雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州の遺跡・寺社 48 万葉集「麁玉郡若倭部身麿」の歌と若倭神社

2011年02月17日 11時44分58秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 48 万葉集「麁玉郡若倭部身麿」の歌と若倭神社

 「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。

 「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。

 「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。

 「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。
 
 原文の万葉仮名は、歌碑の写真を参照してください。

 文字は犬養毅さんの揮毫(きごう)です。

 意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」

 現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
 
 「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。

 「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。

 この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺の西に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。

 場所は

 (以上天宮智彦HP「遠江と日本 古代史の森」「遠江の若倭部」2005年2月2日、より再録)

 『万葉集』の歌の作者が生きていた地域に、その作者の氏を冠した神社があるわけです。

 では、若倭部身麿は、どこに住んでいたか、ですが彼が妻とこの宮口、つまり若倭神社の付近に住んでいたのでしょうか。
 次回に書きたいと思います。

雨宮日記 2月16日(水) 則子さんの「命」で今日もいろいろ、しました

2011年02月17日 05時52分54秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2月16日(水) 則子さんの「命」で今日もいろいろ、しました

 ぼくは則子さんと一緒に生きています。
 今日も、則子さんの指令がありました。

 自衛官人権裁判の「傍聴おねがいハガキ」の追加、50枚をプリンターで印刷しました。

 自衛官人権裁判のニュース「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」を、自分の会社の事務所で印刷しました。

 ぼく、雨宮智彦は、毎日、則子さんの「命」「指示」があって、則子さんと話し合って、すごく幸福ですが、そういう絆のない男性は、寂しいでしょうね。