玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

93)Boat初洋上結婚式

2006年12月14日 | ピースボート世界一周

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 2005年11月27日Peace Boat史上初の洋上結婚式があった。60代カップルの誕生である。2人は乗船早々のビンゴゲームで、彼女がゲットしたインドネシアツアーに彼が同行したのがお付き合いのキッカケだったという。パナマ運河通過を記念して婚約発表をし、洋上で結婚式を挙げると宣言していた。(手前にモット広いこの場に式場が設えられた)

Peace_boat_082  若者達や同年代の仲間が2つとない式をと計画を練ったらしい。私自身はいつものスケジュールをこなすのに忙しくて、沢山の乗客が参加したその夜のパーティ以外は一切参加していないが、着々と準備が進行しているには見て取れた。(乗船2週後に夏祭り。彼女はプールの上に設営されたヤグラ太鼓を叩きハッピが似合った)

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 夜のパーティには事前のお知らせに従い何方もお洒落をして集まった。こちらの会場も又キレイに飾り付けられていた。先ず日中に挙行された結婚式の報告があった。青い空、青い海、大自然による絶好のシチュエーションの中で盛大に行われた。会場の飾りつけ、純白のドレス、司会進行、背丈ほどもあるウエディングケーキ(これは船会社からのプレゼント)と全て手作りで見事だったという。(パーティの出口で1人1人に挨拶するご両人)

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 パーティは会費制(と言っても自分の飲み物は自分で注文する程度)で、映像班が作ったであろう2人の出会いの再現VTRをみた。当初はご両人を中心にした宴から、一般のダンス、寄席、歌、演奏と続きパーティ特有の賑わいを見せて華やかな雰囲気の夜を皆さんと共に過ごしたのだった。(別の日パーティだが、ドリンクはこんな風な飾りつき)

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92)フィジー・クーデター

2006年12月12日 | ピースボート世界一周

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 5日夜TVが、フィジーでクーデターのNewsを報じた。エッ!あのフィジーでクーデター?。首都スバで早朝武装した兵士が首相の自宅を包囲し検問所を設けたという。1日目の午後はスバの港街で自由に過ごし、2日目はラウトカ港に回ったばかりだったので「あの街」がすぐ思い浮かんだ。(奥のテント迄スバの市場)

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 フィジーは日付変更線のすぐ西に位置し、世界で最も早く朝を迎える国である。イギリスの植民地時代に、インド系の人々がサトウキビ栽培の労働力として送られて来て先住民のフィジー人と人口で拮抗するようになったが、経済活動においてインド系が優位に立っていた。Peace_boat_1188 フィジー系のガラセ首相が'00年におきた国会占拠事件の首謀者達に恩赦を与えようとしたことで、かねてから政府と対立関係にあった軍が起したらしい。(特別な日に食べるロボ料理と教会内部)

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 ツアーは「フィジアンの村で文化交流」で、公用語である英語研修と文化交流を兼ねたプログラムであった。現地ではフィジー語やヒンディ語も使われるという。サナサナ村は教会を核に形成されている風で、「フィジータイム」とよばれるユックリした時間が流れていた。島々で何度か飲まされた「カバの儀式」を終え、来訪者の頬には仲間になった印のパウダーがつけられ、メケという伝統的な踊りを見せてもらった。Peace_boat_1167_1 男達はメラネシア特有の黒い肌に更に隈どりのメイクをして踊り一段と勇壮であった。歌は何れもきれいにハモッていてかねての教会での修養を思わせた。

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 最後は「お宅訪問」と「皆で踊ろう」であった。こちらは教師1人と生徒4~5人のグループで集会場の周りのお宅を訪問し、生活の様子を見せてもらいながら日々の様子など双方で紹介しあったPeace_boat_1196_1。食堂にはイスやテーブルがあったか?居間には休息用のイスはあったが他には家具らしいものは見当たらない。仕切りの少ない部屋はカーテンで仕切ってあったような。その後再度集合しみーんなで輪になって日本の盆踊りを楽しんだのだが、こんなサナサナ村にもクーデターの影響が及ぶのだろうか? 

