牲となられた英霊の方々の思いと、残された御遺族のつらい思いを、未来にわたって風化させず、刑死された人々の無念を空無にすることなく日本国民等しく永久に菩提を弔う義務があります。
幸いにも、この昭和殉難者法務死追悼碑を守る会が組織され、戦中派の高齢に加え、二世、三世と若者がこの碑を囲み歴史を語り継ぎ、御遺族の断腸の思いを胸に秘め鎮魂の誠を捧げ、戦後今日まで築き上げてきた平和を守り、祖国日本の繁栄のため努力する力強い同志が育ちつつあることを大変うれしく思っております。願わくば英魂、二ヶ月後に世界文化遺産に本登録される、ここ高野山の聖地奥の院に鎮まりまして、平和の礎として、世界の尊敬と信頼を博す道義国家日本が再生発展されますようお守りください。(後略)
この挨拶の内容を要約すると、おおよそ次のようになるのではないでしょうか。
「ここに眠る英霊たちは、祖国を守る一心で自らの命を投げ打ったのに、戦争に負けたとたんに、一方的に戦争犯罪人にされ、濡れ衣の罪を着せられて殺された。でも、その尊い犠牲のおかげで、アジア諸国は欧米の植民地支配から解放され、戦後日本も経済大国としてよみがえる事が出来たのだ。皆も、この英霊のおかげで今あるのだから、ずっとこの英霊たちを弔わなければならない」と。
でも、おかしいとは思いませんか?そんなに「アジアを欧米の植民地支配から解放した」と言うなら、何故、その前に、日本の植民地だった台湾や朝鮮の独立を認めなかったのですか?何故、「日本は植民地統治で良い事もした」とか、「当時アジアを植民地支配していたのは日本だけではなかった」とか、言い訳ばかりするのですか?言い訳なぞせずに、「まずは隗(かい)より始めよ」で、自分から解放の模範を示せば良かったのではありませんか。なのに「日本は良い事もした」「当時は他国も植民地支配していたではないか」とか。こんな物は「他にも強盗(侵略や植民地支配)している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」という「居直り強盗」の屁理屈でしかない。

その自己チューな戦犯美化勢力の世界観は上記の地図にも現れています。慰霊碑横の解説板に掲げられた地域別の殉難者分布図です。そこでは、戦後、東京の巣鴨刑務所に収容され、極東国際軍事裁判で処刑された(正確には戦死とは言えない)A級戦犯も数に入れながら、ガダルカナル(南太平洋)やインパール(ビルマ・インド国境地帯)の死者は完全に無視されています。大勢の兵士が食糧の補給もろくにされずに餓死やマラリアで亡くなった有名な戦場なのに。沖縄戦で亡くなった兵士の数もカウントされていません。
戦犯美化勢力は民間人の犠牲なぞ当然と思っているので、原爆や空襲で亡くなった人の数が無視されても今更驚きませんが、ここまで都合よく歴史をねじ曲げていたとは。恐らく、一般の戦死者ではなく戦犯として処刑された殉難者だけを集計したので、こんな分布図になったのでしょう。しかし、その「戦犯」によって「無理心中」を強いられた兵士や現地住民こそが本当の犠牲者ではないのか。
本当は、日本が太平洋戦争で中国からやがて東南アジアにまで戦線を拡大したのは、そこの石油や天然ガスなどの資源を略奪する為だった事は、当時の政府が定めた「帝国国策遂行要領」にもはっきり記されています。「アジアを欧米の植民地支配から解放」云々などの理由は、それを誤魔化す為に後からこじつけられたものに過ぎません。それが証拠に、ようやく終戦間際になって一部諸国に与えられた「独立」も、形ばかりで実権はほとんど日本が握っていました。だから、最初は日本に騙された人もいたアジアの指導者も、後に日本の野望に気付き、次の言葉にもあるように、欧米にも日本にも戦いを挑んで独立を勝ち取って行ったのです。
● 日本のロシアにたいする勝利(注:日露戦争)がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。(ジャワーハルラール・ネルー著「父が子に語る世界歴史」より)
● フランス人は逃げ去り、日本人は降伏し、バオダイ皇帝は退位した。われわれ人民は、わがヴェトナムを独立国とするために、すべての鎖を打ち砕いたのだ。(1945年9月2日、ベトナム民主共和国独立宣言より)
