雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月21日(水)の3 浜松市の「避難勧告」の謎

2011年09月22日 05時26分11秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(水)の3 浜松市の「避難勧告」の謎

 21日は、浜松市中区・東区・南区などでかなり広い地域に「避難勧告」が出ました。

 その謎、わからないことを考えてみました。

 ① テレビで「浜松市中区曳馬地区に避難勧告」と出るだけでは「大雨」なのか「下線決壊」なのか、理由が分からないし,避難先もわからない。

 ② 「曳馬地区」も出た地区ですが、曳馬地区全体で3万人くらいの人が居住しています。その全員が避難する先はあるんでしょうか?

 ③ この勧告は午後2時に出ていますが、浜松市では台風の暴風雨がいちばんひどかった時間帯です。そういう時間帯に「避難する」のは危険です。

 ④ 曳馬地区でも、雨宮家は馬込川から歩いて5分ですが、上島6丁目や上島7丁目のように台地の上の場所もあります。一律に全体に「避難勧告」というのは道理がないのではないでしょうか。

 ⑤ 午後7時前に、家の近くを「18時ゼロゼロ分に避難勧告は解除されました」と消防車がマイクでアナウンスしていきましたが、どうして、台風の暴風雨が収まったもっと前に解除しないんでしょうか。

 ⑥ なにを基準にして「勧告」「解除」をするんでしょうか?雨量?それとも馬込川の水位?馬込川の水位も見に行きましたが、堤防のレベルには、まだ余裕がありました。これで、どうして「避難勧告」?と思いました。

 調査もしながら、わかったことは書いていきます。

 

雨宮日記 9月21日(水)午後3時42分 暴風雨は過ぎて、馬込川は…

2011年09月21日 16時08分38秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(水)午後3時42分 暴風雨は過ぎて、馬込川は…

 午前11時過ぎに、娘のiさんが浜松駅付近の職場へ行くのに、電車で行こうとカッパを着て家を出ましたが、すぐ帰って来て、「濡れちゃった」「じゃあ、タクシーで行けば」と、遠鉄タクシーに電話したら「今、全部出払って」という話でしたが、タクシーしかないので、来るのを待ってタクシーで娘は職場へ。

 そのあと、さらに風雨が強くなって、植木鉢の背の高いセンダンが倒れたり、明日に粗大ごみで出す予定だった高い棚が倒れかかったりで、則子さんがカッパを着て応急処置をしました。

 だんだんと風雨がひどくなって、完全に暴風雨、浜松では何年ぶりでしょうか。雨戸はすごくガタガタするし、家がきしむような音がして、コワイくらいでした。

 台風15号は午後2時頃に浜松付近に上陸と、2時半頃にテレビで流れましたが、その2時半過くらいぎから急に風雨の感じが変わって、雨戸のガタガタさせなくなり、すこし仮眠できました。

 午後3時半頃に起きて下へ行ったら、則子さんが「曳馬地区に避難勧告が出てる」というので、驚いて、カッパを着て自宅から歩いて5分の馬込川が決壊しそうか、見に行きました。
 他にも男性がお二人、見に来ていました。
 写真の通り、まだ堤防の高さまではかなり差があって、まずは一安心です。あとは、上流の雨でさらに高まらないかどうかです。
 
 しかしテレビで「曳馬地区に避難勧告jというだけでは具体的危険など詳しいことは何もわからず、困ってしまいます。

 今、4時17分、風はまだ時々強いけど、雨はほとんどありません。

 「曳馬地区避難勧告」の詳細が知りたくて「浜松市ホームページ」にアクセスしようとしましたが、ものすごく遅いです。みんな集中するんでしょうね。

 結果は「馬込川、安間川、芳川流域周辺地区 9月21日 午後2時~ 86,382世帯213,321人 」ということです。

 それにしても1回もマイクで巡回とか来ないし「避難勧告」って何でしょうね?