 

 

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ある自尊心

2006年12月11日 | 捨て猫の独り言

 在宅虚弱老人の生活の自立や孤独の解消と介護家族の労苦の軽減を目的に週に何回か通所させて入浴、食事、リハビリ等の世話をするというのがデイケアの定義である。娘達は保育所のことをデイケアと呼んでいる。広義の意味で保育所もこれでいいのだろう。大家族で暮らしていた時代の日本には存在しなかった。暮らしの変化の中で新たに必要な物が出てくる。介護保険などがそうである。これからの日本社会は保育施設、障害者施設、医療施設、更生施設などの拡充には社会資本を惜しみなく投入すべきであろう。

 80歳をすぎた軽度の認知症の婦人がいる。連れ合いを失くし一人暮らし。昼間はデイケアに来て、夜は子供達家族の誰かが泊まりに来る。「私は目的地に着いたら必ず報告するようにと子供達に言い聞かせてきました」 自分がデイケアに到着したことを家人に連絡せねばならないとの主張で一日が始まる。必要のないことを告げても納得しない。スタッフは隣家に連絡するなど誠実に対応する。

 テーブルで塗り絵の作業が始まる。ご婦人はそのような子供騙しのようなことはやりませんと拒否なさる。「今日はどんなことをしたのと子供に聞かれて塗り絵なんて言えません。ちゃんとしたプロの指導なら私は描きます」 周囲の一緒にやりましょうという説得の途中にご自身は睡魔に襲われ、揺り椅子にお移りになる。驚きはしなくなったが、つぎの発語に居合わせた人たちは戸惑う。「人は何のために生きるのですかね。皆さんどう思います」 まだ失われていない自尊心を傷つけてはならない。「ああまた明日もこんな所に来なくちゃならないなんて何と退屈なことでしょう」

 赤ちゃんの成長と違って、老いとはある部分は若い人以上か同レベルの能力を残したまま、ある部分のみ退行していく。「死ぬまで元気でいたい」 が全ての人の願いだが、老いとは大変バランスの悪い、個人差の大きい現象のようだ。

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91)赤道・日付変更線越

2006年12月10日 | ピースボート世界一周

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 今回の旅行に向け一枚の世界地図を求めた。地図にはいつも見るように薄く縦横に経・緯線が引かれている。西回りに出かけた世界一周の旅は4回の赤道横断(セイロン島入国前、ケニア出国後、ペルー入国前、パプアニューギニア出国後)と、時差調整の繰り返しだった。赤道横断が日中だと船は汽笛をボーッと鳴らして通過中であることを乗客に伝えた。(Bed Sideに掲示しておいた地図に、日付変更線と航路を記入)

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 経線は赤道を中心に北と南に90度づつ2分されている。何故「赤道」というのか?英語やスペイン語では春秋、昼夜が平分と言う語源から「イクエイター」というらしい。日本語の語源には赤色を示す言葉はなく中国からの借用で、中国では赤には大陽の意味があり、「太陽の行く道」と言うのが由来のようだ。

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 緯線はグリニッチ天文台を起点に東西180度づつに刻まれており、太平洋上の緯度180度を日付変更線と定めている。今回の旅は3ケ月がかりで1日の清算が必要だった。数日おきに1時間づつの時差調整をし、11月30日の時差発生で12月1日は辛うじて1時間存在できることになった。(My Roomは約4.5畳位か。左ドアを開けると洗面、シャワー、トイレのユニット。中央は一段目を引き出し板を渡すと机に)

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 こんな面白い記念すべき日をBoatの連中が放っておく筈はない。案の定かなり前からプロジェクトが組まれ「失われた1日を求めて!スーパーダッシュ12・1」と題して、1日の流れを1時間に凝縮したプログラムを作り超寸劇にして演じた。観衆にとってこんな時差解消は先ず体験しえず、内容も愉快で好評、好企画だった(いつも生真面目にレジメに沿って上陸説明会をする某女史が、自分の故郷に乗客を上陸させる可笑しいストーリーをニコリともせず遣り通し大受けだった)

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90)マオヒ村で芋植えす

2006年12月08日 | ピースボート世界一周

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 2日目はHARURU団体と共にワークショップを行った。同団体は約200名のボランティアのメンバーで構成されていた。マオヒ(タヒチ)文化では人間も自然の中の一つであると考えられていたが、植民地政策の影響で自然と人を区分するようになった。そこでマオヒ人として自然と共存しマオヒ文化の保護、自然の保護を目指して活動している団体であった。(定住地ではなく、国内外からの訪問者に対する研修場)

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 まず数人乗りのジープで、1時間余りかけて山、川を貫けタヒチ島の真ん中にある遺跡や聖なる場所「マエラ」に着いた。そこには祭事に使ったろう広場や祭壇ようのものが設えられていた。お祈りした後そこらに茂っている蔦やしだ様の草で首飾りになるレイや冠等つくり身に纏った。それから昼食用に皿を作りおいた。

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 ここは若者達の教育の場にもなっていて、宿泊できるバンガローも10ケぐらいはあったか。広場に屋根だけ葺いた頑丈な小屋が太い柱、テーブル、ベンチ、多人数に対応できるお勝手付きで出来ていた。その中で長老の話を聞き歓迎のゆったりしたダンスや若者達が奏でる民族調豊かなメロディ-を聞いた。(村人は砂利上を素足。私も真似たがムリ。かっては出来ていた筈?だが足はスッカリ退化)