このように、戦後アジア諸国が独立を勝ち取ったのは、第二次大戦(太平洋戦争)を契機に、欧米と日本の両方の帝国主義を追い出す事に成功したからです。これが今の常識です。しかし、安倍や戦犯勢力にはその常識が理解できないので、「アジア解放の為に太平洋戦争をおっ始めたのに、何故、侵略戦争だの植民地支配だのと悪く言われなければならないのか?」と、いつまでも愚痴をこぼしているのです。
確かに、戦後の連合国による戦犯処罰には、国際法違反の原爆投下は不問に付すなど、不公平で報復的な要素もあったのは事実ですが、だからと言って、それを理由に、「他にも強盗している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」というような恥知らずな居直りが、この現代世界で通用するはずもないのに。
安倍が靖国参拝の際などに言っている「再び戦争をしない為に」とか言う言い訳が嘘八百である事が、この一事からも良く分かります。本当に「再び戦争をしない為に」と思っているなら、こんな「お前ら良くやった!今の平和もこの人たちのおかげだ!皆もこの人たちを見習え!」というようなメッセージではなく、原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい、過ちはもう二度と繰り返しませぬから」というメッセージにしかならないはずです。最近はこんな事を言うと「自虐的」と攻撃されたりしますが、過去の恥部を改める事が出来てこそ、本当の愛国心と言えるのではないでしょうか。

以上で戦犯慰霊碑の探索を終えた訳ですが、高野山には、この他にも太平洋戦争に関する慰霊碑が異様に多い事に気が付きました。左上はアンボン島(今のインドネシア)で亡くなった海軍兵士の碑、右上の二つはビルマ(今のミャンマー)で亡くなった兵士や軍馬を弔ったパゴダ(僧院)形式の碑ですが、他にも数えきれないほどの慰霊碑が並んでいました。しかも、そのいずれもが「今の平和の礎(いしずえ)になった」と安倍流に称えるものばかりで、「安らかに眠って下さい、過ちはもう二度と繰り返しませぬから」というものは一つもない事に気が付きました。
私は宗教の事については余り良く知りませんが、この「安倍流」の「自画自賛」慰霊碑の多さは、他宗派と比べても異常ではないでしょうか。例えば、浄土真宗では差別戒名事件を機に、同和問題・差別問題や戦争と平和の問題にも積極的に取り組むようになったと聞きます。私が旅行で訪れた福井県の永平寺(曹洞宗)にも、「平和憲法を守ろう」との僧侶の言葉が境内に掲げられていたりしました。「人を殺すなかれ」との仏教の教えからすれば、むしろ、このような姿勢こそが宗教本来の姿ではないでしょうか。

その疑問を解消すべく、色々調べていくうちに、高野山が終戦間際には海軍航空隊の訓練基地となり、1万人以上の将兵が宿坊に寝泊まりしていた事が分かりました。以下、ネット事典「ウィキペディア」の「高野山海軍航空隊」の記述から。
● 高野山海軍航空隊(こうやさんかいぐんこうくうたい)は、和歌山県伊都郡高野町にあった大日本帝国海軍の部隊の一つ。前身は三重海軍航空隊 高野山分遣隊(みえかいぐんこうくうたい こうやさんぶんけんたい)。
三重海軍航空隊高野山分遣隊は、和歌山県伊都郡高野町高野山の金剛峯寺の宿坊を兵舎として発足した。三重海軍航空隊に所属している教育中の特乙5期生から9期生までの全員が転隊して、予科練教程の教育が開始された。
1944年12月中旬になって、戦局が緊迫するのに伴い水中・水上特攻要員の募集が行われ、20日に特乙5期生から選抜された249人の第1次要員が退隊した。その後、特攻要員が退隊していった。
1945年3月1日、高野山分遣隊は三重海軍航空隊から独立し、高野山海軍航空隊として開隊、予科練教程専門の練習航空隊に指定され、第24練習連合航空隊に編入された。(以上引用)
これは私にとっても初耳でした。高野山なんて、子どもの頃に祖父母に連れられて奥の院にお参りした記憶や、小学校時代の林間学校の記憶しかありませんでしたから。それが今や世界遺産にも登録され、しかも来年はいよいよ開創1200年という事で、地元の南海電鉄も、「天空」という特別電車を走らせたり、「山ガール」や「歴女」も登場させての観光キャンペーンに乗り出しています。その仏教の聖地が、戦時中は知覧(鹿児島県)と同様の特攻基地だったとは。(上記の写真が航空隊の慰霊碑や標柱)