 写真は三浦橋で、午後3時42分撮影です。


 

遠州古代史ニュース 2011年9月 浜松市北区都田町「郷ヶ平古墳群」の発掘

2011年09月21日 07時16分40秒 | 遠州古代史
遠州古代史ニュース 2011年9月 浜松市北区都田町「郷ヶ平古墳群」の発掘

 浜松市都田の「郷ヶ平(ごうがひら)古墳群」は、六世紀の古墳群で、8基の古墳がありましたが、現存しているのは郷ヶ平4号墳だけとされていました。

 4号墳は、前方後円墳で、全長26.5mです。後円部は直径16.5m、前方部は幅12m、高さ2mで、ずんぐりむっくりの古墳です。

 平成17年(2005年)10月19日に「浜松市指定史跡」になっています。

 4号墳からは、円筒・朝顔・武人・馬の埴輪が出土し、周囲には堀をめぐらしてありました。

 浜松市の8月23日からの発掘で、3号墳の一部が現存していることが明確になり、浜松市は10月2日(日)の午前10時からと,午後1時半からの2回、現地説明会を開催します。

 詳しくは浜松市のHPをごらんください。

 

雨宮日記 9月21日(水)朝 台風15号が静岡県に上陸か?

2011年09月21日 06時41分45秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月21日(水)朝 台風15号が静岡県に上陸か?

 今、朝6時42分ですが、予報では台風15号が静岡県に接近しています。午後3時ぐらいに上陸ではないかと言うことで、さっき、則子さんと家の周りの小物や大物を家に入れたり,縛って固定したりしました。

 もう、かなり風があり、台風の「強風域」に入ったのでしょうか。

 ときどき、雨がすごく強くなります。

 なにしろ、いまの時点で940ヘクトパスカルですから「非常に強い台風」です。みなさん、気をつけて、被害を最小限に抑えましょう。

 今日は,朝は出勤できても、午後は新幹線や東海道線が止まったり、傘は使えなかったりという感じでしょうか。

 夕食の買い物は、早いうちに済ませた方がいいですね。

 というような話を、朝帰って来てから則子さんとして、ぼくは今から寝ます。

 お昼過ぎに起きて、則子さんと必要な台風対策をします。

浜松・放射線量測定 14 9月20日(火) 南区の測定

2011年09月21日 06時22分00秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定 14 9月20日(火) 南区の測定

 やっと今日は、台風の影響の雲と風で暑くなかったので、午後、放射線量測定器(ホリバ ラディ PA-1000)を持って南区へ行きました。

 慣れない、初めて来た場所なので、地図上の場所と車で自分が来た場所とを「同定」するのがたいへんでした。
 
 「あれ?ここはどこ?」という迷い道もありました。

 天気くもり、台風15号が高知沖。

 午後3時44分、南区頭陀寺町の頭陀寺第一公園の西横、路上
  平均値 0.0341
  最大値 0.039
  最小値 0.031

 頭陀寺第一公園の中、土の上1m
  平均値 0.0554
  最大値 0.059
  最小値 0.050

 土の上0センチ、草がすこし生えている
  平均値 0.0664
  最大値 0.074
  最小値 0.058

 砂場の上、1m
  平均値 0.0562
  最大値 0.061
  最小値 0.051

 砂場の上、0cm
  平均値 0.0601
  最大値 0.065
  最小値 0.057

 コンクリと土と砂についての傾向が、どこでも同じかどうかはわかりません。もっと調べます。



 

日本古代史 「万葉集」を読む 1 「日本」と「倭」と「ヤマト」と 

2011年09月20日 05時25分56秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 「万葉集」を読む 1 「日本」と「倭」と「ヤマト」と

