遠州の遺跡・寺社 48 万葉集「麁玉郡若倭部身麿」の歌と若倭神社
「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。
「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。
「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。
「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。
原文の万葉仮名は、歌碑の写真を参照してください。
文字は犬養毅さんの揮毫(きごう)です。
意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」
現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。
「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。
この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺の西に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。
場所は
(以上天宮智彦HP「遠江と日本 古代史の森」「遠江の若倭部」2005年2月2日、より再録)
『万葉集』の歌の作者が生きていた地域に、その作者の氏を冠した神社があるわけです。
では、若倭部身麿は、どこに住んでいたか、ですが彼が妻とこの宮口、つまり若倭神社の付近に住んでいたのでしょうか。
次回に書きたいと思います。
「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。
「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。
「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。
「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。
原文の万葉仮名は、歌碑の写真を参照してください。
文字は犬養毅さんの揮毫(きごう)です。
意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」
現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。
「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。
この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺の西に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。
場所は
(以上天宮智彦HP「遠江と日本 古代史の森」「遠江の若倭部」2005年2月2日、より再録)
『万葉集』の歌の作者が生きていた地域に、その作者の氏を冠した神社があるわけです。
では、若倭部身麿は、どこに住んでいたか、ですが彼が妻とこの宮口、つまり若倭神社の付近に住んでいたのでしょうか。
次回に書きたいと思います。