それらの資料を読むと、どうやら宿坊の多さに目を付けられ、兵士の宿舎として活用されたようですが、そこでもまだ疑問が残ります。宿の確保は出来たとしても、寺院も一杯ある山間の小盆地に、戦闘機の滑走路や飛行訓練の場所が果たしてどれだけ確保できたのでしょうか。
しかし、その疑問も次の記事を読む事で氷解できました。以下、2002年8月15日付「しんぶん赤旗」記事「高野山でつづった15歳少年兵の日記 体に爆弾巻いて戦車の下敷きになる訓練まで…」の記述から引用します。
● 軍隊は十五歳の少年を暴力で軍人らしくしようとしました。二十六日には、班員が衣類を紛失したことで班員全員が教員から「海軍精神を教えてやる」と罰を受けました。八月三日も「不規律」のため全員が教員に「海軍精神注入棒」(バットのような木の棒)で殴られます。「海軍精神ガ確カニ、入ッタ」。
八日には「(アメリカ軍が日本本土に上陸すれば)我々甲飛モ、陸戦隊トナリテ驕米(アメリカ軍のこと)ヲヤツケル為、陸戦ノ訓練激シクナリ…」とあります。
内容は、背中と腹に爆弾を巻いて穴に潜んでいて、アメリカ軍の戦車の下に体を投げ出し戦車のキャタピラを爆破する訓練でした。高野山の広場に木で作った戦車を据え付けて訓練しました。
大元帥である昭和天皇の軍隊は、この期に及んでもなお、自殺して「敵」の戦車を食いとめるという恐ろしい訓練を少年に強いていたのです。(以上引用)
戦争末期には訓練用のゼロ戦すら確保できず、毎日、自爆攻撃ばかりやらされていたのだと。ここまで来たら、もうまるで消耗品扱いです。
この体質は今も変わりません。平和主義や基本的人権の尊重を憲法で定めたこの国で、何故、派遣切りやブラック企業がここまではびこるのか?それもこれも、安倍を筆頭に、「他にも強盗している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」と居直って恥じないような政治家が、今も政治の実権を握っているからではないですか。こんな奴らを政権から引きずりおろさない限り、平和も人権も、国民の自由や権利も、また戦争中のように踏みにじられるのは確実です。そういう意味でも、これは決して過去の事や、戦争の事だけに止まる話ではないのです。
このご時世、こんな事を言うと、「中国や韓国、北朝鮮の回し者」呼ばわりする輩が必ず現れますが、だったら逆に聞きましょう。「中国や韓国、北朝鮮に対抗しなければならないからと言って、何故、国民の自由や権利が制限され、ブラック企業の横暴や原発企業の放射能垂れ流しを容認しなければならないのか?」「この国の将来を決めるのは、中国や韓国でもなければ、天皇や自民党でもなければ、アメリカや大企業でもない。国民が決めるのだ」「その国民が、何故、自分で自分の首を絞めるような事ばかりする政府を支持しなければならないのか」と。
その為にも、再び高野山を戦争の基地にするような事を許してはならないし、昔の大日本帝国の復活を許してはならない。そう思います。
まずは、2014年8月27日付朝日新聞の関連記事「首相、A級戦犯ら法要に哀悼メッセージ「祖国の礎に」」から引用します。
● 安倍晋三首相が4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを書面で送っていたことが朝日新聞の調べで分かった。連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊する法要で、首相は「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と伝えていた。
メッセージを送ったのは高野山真言宗の奥の院(和歌山県高野町)にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要。元将校らが立ち上げた「追悼碑を守る会」と、陸軍士官学校や防衛大のOBで作る「近畿偕行会」が共催で毎年春に営んでいる。
追悼碑は連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に1994年に建立。戦犯として処刑されたり、収容所内で病死や自殺をしたりした計約1180人の名前が刻まれている。靖国神社に合祀(ごうし)される東条英機元首相らA級戦犯14人も含む。(以上引用)