 講談社文庫の中西進さん全訳の『万葉集(二)』のp40に「956番」の大伴旅人さんが太宰府で詠んだ歌が載っています。

 中西さんの読み下しは以下の通りです。

 「やすみししわご大君(おほきみ)の食国(おすくに)は倭(やまと)も此処も同(おや)じとそ思ふ」

 原文はこうです。

 「八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念」

 ぼくは、こう思います。原文の「日本」がなぜ、読み下しでは「倭」と漢字で書いて、しかもふりがなが「やまと」なのでしょうか。

 日本をヤマトと訳していいのなら「日本書紀」も「ヤマト書紀」、「続日本紀」も「続ヤマト紀」に題名を訳しても良いことになります。

 普通の理解では「日本」は八世紀以後の日本国とか日本列島全体のことで、「倭」は七世紀以前の日本の旧名ですね。

 紀元五世紀の「宋書倭国伝」、紀元3世紀の「魏志倭人伝」での「倭国王」卑弥呼も有名ですし、紀元一世紀の「金印」に「漢委奴国」と記されているのも「委=倭」です。

 『万葉集』でも「日本」と「倭」が両方とも出てくるので、それぞれ「日本(にほん)」「倭(わ)」と訳せばいいのではないでしょうか。

 日本の一地方である「ヤマト」と訳すのは混乱・混同の元ではないでしょうか。

 「956番」の2つ前の「954番」は膳(かしわで)王さんの歌ですが、原文で「倭部越」を読み下しでは「倭(やまと)へ越ゆる」と訳しています。

 956では「日本」を「倭(やまと)」に、954では「倭」を「倭(やまと)」にというのは、違う原語を同じ訳語にするのは無理があると思います。

 すくなくとも、どうしてそうするかという説明は必要ですが、それがあるのかどうか、もっと学習します。

 「1047番」の長歌の最初は「やすみしし わご大君の 高敷かす 日本(やまと)の國は」と読み下していますが、原文は「日本國」で、現代語訳は「八方を支配なさるわが大君が、高々と治めなさる大和の国は」となっています。

 大君が治めるのは「大和の国」というのは、あまりにも小さすぎて大君から抗議声明が出るのではないでしょうか。

 大和の国は天皇家の最初の拠点であり、天皇家が治めていたのは日本全体というのが記紀や万葉の世界の前提ではないでしょうか。

 ですから、この1047番の場合、「日本」は大和という一地方ではなくて「日本」でないとつじつまがあわないと思います。

 ヤマト朝廷というのは歴史学者たちの名付けた他称で、自称は「日本天皇家」ではないでしょうか。

 「万葉集」を原文・読み下し・現代語訳で比較しながら、読んでいきたいと思います。
 

 

浜松・放射線量測定情報 13 自宅・わが家の外と中

2011年09月19日 21時53分02秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 13 自宅・わが家の外と中

 9月19日(月)敬老の日、夜、雨の降り出す直前、それぞれ10回計測

 午後7時22分、自宅の駐車場・コンクリの上
  平均値 0.0610 
  最大値 0.068
  最小値 0.054

 午後7時26分、自宅1階玄関の横の部屋
  平均値 0.0573
  最大値 0.058
  最小値 0.051

 午後7時30分、台所の木のテーブルの上
  平均値 0.0644
  最大値 0.071
  最小値 0.062

 午後7時33分、2階則子さんの部屋
  平均値 0.0488
  最大値 0.053
  最小値 0.045

 午後7時38分、2階ベランダのコンクリの上、1m
  平均値 0.0559
  最大値 0.061
  最小値 0.050

 見ての通り、屋内ではかなり放射線が減るかと思っていましたが、木造の我が家では遮蔽能力があまりないのか、むしろ増えてる部屋もあります。

 たしかに木造家屋でも屋外を漂う細かな塵に付着した放射性物質や、あるいはアルファ線・ベータ線はさえぎるかもしれませんが、もうほとんど空気中に漂っていないと思われる今の状態では、屋内外の違いはあまりないのかもしれません。

 むしろ市役所内で計測したように建物の建材自体から出る放射線で高くなる場合があります。

 
 

 

雨宮日記 9月18日(日)補遺 対話編「生命と愛と…」

2011年09月19日 06時53分21秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(日)補遺 対話編「生命と愛と…」