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 タロイモを主体にした昼食は素朴な味で美味。近くにあった滝つぼ様の川では当地の若者や子供達が次々と飛び込んだ。日本からの訪問者には若い女性はいたが男性はいない。私達はグループの中でも元気のいい中年女性に「飛んでみて!」と声をかけたら、彼女、躊躇ってはいたものの遂にはエイッとばかり飛び込んで全員の喝采を浴びた。

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 最後には皆でタロイモの植え付けをした。地盤は石交じりで固く耕し難い。暑い土地柄だがタロイモは強いらしい。 Peace_boat_1100 やっと植え付けが終わると皆並ぶように指示された。最後にはこうするのだと発声と所作を習い、タロイモが丈夫に育つように双方が揃って掛け声をかけ神に祈願したのだった。

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89)・・でも海は青かった

2006年12月06日 | ピースボート世界一周

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 眩しいほどに明るい朝日を浴びてフランス領タヒチに接岸した。初日はバスに分乗して観光の要所とゴーギャン博物館を巡りながら島を一周した。乗客を案内するガイドさんは京都出身のスラリとした美しい日本人だったPeace_boat_1029。 現地で結婚し子供2人と義父母と他の親族を含め同居中と。ご主人は観光バスの運転手だと言い、バスが合流した行き先でこちらが主人と紹介してくれた。(丘から見える海岸線とパンの木を案内するガイドさん)

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 現地に住み着いて更に理解する日常生活や文化の相違、感情の機微や折り合いの付け方など観光案内の中に織り交ぜて話し、でも「住み易いですよ」とサラリと語った。外国に行くと現地に住む日本婦人にガイドしてもらう事が多いが、彼女らは何方もその地のことをよく学び楽しんでいる風に見受けられるのだが、彼女も然りだった。(船着場の前広場に夜は屋台が出てルロットと呼ばれていた。手前の巨漢は圧巻)

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 バスは観光客を乗せて海沿いを走り青い海原、サーフィンに恰好の波、潮吹き穴を見せゴーギャン博物館と一周した。博物館にはゴーギャン特有のタヒチの女性を描いた絵画が一杯展示してあったが惜しくも本物はない。ゴッホとの軋轢、結婚離婚の繰り返し、フランスとタヒチの放浪、自殺未遂、病気と貧困を繰り返すうち四散したらしい。(浮世絵に習ったといわれる作品)

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 昼食は海に面したレストランで、南国特有の美しい花に迎えられご馳走を戴いた。今までのツアーは交流関係が多かったので、その夜は思い切って豪華にとディナーショウを予約していたPeace_boat_1062。さるホテルの海にせり出した舞台と会場でタヒチのダンス堪能し、バイキング形式でディナーをタップリ戴いた。当夜の代金は〆て17000円。今回の旅行において最高にお金をかけた夜だった。(魚介類を使ったディナーと、最後は観客も舞台に上がる)

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目で分かる

2006年12月04日 | 捨て猫の独り言

 振り返ると風邪気味の状態が20日以上続いている。これがいつまで続くのやら見当もつかない。最初は熱など出ない。そのうちそのうちと思っているうちにここまで来てしまった。咳き込んで思わず戦線離脱して廊下に飛び出した。その翌日とうとう一日欠勤した。今は夕刻になると熱が出る。昨年度は無欠勤だったのに最後の年に残念なことだ。

 土曜日に近くの開業医で始めて診てもらった。これまで風邪で病院通いをしたことはない。風邪に対しては我が家で手に入る風邪薬のみでしのいできた。これからは地域との関りを大事にしておきたい。歩いて5分の開業医を尋ねた。夜の咳に苦しんでいることを訴える。レントゲンを撮り、抗生物質と咳止めの2種類の薬を処方してくれた。これで治まらなければつぎの手段を考えると言う。町の医院に出向いたのは子供の頃以来なので新鮮な気持ちであった。

 夜は自分の咳で目覚め、しばらく咳は止まらない。眠られない時が続く。うとうとしてまた咳がぶりかえす。上半身に寝汗をかいている。時に昼間でもそうだ。搾り出すような咳が止めようとしても止まらない。瞬間血圧もかなりのものではないか。五感が鈍磨していく。真っ先に味覚がだめになる。一番の悲しみはこれまで美味しく頂いていた酒が美味しくないこと。ああ風邪をひかないことがこんなにも素敵なことだとは思わなかった。聴覚は最後まで残る。まるで臨死体験談になった。

 人はなぜ風邪をひくのか。思い上がらないようにと言っているのかもしれない。沈潜せよとの警告かもしれない。私の体調不良は先ず右目に現れる。右目の眼球がそこだけ重くなり熱を持ち始め、時おり鈍痛も伴う。視力も格段に落ちる。これらは軽度の緑内障の原因になっていると自己診断している。私に限らず目の表情でその人の状態の大方は分かるのだ。

