「装飾アイテム」とカナ文字を入れるといくらか上等に聞こえ、「飾りもの」と言ったのではチャチに聞こえます。
「飾り」には「お」をつけても質は上がりません。
「飾り」は、数を見せたがる場合と、質を見せたがる場合があります。
「飾り」は自慢のための道具でもあって、その自慢にも数の場合と質の場合があります。
「飾り」がモノでない場合もあります。
「資格」もその一種とされることがありそうです。
職業にかかわる資格を、百を超えるほど持っている人の話がドラマに出てきますが、そのうち実際の仕事に役立つのは、多くても数%でしょう。あとは装飾です。人間は装飾動物でもあるようです。
鳥や虫には、体の外側に自製の飾りを持っているものがたくさんあります。
人間の体の外側は、醜いほうが多く、一つひとつをじっと見ると、いっそう醜さが目につきます。
人間が装飾をいろいろ考え出したのも、体の醜さを隠そうということだったのでしょう。
体の醜さは装飾で隠せることもありますが、心の醜さへの装飾は、逆効果になることが多いものです。
人間の行為は、同じことをしていても、装飾でない場合と装飾にしかならない場合があるのがまた面白いところです。
宣言受験という装飾法があります。
ある資格を得るために必要な「受験」という行為が、それを「準備中である」と宣言すると、とたんに装飾性を帯びることがあります。
司法試験などはその例で、何度落ちても頑張っている姿を見せると、見せようと思ったときに装飾に変性します。
見えなければ装飾にならず、見せると装飾にはなっても装飾性の価値が下がるという、パラドキシカルな性格が、ときにはまた魅力の助けになるという、装飾とはなんともややこしいもののようです。