 則子「どうして、智彦くん、そんな早く転換できたの?
    わたし、行ってもいいよって言ったのに」

 ぼく「見かけだけ生きていても、愛が消えちゃったら、生きている意味がないでしょ
    形式的には、もちろんぼくは行く権利はあるけど…でも…
    ほんとうに好きな則子さんのために、ぼく生きているんだから
    この夏は、二人とも、すごく危機だったんだよね

 則子「私は、予測外れで、すごくつらい夏だったけど…

 ぼく「則子さんが、つらいときには、ぼくだって、つらいよ…
    必死で則子さんを支援したんだよ
    そうしたら、わかったんだ。
    あ、ぼくも同じだ!逃げなくちゃ!って

 則子「もっと詳しく、みんなにわかるように説明できる?
    生命と愛と…

 ぼく「うん、やってみる。できたら、小説にするのがいいかな?
    もちろん、生命も愛もどっちも大事だよ。
    だって、それは同じものだもの
    生命は、大好きな則子さんと一緒に生きていく喜びや哀しみで
    憎しみではないし、怒りではないし
    自分の中から出てくるのではないものは違うかな

 則子「大事な生命や愛があるから、
    場合によっては、外から見るとあっけなく捨てるように見える?

 ぼく「そう!たかかうことは大事だけど、
    そこでたたかうか、そこから脱出するか、一人ひとりが決めるべきと思う

 

浜松・放射線量測定情報 12 9月18日(日) 「まだら模様」な放射線量

2011年09月19日 06時02分54秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 12 9月18日(日) 「まだら模様」な放射線量

 ずっと放射線量を測定していると、感じるのは、まずこんなに1分くらいで放射線量がかなり変動しているとは思いも寄りませんでした。

 10秒ごとの60秒積算値が、かなりあがったり、下がったり、変動します。

 次には、すこし場所を移動しただけで、かなり数値が変動する。「まだら模様」汚染なわけです。

 最初は「2kmメッシュ」にすれば、かなり精密に放射線量の地域的変動を測れるかと思ったのですが、もっと精密に「1kmめっしゅ」で測る必要があるかもしれません。

 もうすこし広域で測ってから判断します。

 今日は快晴。暑い日です。

 午後3時25分、有玉神社北東の巨木の下。オーシンツクツクが啼いています。
  平均値 0.0371
  最大値 0.040
  最小値 0.033

 午後3時40分、積志小東の道路上
  平均値 0.0437
  最大値 0.048
  最小値 0.036

 午後3時53分、積志図書館西南の路上。以上東区
  平均値 0.0370
  最大値 0.040
  最小値 0,034

 午後4時15分、浜北区内野、御陣屋川の西、遠鉄バスの東
  平均値 0.0314
  最大値 0.036
  最小値 0.027

 写真は「浜北区内野、御陣屋川の西、遠鉄バスの東」の川です。

 
 
 

雨宮日記 9月18日(日) 暑い9・18でしたが、負けずに家と外で

2011年09月19日 05時31分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月18日(日) 暑い9・18でしたが、負けずに家と外で

 放射能測定で忙しくて「雨宮日記」が遅れているので,一気に日曜日まで途中を飛ばしました。

 最近は「9・18」と言っても「何、それ」と変な顔をされるようですが、要するに戦前の大日本帝国が「満州」(中国では「中国東北部」といいます)全土を戦争で占領して「満州国」(中国の言う「偽満州国」)を作って完全植民地化した第1歩の戦闘が始まったのが9月18日です。

 「15年戦争」の始まりで、1931年ですから、今から80年前です。僕の父親が9歳の時です。父に聞いてみようと思います。
 
 「「満州事変」の記憶ある?」って。

 なぜ「事変」かというと、正式に「戦争」にしないために「宣戦布告」をしていないんですね。

 すこしは学ぼうと、8月に録画した映画「人間の条件」全部を見ると9時間半だそうです。その最初、その満州で、主人公の梶さんと、恋人の美千子さんが、日本兵の行軍をバックにかわす会話から始まります。