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88)核の事情・島の事情

2006年12月04日 | ピースボート世界一周

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 私は今まで「核は軍事利用、原子力は平和利用」と漠然と思っていた。ところが、高橋氏から「核と原子力は同根。僕も10年前までは原子力はわりに安全だと信じていたんです。ところが、全然違うんですよね」と続けた。確かに核と言えば恐ろしげだからこそ、わざわざ平和利用と平和の言葉をつけているのだ。(カメラを向けると集まる子供達。撮ったばかりの画面を見せると大喜びした)

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 彼は長崎、広島の原爆、ビキニ環礁など海洋における核実験や福竜丸、チェリノブイリでの被爆事故などをはじめ、自分が出合った被爆者の方々たちとの話を交えて話した。いま世界には原発が200強あって、そのうちの2割強の53基が小さくてしかも地震大国である島国の日本に集中しているという。世界一危険な原発が静岡の浜岡にあり、国は安全だと言っているが勿論その保証はない。(マオヒ文化を残す山間から流れ出た水は川をなし海に注ぐ)

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 フランス領下にありヒタチの「核の賛美」教育の中で育ったガブリエル氏は、スランス留学中に核実験がもたらす人体被害、海洋汚染に気付かされ1人でデモを行ったと話した。'66年から'96年の30年間で193回の核実験が行われたそうだ。'96年以降は本国からの支援金で汚職が蔓延るようになり、Peace_boat_1063 経済的自立なくしては独立はないと今はNPOで活動をしている。’04年の選挙では独立賛成派の1人が当選できたと笑顔を見せた。(タヒチ一周時湧き水の洞窟あり。中で村人が泳いでいたが手に触れる水は冷たかった)

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 フィジーのペニー女史は演劇活動を通して、女性の権利や職業選択の自由、受刑者の健全な社会復帰運動をやっており、「南の楽園フィジー」のもう一つの顔を見て欲しいと言った。Peace_boat_1177 大学で海洋資源のマネージメントをしているジョエリ氏は「僕にとって海は全て。海は生命の源」といい海洋資源の現状や問題点について地域、国、世界レベルで検討すべきだと主張した。グローバル化が進んでいる現在、一国の理屈だけでは通らないことを最近の漁獲量制限は如実に私達に突きつけている。問題は魚だけではなかろう。(フィジーの開け放たれ民家。裏庭で婦人達は土を足で捏ね、手で灰皿を作り、火の中に放り込んで焼き上げ「土産にね」と私達に渡してくれた)

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87)たった一つの小学校

2006年12月01日 | ピースボート世界一周

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 説明会では以下のような説明を受けた。イースター島は歴史的にはスペイン、ペルー今はチリの支配下にあり人種的には様々で、文化的にはポリネシアとラテンの融合が見られる。街には公共の交通機関はない。陽射しが強いので日除対策とスコールもありうるので雨具の用意を。動植物検疫の規制で船から野菜、果物、食肉は持ち出せない。物価は高い。モアイには触らない。(小学校の入り口) 

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 先生達は「島を訪れる観光客はたくさんいても、学校に来てくれる日本人はいなかった」と、学校を挙げて歓迎してくれた。そこでは小学生から中、高生クラスのダンスが披露されたが、南米、南太平洋諸島を通して似ていたのは男性は力強く、女性は腰を強く振って踊るスペイン風のダンスだった。(ダンスを踊ってくれた中学生)

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 子供達との交流というので小さな土産を用意していたのだが、あやとりは現地の伝統的な遊びなのか小学生が「あやとり」をしながら踊っていた。折り紙、紙風船、習字には痛く興味を示した。恥ずかしがりやなのか反応は今一つといった感もあった。(女の子が手にしているのはあや取りの糸)

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 その後モアイを製造した丘陵に行った。大小色々。完成品や未完成品、傾いだもの、倒れたものや埋まったものがアッチにもコッチにもあり、1つ1つを現地の人が解説し、通訳が私達に伝えた。時の権力者が権力誇示のため次々と作らせたらしいが、ここで製造されたものをどうやって運搬したのか。しかも全島のアチコチに。モアイの下に樹木を敷いて引っ張り転がした。そのため樹木がなくなったという説が有力のようだった。(この大きさのモアイがゴロゴロと言っていいほど立っていた。眼下は太平洋)

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 もう一つ面白かったのは、この島だけではないが島では土産物屋が客が移動する方へ後追いで移動することだった。注意深く観察すると前どこかで見た顔とソチコチで出会うという恰好だった。(聳え立つモアイ像。赤シャツの青年は日秘混血でスペイン語の通訳。日本語の方が怪しかった)

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