雨宮日記 4月24日(火) 雨が降り続いてます
お昼ごろから雨がずっと降ってます。
青空文庫で戸坂潤さんの科学論・技術論を読む。
いま蔵原惟人さんの芸術論を読みたいのだけど、1、2冊は奧の部屋の棚の奧にあったと思う。則子さんに探したいんだけどと言いかけたら、「いま忙しいんだから!」と怒られた。
たぶん来月になるだろうと思います。
蔵原さんが亡くなったのは1991年なので、青空文庫に掲載できるのは2041年です。ボクが死んでからのことですね。
雨宮日記 4月24日(火) 雨が降り続いてます
お昼ごろから雨がずっと降ってます。
青空文庫で戸坂潤さんの科学論・技術論を読む。
いま蔵原惟人さんの芸術論を読みたいのだけど、1、2冊は奧の部屋の棚の奧にあったと思う。則子さんに探したいんだけどと言いかけたら、「いま忙しいんだから!」と怒られた。
たぶん来月になるだろうと思います。
蔵原さんが亡くなったのは1991年なので、青空文庫に掲載できるのは2041年です。ボクが死んでからのことですね。
古代ブログ 48 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 28 「遠州の「サナキの社」」
歴史的に天竜川を通じた遠州地方と諏訪地方との結びつきはよく知られています。
たとえば縄文時代の諏訪の黒曜石の石器が浜松で見つかるなど。
文化的なものの1つとして「さなぎの社」があります。
以下、再録
「遠州古代史考 5 『諏訪明神絵詞』「遠州の「サナキの社」」とは?
2011年06月22日 05時34分53秒 | 遠州古代史
「遠州古代史の本 12」で紹介した大庭祐輔さん『竜神信仰』論創社、2006年(2011年06月20日 19時45分42秒)に銅鐸問題で大事な指摘がされていますので、紹介します。
「四 諏訪に来た神々」の「3 天竜川の再生観」の章、p273です。
「中世の文書である『諏訪明神絵詞』にも次のような記述がある。
「ある行者がお御神渡り(おみわたり)を待つために諏訪湖の寒氷の上に旬日通いつめた。ところがある夜、行者は湖上で寝込んでしまった。…そして、目覚めて左右を見たところ、自分の国ではない、重いもかけない所に浮き出てしまっている。そこで近くの人に何処かと尋ねてみたところ、遠州の〝サナキの社〟という答えがかえってきた。諏訪湖から天竜川を下って流れついたのである。行程七日ばかりのところであった。」
これは、どう見ても「佐鳴湖」のことかと思うでしょう。
ところが、さらにブログ「諏訪大社と諏訪神社《八ヶ岳原人版》」の「葛井神社 御手幣送りと葛井の清池 15.1.3」の項目に次のように書かれていました。
「葛井神社から静岡まで2時間 諏訪教育会編『諏訪資料叢書』に『諏方上社物忌令之事(神長本)』が収録してあります。ここに「七不思議」の一つとして載っています。
楠井池御幣・御穀・酒。十二月晦日夜寅剋(刻※朝4時)に彼(かの)幣穀を奉入れば、遠江(※静岡県)いまの浦見付郡猿擲(さなげ)池に正旦夘刻(※朝6時)に彼幣酒穀彼池浮かぶ、宮人取上拝す。楠井與(与・より)猿擲池の間七日路あり、只一時に通ずるなり。
『諏方大明神画詞』にも、御神渡りを見ようとした「タフト坊」が神力で一晩の内に「遠州さなぎの社」まで“飛ばされて”、諏訪へ帰るのに七日間掛かったと書いてあります。」
つまり、『諏方上社物忌令之事(神長本)』によれば「浦見付郡猿擲(さなげ)池」とあり、「見付」の、となれば、これは今の磐田市の、たとえば大池のことかとも思えます。
今のところは、両説を並記しておきますが、大事なことは、天竜川の最上流の諏訪湖と、最下流の浜松か磐田の「サナギの社」または「猿擲(さなげ)池」と超常的な直接行き来できる通路があると信じられていたという伝承があることです。
ぼくは一応歴史学ですので、実際にそういうハイパー空間的なワープ通路があることを信じているという意味ではありませんので。」