その戦犯慰霊碑(昭和殉難者法務死追悼碑)が上記の写真です。高野山奥の院の中ほどにある「英霊殿」という施設の隣にあります。通常の参拝路入口「一の橋」よりも終点の「奥の院前」バス停で降りて裏参道から入る方が近道です。
慰霊碑には建立の由来なども書かれているのですが、昔の文章で今の私には一体何が書いてあるか理解できないので、前述「追悼碑を守る会」のホームページに載っていた2004(平成16)年の式典挨拶から、その由来について言及された部分を次に引用します。
● ここに眠る殉難法務死されました御霊は、帝国軍人軍属として職務上の責任又は、受命行為を、たまたま運悪く戦犯と呼ばれる苛酷な運命を背負い無念極まりなく刑場に連行されました。祖国の再建と人類の恒久平和を念じ、従容として悠久の大義に生き殉死をとげられました。(中略)
熾烈な戦に敗れたりとはいえ戦後日本が奇跡的な繁栄を遂げ世界の経済大国として、大きな役割を果たせるのは、ひとえに御英霊の尊い犠牲の上に築かれた御加護と大和民族の勤勉性の賜物と信じます。又、その尊い犠牲の血潮は、アジア諸民族の自覚と決断を促す民族独立と我国多年の悲願である人種差別撤廃の原動力となりました。(中略)
尊い犠牲となられた英霊の方々の思いと、残された御遺族のつらい思いを、未来にわたって風化させず、刑死された人々の無念を空無にすることなく日本国民等しく永久に菩提を弔う義務があります。
幸いにも、この昭和殉難者法務死追悼碑を守る会が組織され、戦中派の高齢に加え、二世、三世と若者がこの碑を囲み歴史を語り継ぎ、御遺族の断腸の思いを胸に秘め鎮魂の誠を捧げ、戦後今日まで築き上げてきた平和を守り、祖国日本の繁栄のため努力する力強い同志が育ちつつあることを大変うれしく思っております。願わくば英魂、二ヶ月後に世界文化遺産に本登録される、ここ高野山の聖地奥の院に鎮まりまして、平和の礎として、世界の尊敬と信頼を博す道義国家日本が再生発展されますようお守りください。(後略)
この挨拶の内容を要約すると、おおよそ次のようになるのではないでしょうか。
「ここに眠る英霊たちは、祖国を守る一心で自らの命を投げ打ったのに、戦争に負けたとたんに、一方的に戦争犯罪人にされ、濡れ衣の罪を着せられて殺された。でも、その尊い犠牲のおかげで、アジア諸国は欧米の植民地支配から解放され、戦後日本も経済大国としてよみがえる事が出来たのだ。皆も、この英霊のおかげで今あるのだから、ずっとこの英霊たちを弔わなければならない」と。
でも、おかしいとは思いませんか?そんなに「アジアを欧米の植民地支配から解放した」と言うなら、何故、その前に、日本の植民地だった台湾や朝鮮の独立を認めなかったのですか?何故、「日本は植民地統治で良い事もした」とか、「当時アジアを植民地支配していたのは日本だけではなかった」とか、言い訳ばかりするのですか?言い訳なぞせずに、「まずは隗(かい)より始めよ」で、自分から解放の模範を示せば良かったのではありませんか。なのに「日本は良い事もした」「当時は他国も植民地支配していたではないか」とか。こんな物は「他にも強盗(侵略や植民地支配)している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」という「居直り強盗」の屁理屈でしかない。

その自己チューな戦犯美化勢力の世界観は上記の地図にも現れています。慰霊碑横の解説板に掲げられた地域別の殉難者分布図です。そこでは、戦後、東京の巣鴨刑務所に収容され、極東国際軍事裁判で処刑された(正確には戦死とは言えない)A級戦犯も数に入れながら、ガダルカナル(南太平洋)やインパール(ビルマ・インド国境地帯)の死者は完全に無視されています。大勢の兵士が食糧の補給もろくにされずに餓死やマラリアで亡くなった有名な戦場なのに。沖縄戦で亡くなった兵士の数もカウントされていません。
戦犯美化勢力は民間人の犠牲なぞ当然と思っているので、原爆や空襲で亡くなった人の数が無視されても今更驚きませんが、ここまで都合よく歴史をねじ曲げていたとは。恐らく、一般の戦死者ではなく戦犯として処刑された殉難者だけを集計したので、こんな分布図になったのでしょう。しかし、その「戦犯」によって「無理心中」を強いられた兵士や現地住民こそが本当の犠牲者ではないのか。