 梶さんは、いつ兵隊に徴兵されるかわからない立場、彼女に結婚してくれと言えずに、彼女もやきもきします。

 梶さんの勤める会社(満州鉄道=満鉄?)で彼女はタイピスト(タイプライターを打つ人)のようです。
 
 そこで娘から「お父さん、いつまで見る?」と言うので「ああ、いいよ。いつでも見れるから」と画面権を譲って2階へ行きました。

 さて、今日も暑い1日でした。

 午後起きてから、最近は則子さんの部屋(いままで長女も一緒にいた部屋)で則子さんのノートパソコンを使わせてもらうことが多いのですが、今日も、自衛官人権裁判の勝利報告会の返信ハガキ「わたしのひとこと」をようやく仕上げました。8ページにしたので、B4版の紙で2枚使って印刷することになります。

 午後の3時からは、則子さんと車で北東方向へ放射能測定に行きました。2kmメッシュの交点だけではなく、積志小とか途中の地点でも測定しました。

 久しぶりに行った御陣屋川(馬込川の支流、浜北区内野付近)では、黒いハグロトンボが何匹もヒラヒラ飛んでいました。グリーンの胴体がきれいです。もちろん「羽黒」です。「お歯黒」ではないです。

 夕方、自宅に帰り、則子さんはすぐに夕食作り。以前は、則子さんが仕事で忙しかったので、子育てや夕食や洗濯もかなりやっていたのですが、最近は、則子さんに頼り切りで、時々、ずきっと良心が痛みます。
 則子さん、いつもありがとうございます。心から感謝いたします。でも、ぼくだって、則子さんの必要不可欠なことやっていて、相互支援ですよね?(うわあ、無理矢理…)。

 決して一方通行の奉仕ではないと思いますが。

 夜は、則子さんといっしょにぼくの職場に、10月に新居図書館でやる「原爆と人間展」のちらしを700枚、印刷にいきました。
 印刷を終えてから,被爆者の会のYさんに必要枚数を届けました。
 
 則子さんが「コープの小豆餅店に買い物に行って」というので、一緒に車で行き、ぼくの好きなフランクフルトとウインナーもついでに買ってもらって,家へ帰りました。

 今日も、ふつうに忙しい日でした。

 写真は、今日の夕食です。もちろん則子さんの完全自作です。
 

 
 
 

雨宮日記 9月14日(水) 小啓子市議の質問前日で準備のため

2011年09月17日 06時20分07秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(水) 小啓子市議の質問前日で準備のため

 ここ何日か、浜松市役所の中を放射線量計測していて、わかったことは、屋外よりも市役所の建物のなかの方が数値が高いのです。

 市役所の外は、だいたい、0.03マイクロシーベルト/時ですが、市役所の中に入ると、その2倍から3倍に増加したので、びっくりしました。

 文献やねっとを見ると、建物のコンクリなどに使われた石材の中に、放射線源が含まれていて、とくに花崗岩などは数値が高いようです。

 一般的に、屋内は、野外の4割で計算するような話を聞いていたので、野外より多いことをきちんと計測して、そこに働く市職員や出入りする人に知らせるべきと思います。

 日頃から一致点で協力協同している浜松市議の小啓子さんから話があって、市議会で一般質問をするので、その準備で、前日に、市議会の議場で放射線量を量っておきたいということで、午後、小さんの控え室へ行きました。

 小さんが市議会事務局に「明日の質問の準備で、今日いまから、議場で放射線量を測らせて」と連絡して、小さんの後について、生まれて初めて、市議会という場に入りました。

 測定器を持って行ったら、市議会事務局のみなさん(みんな男性)が、8人くらい来ていたので、びっくりしました。

 それだけ興味津々なのか、不安なのか。

 ついでに、議会事務局長さんの部屋と、議会事務局の部屋も測ってあげました。

 全国の議会(国会・県議会・市議会…)の議場に、放射線測定器を持ち込んで、実際に測りながら質問をした例が小さん以前・以外にあるかどうか。
 もしなければ、ギネスブックに申請してもいいですね?!

