雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州の遺跡・寺社・地名 115 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」

2013年10月18日 20時16分01秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 115 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」

 北区引佐町の「前方後方墳」に行ってきました。古墳の位置は「稲佐総合公園」の北西、「稲佐変電所」の北側、「北岡」の山の上です。

 ぼくと則子さんは、「北岡大塚古墳」という看板の出ていた、道路の横の小スペースに軽自動車を止めて山道を登っていきました。

 山道を登って、山の南側を東へ回って行くと、頂上近くで西側に、なんと「墓地」になってます。その墓地の北側の道を西へ入っていくと奥の林のなかに「北岡大塚古墳」があります。ただし、囲われているので、古墳の東から「後方部」を眺めるだけです。

 いまのところ、天竜川西の西遠地方では最古の古墳と推定されています。保育社から発行された『日本の古代遺跡 1 静岡』(1982年、たぶん絶版)には、発掘当時の古墳からの景観写真が掲載されていて「都田川流域を一望できる地に築造された」(p219)、「その立地は井伊谷(いいのや)の盆地だけではなく、都田川中・下流域の平野から、浜名湖や三方原台地までのぞめる地点にあり、浜名湖沿岸地域にはじめて出現した巨大な首長墓にふさわしい土地をえらんでいる」(p220)と書かれています。

 古墳と隣接する現代の「墓地」。もしかして、この古墳に祭られている豪族の現代における末裔たちの「墓地」かもしれない。この「墓地」のお寺はいったいどこなのでしょうか?ぼくたちは南西から登ってきましたが、この墓地へは東や北から道がありました。

 この古墳は1979年(昭和54年)に地元の古代史愛好家が発見し、1980年にまだ合併米の引佐町教育委員会と辰巳和弘さんが発掘しました。

 前方部から後方部(葬られた主体)を見る方向は、ほぼ東です。つまり、東向きです。全町46.5m。東の後方部は1辺が26.5mで、高さ3.6m。西の前方部は1辺が20.0m、高さ2.0mです。

 葺石や埴輪はなくて、浜松市発行のカラーパンフ『浜松の古墳めぐり』(2008年)によれば「古墳時代前期中頃、4世紀前半代の築造」(p42)とされています。

 さらに同パンフでは、48ページの「天竜川流域・都田川流域の古墳編年表」で、都田川流域の古墳のはじまり「北岡大塚古墳」、天竜側東岸の古墳のはじまり「磐田市 小銚子塚古墳」、磐田原台地南部の古墳のはじまり「稲荷山古墳」がいずれも、同じ4世紀初めの同時期に作られ、しかも前兆が北岡大塚46.5、小銚子塚=47,稲荷山=46,とほぼ同規模です。

 つまり、同規格でつくられた?もう少し踏み込むと、同じ、技術者集団が作ったと言ってもいいのでは?

 なお、ネットで見ると「磐田市 稲荷山古墳」の情報は「前方後円墳」「前方後方墳」で、ひじょうに混乱しています。もうすこし、調べます。