本当は、日本が太平洋戦争で中国からやがて東南アジアにまで戦線を拡大したのは、そこの石油や天然ガスなどの資源を略奪する為だった事は、当時の政府が定めた「帝国国策遂行要領」にもはっきり記されています。「アジアを欧米の植民地支配から解放」云々などの理由は、それを誤魔化す為に後からこじつけられたものに過ぎません。それが証拠に、ようやく終戦間際になって一部諸国に与えられた「独立」も、形ばかりで実権はほとんど日本が握っていました。だから、最初は日本に騙された人もいたアジアの指導者も、後に日本の野望に気付き、次の言葉にもあるように、欧米にも日本にも戦いを挑んで独立を勝ち取って行ったのです。
● 日本のロシアにたいする勝利(注:日露戦争)がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。(ジャワーハルラール・ネルー著「父が子に語る世界歴史」より)
● フランス人は逃げ去り、日本人は降伏し、バオダイ皇帝は退位した。われわれ人民は、わがヴェトナムを独立国とするために、すべての鎖を打ち砕いたのだ。(1945年9月2日、ベトナム民主共和国独立宣言より)
このように、戦後アジア諸国が独立を勝ち取ったのは、第二次大戦(太平洋戦争)を契機に、欧米と日本の両方の帝国主義を追い出す事に成功したからです。これが今の常識です。しかし、安倍や戦犯勢力にはその常識が理解できないので、「アジア解放の為に太平洋戦争をおっ始めたのに、何故、侵略戦争だの植民地支配だのと悪く言われなければならないのか?」と、いつまでも愚痴をこぼしているのです。
確かに、戦後の連合国による戦犯処罰には、国際法違反の原爆投下は不問に付すなど、不公平で報復的な要素もあったのは事実ですが、だからと言って、それを理由に、「他にも強盗している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」というような恥知らずな居直りが、この現代世界で通用するはずもないのに。
安倍が靖国参拝の際などに言っている「再び戦争をしない為に」とか言う言い訳が嘘八百である事が、この一事からも良く分かります。本当に「再び戦争をしない為に」と思っているなら、こんな「お前ら良くやった!今の平和もこの人たちのおかげだ!皆もこの人たちを見習え!」というようなメッセージではなく、原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい、過ちはもう二度と繰り返しませぬから」というメッセージにしかならないはずです。最近はこんな事を言うと「自虐的」と攻撃されたりしますが、過去の恥部を改める事が出来てこそ、本当の愛国心と言えるのではないでしょうか。



以上で戦犯慰霊碑の探索を終えた訳ですが、高野山には、この他にも太平洋戦争に関する慰霊碑が異様に多い事に気が付きました。左上はアンボン島(今のインドネシア)で亡くなった海軍兵士の碑、右上の二つはビルマ(今のミャンマー)で亡くなった兵士や軍馬を弔ったパゴダ(僧院)形式の碑ですが、他にも数えきれないほどの慰霊碑が並んでいました。しかも、そのいずれもが「今の平和の礎(いしずえ)になった」と安倍流に称えるものばかりで、「安らかに眠って下さい、過ちはもう二度と繰り返しませぬから」というものは一つもない事に気が付きました。
私は宗教の事については余り良く知りませんが、この「安倍流」の「自画自賛」慰霊碑の多さは、他宗派と比べても異常ではないでしょうか。例えば、浄土真宗では差別戒名事件を機に、同和問題・差別問題や戦争と平和の問題にも積極的に取り組むようになったと聞きます。私が旅行で訪れた福井県の永平寺(曹洞宗)にも、「平和憲法を守ろう」との僧侶の言葉が境内に掲げられていたりしました。「人を殺すなかれ」との仏教の教えからすれば、むしろ、このような姿勢こそが宗教本来の姿ではないでしょうか。



その疑問を解消すべく、色々調べていくうちに、高野山が終戦間際には海軍航空隊の訓練基地となり、1万人以上の将兵が宿坊に寝泊まりしていた事が分かりました。以下、ネット事典「ウィキペディア」の「高野山海軍航空隊」の記述から。