浜松・放射線量測定情報 11 9月17日(土)朝 北区・西区・中区西浅田

2011年09月17日 05時39分43秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 11 9月17日(土)朝 北区・西区・中区西浅田

 9月17日(土)早朝の測定です。測定者雨宮則子、記録者雨宮智彦。地上1m。

 午前1時56分、雨のあがったすぐ後。北区三方原町。道路のコンクリの上。
  平均値 0.0471
  最大値 0.052
  最小値 0.038

 午前2時49分、西区篠原町、三方原病院のすぐ南。道路のコンクリの上。
  平均値 0.0557
  最大値 0.061
  最小値 0.048

 午前3時12分、南区西浅田2丁目10,道路のコンクリの上。
  平均値 0.0445
  最大値 0.047
  最小値 0.041

 10月上旬まで、浜松市内の南側を2kmメッシュの交点を数十カ所と、区役所など主なポイントを測り、「浜松市内放射線量マップ(第1次)」として公表し、浜松市にも届けながら、必要な要請をおこないたいと思っています。

遠州古代史 地名編 2 東区半田町(はんだちょう)

2011年09月16日 23時10分39秒 | 遠州古代史
遠州古代史 地名編 2 東区半田町(はんだちょう)

 『和名抄』の「麁玉郡」に「覇多郷」(はたごう)があります。現在の東区の半田町や「半田山」のことですが、明らかに「覇多郷」は古代氏族の秦(はた)族の居た地帯です。

 秦氏は、古代朝鮮から移住してきた大部族ですが、古代の長岡京や平安京のあたりの水利を整備し,現在の「京都」の基礎を築いた部族です。

 「半田町」「半田山」だけではなくて、「有玉南町の旧村時代の字には東畑屋、西畑屋…などがあった」、「『畑屋』は本字は幡屋なり。昔の神服部の処か。と「風土記伝」に記されている」と加藤鎮毅さん著『あの町この町 遠州地名町名物語 浜松・浜北編』ひくまの出版,1981年、p235)には記されています。

 半田=秦氏=服部ですね。

 さらに服部(はっとり)という機織り部族は、織物技術にたけていたわけですから、浜松の物作り伝統の基礎は、この秦族ということになります。

 笠井地域には、豊町に「服部神社」がありますから、半田町の範囲を超えて。秦氏は分布していることになります。「遠州の遺跡・寺社23 豊町の「服織(はたおり)神社」
2010年08月01日」で紹介しました。

 さらに別の、「豊町羽鳥」の「羽鳥八幡」神社のことは、昨年「遠州の遺跡・寺社20 豊町の羽鳥八幡神社」(2010年07月28日)で紹介しました。

 「豊町」は1955年に合併で作られた新しい町名です。

  ☆

 蛇足ですが、耳で「はんだ」と聞いて連想したのは、金属をくっつける「ハンダ」です。ねっとで調べたら「ハンダ」は外来語ではなく、日本語だと言うことなので、古代の技術氏族である秦氏の名前と、もしかして関係があったりしたらおもしろいですね。
 ありえないかな?


日本古代史 「天原」は天空?それとも高天原?それとも?

2011年09月16日 05時49分31秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 「天原」は天空?それとも高天原?それとも?

 重宝している中西進さん編集の『万葉集(全4巻+別巻)』講談社文庫、を読んでいると、こういう歌に出会いました。

 「天の原 ふりさけ見れば 白真弓張りて 懸けたり 夜路は吉けむ」

 第1巻の194ページ、第289首です。「間人宿禰大浦初月歌二首」の1首目です。

 中西進さんの現代語訳の最初は「大空をふりあおいでみると」と訳しています。

 原文は「天原」です。なぜ「天原=天の原」が「大空」になるのでしょうか?

