新鹿山荘控帳

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「伊能忠敬篠山領測量の道」石碑見つける

2020-01-17 18:02:14 | ウオーキング
先日の篠山城見学の帰りです。何かの武家づくりのような建物の前に立派な御影石の石碑が立っていました。何気なく刻まれた文字を読んでみますと「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれているではありませんか。測量の世界に足を踏み入れていた私としては見逃すわけにはまいりません、即撮影しました。そして駐車場に向かっている知人を追いかけたのであります。
とりあえず石碑をご覧ください。

左右の面に説明が刻まれていたのでそれもとりあえず撮影しました。
右側。字が小さくなったので書き起こします。

 文化十一年(千八百十四)二月五日曇、伊能忠敬測量隊
十名は、百三十一人の労役村民を従えて笹山市中西町
西町口木戸番所、魚屋町、二階町、右大手門、青山下野守
居城まで測量、同町内測所前に㊁印杭を打止、宿止、 (刻印された通り改行)
左側。

六日曇、早朝より東岡屋村に向出発、十日午後、笹山城下
二階町に着、止宿は同前、夜晴れ、天体観測。
十一日曇、早朝より五日に打止の㊁印杭より始め呉服町、
立町、河原町、京口番所、大芋川の京橋二十間を渡る

です。ひょっとすると表面裏側にも解説が刻まれていたかもしれませんが、先に歩いていく知人を追いかけてしまいました。
色々調べてみますと、同年2月3日から12日まで滞在したらしいです。
関係記事によりますと、地元の大庄屋に残された記録から刻まれたらしく合計で同区域に12基の標柱が地元有志によって建てられたそうです。
なお、1805年から14年にわたって、伊能忠敬は兵庫県丹波、但馬、摂津、播磨、淡路の五国を測量したそうです。
131名の労役の村民を出さなければならなかったのは、幕府直営の事業だからでしょうが、迎える各藩(特に小名の小藩)の気苦労も並大抵ではなかったでしょう。
伊能忠敬の功績ばかり伝えられますが、各藩の労役の陰にはドラマでもあったような気がするのですが。例えば「お茶壷行列」なんかみたいに?

これで一連の丹波篠山市関連の小旅行の報告を終わります。ありがとうございました。






















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