● 高野山海軍航空隊(こうやさんかいぐんこうくうたい)は、和歌山県伊都郡高野町にあった大日本帝国海軍の部隊の一つ。前身は三重海軍航空隊 高野山分遣隊(みえかいぐんこうくうたい こうやさんぶんけんたい)。
三重海軍航空隊高野山分遣隊は、和歌山県伊都郡高野町高野山の金剛峯寺の宿坊を兵舎として発足した。三重海軍航空隊に所属している教育中の特乙5期生から9期生までの全員が転隊して、予科練教程の教育が開始された。
1944年12月中旬になって、戦局が緊迫するのに伴い水中・水上特攻要員の募集が行われ、20日に特乙5期生から選抜された249人の第1次要員が退隊した。その後、特攻要員が退隊していった。
1945年3月1日、高野山分遣隊は三重海軍航空隊から独立し、高野山海軍航空隊として開隊、予科練教程専門の練習航空隊に指定され、第24練習連合航空隊に編入された。(以上引用)
これは私にとっても初耳でした。高野山なんて、子どもの頃に祖父母に連れられて奥の院にお参りした記憶や、小学校時代の林間学校の記憶しかありませんでしたから。それが今や世界遺産にも登録され、しかも来年はいよいよ開創1200年という事で、地元の南海電鉄も、「天空」という特別電車を走らせたり、「山ガール」や「歴女」も登場させての観光キャンペーンに乗り出しています。その仏教の聖地が、戦時中は知覧(鹿児島県)と同様の特攻基地だったとは。(上記の写真が航空隊の慰霊碑や標柱)
それらの資料を読むと、どうやら宿坊の多さに目を付けられ、兵士の宿舎として活用されたようですが、そこでもまだ疑問が残ります。宿の確保は出来たとしても、寺院も一杯ある山間の小盆地に、戦闘機の滑走路や飛行訓練の場所が果たしてどれだけ確保できたのでしょうか。
しかし、その疑問も次の記事を読む事で氷解できました。以下、2002年8月15日付「しんぶん赤旗」記事「高野山でつづった15歳少年兵の日記 体に爆弾巻いて戦車の下敷きになる訓練まで…」の記述から引用します。
● 軍隊は十五歳の少年を暴力で軍人らしくしようとしました。二十六日には、班員が衣類を紛失したことで班員全員が教員から「海軍精神を教えてやる」と罰を受けました。八月三日も「不規律」のため全員が教員に「海軍精神注入棒」(バットのような木の棒)で殴られます。「海軍精神ガ確カニ、入ッタ」。
八日には「(アメリカ軍が日本本土に上陸すれば)我々甲飛モ、陸戦隊トナリテ驕米(アメリカ軍のこと)ヲヤツケル為、陸戦ノ訓練激シクナリ…」とあります。
内容は、背中と腹に爆弾を巻いて穴に潜んでいて、アメリカ軍の戦車の下に体を投げ出し戦車のキャタピラを爆破する訓練でした。高野山の広場に木で作った戦車を据え付けて訓練しました。
大元帥である昭和天皇の軍隊は、この期に及んでもなお、自殺して「敵」の戦車を食いとめるという恐ろしい訓練を少年に強いていたのです。(以上引用)
戦争末期には訓練用のゼロ戦すら確保できず、毎日、自爆攻撃ばかりやらされていたのだと。ここまで来たら、もうまるで消耗品扱いです。
この体質は今も変わりません。平和主義や基本的人権の尊重を憲法で定めたこの国で、何故、派遣切りやブラック企業がここまではびこるのか?それもこれも、安倍を筆頭に、「他にも強盗している奴が一杯いるのに俺もして何が悪い」と居直って恥じないような政治家が、今も政治の実権を握っているからではないですか。こんな奴らを政権から引きずりおろさない限り、平和も人権も、国民の自由や権利も、また戦争中のように踏みにじられるのは確実です。そういう意味でも、これは決して過去の事や、戦争の事だけに止まる話ではないのです。
このご時世、こんな事を言うと、「中国や韓国、北朝鮮の回し者」呼ばわりする輩が必ず現れますが、だったら逆に聞きましょう。「中国や韓国、北朝鮮に対抗しなければならないからと言って、何故、国民の自由や権利が制限され、ブラック企業の横暴や原発企業の放射能垂れ流しを容認しなければならないのか?」「この国の将来を決めるのは、中国や韓国でもなければ、天皇や自民党でもなければ、アメリカや大企業でもない。国民が決めるのだ」「その国民が、何故、自分で自分の首を絞めるような事ばかりする政府を支持しなければならないのか」と。
その為にも、再び高野山を戦争の基地にするような事を許してはならないし、昔の大日本帝国の復活を許してはならない。そう思います。