一乗院に荷物を預かって頂き、高野山を散策します。2024.05.24.18.25.48
最初に向かったの高野山の中心をなす金剛峯寺です。2024.05.24.18.25.48
高野山真言宗の総本山金剛峯寺です。次にHPから借用させて頂きアップします。
金剛峯寺とは
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。
高野山開創の物語
弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。
それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。
その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。
弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。
手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。
そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけこの地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。
一山境内地とは
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。
「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち51ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
1 礼を尽くして最初に訪問したのは高野山真言宗総本山金剛峯寺です。
2 特筆すべき金剛峯寺の寺紋についてです。普通は寺紋は一つだそうですが、ここ金剛峯寺では二つあります。「五三の桐」と「三頭右巴」です。
3 引き戸に彫られていた三頭右巴は高野山の鎮守の丹生都比売神社(にゅうつひめ神社)の定紋です。
こちらの紋と青地の法被を見ると夏祭りを思い出します。子供用の法被(ハッピ)ですが、独特の祭りの日本手ぬぐいを巻、目じりに赤い紅と付けて、鼻筋に白粉を一本と押し、白足袋を履いて出来上がりです。
4 こちらの五三の桐は豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋です。
5 総本山金剛峯寺です。撮影した位置が悪く後ろの手水舎が隠れてしまいました。
6 正門です。
7 正門をくぐると正面に主殿があります。屋根は、桧皮葺きとなっています。その屋根の上に、天水桶が置かれています。普段から雨水を溜めて火災時に類焼を食い止めるようにしています。 主殿の左手には旅行社での主催の巡礼の方達が読経していましたので急がねば混み合います。
8 この鐘楼は、金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼です。
袴腰付入母屋造りの形式です。
9 中から外に向けて写真を撮らせて頂きました。五三の桐と三頭右巴の飛脚の箱の様な物が。
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15 蟠龍庭は、石庭としては、国内最大級です。
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21 阿字観(座禅)実施中との事。、高野山に伝わる「阿息観」「月輪観」「阿字観」の3つの瞑想法です。曹洞宗(禅宗)との繋がりは?
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