 そして、どうして「ふりあお」ぐのでしょうか?
 月を見るのですから、まず月の方向を向いて目を上げればいいので訳語「ふりあおぐ」という原語「ふりさけ」が何か不自然なのです。

 「ふりさけ」は実は、「ふりかえる」ではないでしょうか。

 「古今和歌集」の「巻第九」の最初、第406首目は,有名な安倍仲麿さんの歌です。

 「唐土にて月を見てよみける

  あまの原 ふりさけみれば 春日なるみかさの山に いでし月かも」

 この安倍仲麿さんの歌について、古代史学者の古田武彦さんは、「天の原」は天空のことではなくて、北九州の壱岐島の「天の原」という現代にもある地名で、九州から中国へ遠く渡ろうとする安倍仲麿さんが、壱岐島から振り返って、北九州の福岡付近にある「春日なるみかさの山にいでし月」を見て歌った歌だとしています。

 「春日」も「みかさ」も、福岡付近と、奈良付近の両方にあります。

 つまり、いまから故郷の筑紫を離れて、遠く中国へ任務で旅をするときに、故郷を「ふりかえって」偲ぶ、望郷の歌ではないでしょうか。

 問題は、日本神話の「高天原(たかまがはら)」と、この「天の原」との関係です。

 実は、万葉集の中には「高天原」=「天原」という歌もあるのです。

 たとえば「巻第二」の柿本朝臣人麿の歌(第167首)では,最初「天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に」と歌い出し、途中で「天の原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ」と。

 もし「天原」=「高天原」なら、なぜ言葉で書き分けるのか、という疑問が出てきますね。つまり、どっちかの語彙で統一すればいい、違うのは,概念が違うのでは?

 ひとつありうるのは、この「高天原」=「高い天原」は、壱岐の「天の原」よりももっと歴史的に「倭人」あるいは「天族(あまぞく)」がやってきた根源の土地で、壱岐の「天の原」は、その途中の拠点ではないでしょうか。

 こういう視点でいうと、「高天原」は、朝鮮半島のどこかに発進地として求めないと…そして海洋民族の中間拠点として壱岐島の「天の原」があります。

  ☆

 これ以後は妄想です。

 幻想古代史として語呂合わせで言うなら「高い天原」=「たかまがはら」から壱岐の「天の原」に海女族=天族は、最新鋭の鉄製武器を持って移動していきます。
 
 その壱岐の天の原から、さらに「高い」から「低い(ひくい)」へ、つまり「ひくまがはら」があっても、論理的には、おかしくないですね。

 
 

 

 

震災・くらし情報 放射線量の「安全」か?「危険」か?の基準は?

2011年09月16日 05時37分55秒 | 地震・原発・津波・防災情報
震災・くらし情報 放射線量の「安全」か?「危険」か?の基準は?

 福島原発事故でまきちらされた放射線物質の「危険性」「安全性」について、「この量なら安全」とか「この量なら危険」とか,大論争になっています。

 ひとつ、考えないといけないと思うのは「事実認定」と「価値判断」の違いです。このことを明確に聞いたのは、安斎育郎さんからが最初です、

 つまり「いま我が家の放射線量は毎時0.05μシーベルトである」というのは事実です。これは計測しているわけですから、器械が狂っていない限りは、確かです。

 それから、たとえば「4シーベルト(広島原爆で爆心から1km)を人間が浴びると致死率は50%」というのも、意見ではなくて、調査による事実です。異論のある方は、そうではないという事実を提示して下さい。

 問題は、いわゆる「低線量」です。

 この「低線量」は「危険」か「安全」かというのは事実ではなくて、価値判断の意見なんですね。だから、個人によって違って当然です。

 個々の線量の評価(価値判断・意見)を論議するのではなくて、まず「事実認定」と「価値判断」の違いを確認して欲しいと思います。

 そして価値判断・意見は、いろいろあっていいし、いろいろあって当然なのだということを確認して欲しいと思います。

 異論を言いにくい社会・異論を圧殺しかねない社会の危険性を感じます。