・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

天狼よ笑い給え

2013年06月14日 | つぶやきの壺焼

笑顔は幸せを呼ぶ。
何もわからないはずの赤ちゃんが笑うと、虫笑いと呼んでも親たちは喜ぶ。

子供たちの笑顔は、観光客を安心させる。
子供たちの笑顔を喜ぶ観光客の様子で、迎え入れる人々も安心する。

苦虫でも笑えば、笑ってくれたと思い、心が和らぐ。

そろそろ天の狼も、笑顔を見せて欲しい。

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恥ずかしいこととは

2013年06月13日 | つぶやきの壺焼

「混乱を招いたことをおわびします」
これは、NPB加藤良三コミッショナーの、飛び過ぎボール問題記者会見の言葉である。

ラジオ報道は、聞かせたい部分だけを音声にして送り出すので、前後の言葉がわからない。
顔も姿勢もわからない。
これだけを聞かされると、国際感覚豊かな元駐米大使の言葉がこれだけなのかと思ってしまう。

誰かが仕掛けて、みな知らん顔をしていた、知らぬはXXばかりなりであったかもしれない。

これを恥ずかしいことと思っている人が、NPBはじめ野球関係者にどれくらいいるだろうか。
勤勉誠実の国民性評価に瑕のつくことは恥ずかしくないことだろうか。
直接当座の経済的損失がなければ、不利益なことをしたとも感じないのだろうか。

いま、「恥ずかしい」とは、相対的な競争感覚らしい。
他に比べて劣勢でなければ恥ずかしいとは思わない。
どこかの国のずうずうしさに比べれば、飛びすぎるボールを作ってしまって黙って使っていたぐらいのことは、どうということはないのかもしれない。

いまのボールが、定められた基準の範囲内で作られたとするなら、その前に使っていたボールの作り方が下手だったのではないか。
何年か前の、統一球導入という、みんなお揃い感覚がむしろおかしかったのではないか。
そこに気付かず、ただ同じようにとベタベタしていたことのほうが恥ずかしいとさえ思うのだが、どうだろうか。

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いきさつという言葉

2013年06月12日 | つぶやきの壺焼

あるものごとが目の前の状態になってしまったわけを「それにはこういういきさつがありまして」と説明する決まり文句がよく使われていました。
ちかごろは、「いきさつ」という言葉が、下世話の言い訳のように聞こえるのを嫌ってか、少しあらたまった場では「こういう経緯であります」と表現されます。

今の国語辞典には「いきさつ」にも「けいい」にも、その言葉にあたる漢字は「経緯」と書かれています。

この漢字を使って書いた場合、多くは「けいい」と読まれ、「いきさつ」と読む人は少ないようです。

たしかに「いきさつ」のほうが言葉が柔らかくて感じがよさそうなのに、「けいい」というどこか四角張った言葉のほうが勢力が強くなっています。

あるFAQに「経緯」を「いきさつ」と読まない理由が知りたいという難問が現れました。
これについて、私なりの珍解をご披露します。

困ったときの神頼みではなく、詰まったときの辞書頼みで、図書館に行き国語辞書の棚からなるべく厚手の辞書を順に引きずり出して調べてみました。

まず、「いきさつ」という言葉ですが、これは「いきさた(行沙汰)」のなまりではないかという説が「大言海」にあります。
大言海は、大槻文彦が明治期に編纂した日本初の近代的国語辞典「言海」の改訂増補版です。
その大言海(1979年4月 新編5刷)によりますと、「いきさつ」の漢字は「推移」となっています。
推移は、ものごとのうつりかわりです。

いまの辞書がいきさつの漢字として載せている「経緯」には、ものごとのたてよこに入り組んだ事情という意味が強く感じられます。
「推移」の意味には「とき」が強くかかわり、経緯の意味には「ありさま」が強くかかわっている気がします。
次元の違う二つの漢字熟語を並べてみますと、「いきさつ」と読ませるには言葉の性格からして「推移」のほうが合っており、「経緯」はやや感覚のずれた当て字のようにも思えるのです。
国語の専門家がお考えになって編纂した辞書ですから、それが誤りであるとは言えませんが、当て読みは真正日本語として堂々とは使いにくく、経緯は「けいい」とそのまま音読する習慣が根付いてしまったのではないかと推測しているところであります。

以上、「経緯」を「いきさつ」と読まない理由が知りたいという難問に、答になるかどうか疑念はありますが、話し言葉の耳に入る機会が少なくなり、書き言葉の音読が優勢になったということと、やや無理な当て読みが「いきさつ」という言葉まで遠ざけてしまったのではないかというのが私の結論であります。
いかがでしょうか。

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平均というマジック

2013年06月11日 | つぶやきの壺焼

核燃料から放出される放射線の全てを人間が認識しているとは、誰も思っていないでしょう。
と思ってしまうのは、人間の認識が全てに行き届いていると信じてしまうということなのですが、こういうのを何矛盾と呼ぶのでしょうか。

どうにも手がつけられなくなって早く片付けたいからと、核燃料の取り出しを前倒しするような工程表の書き換え案が公表されたそうです。
表を書き換えてみれば、これまで考えてなかったよい知恵が生まれるというのでしょうか。

人間はいろいろな測定器を作って数値で捉える技を身につけてきました。
しかし、その測定は、人間の都合に合わせえて活用できる値を捉えるためのもので、都合の悪いわかってしまっては困ることは測定されません。
計れるものだけを計った、部分のものでしかないデータをベタに均し、そのうえ、あるときに大量な測定結果が出ても、年間換算などとまたベタに均して、これならまだ大丈夫と、安心材料に使えば、都合よくデータを活用できるわけです。

正常な状態でさえ慎重な扱いを要する核燃料が、溶けてしまって直接観察することもできなくなっている実物からは、知られていなかった放射線が出ているかもしれません。
福島の現場では、それと戦わなければならないのです。
そこでは都合の悪いことを測定し、見つけ出していかなければなりません。

早く取り出せば、取り出したものの始末を早くしなければなりません。
触れば触るだけ問題の増えてくるものを、なぜ早くかき回したがるのでしょうか。
ものごとはかき回せば収まっていくという平均マジックで、頭の働きがかき回されているのでしょうか。

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燃料とは大量に燃やしてしまうもの

2013年06月10日 | つぶやきの壺焼

とうもろこしから燃料をつくろうと号令がかかり、大きな畑の作物を変えた話がいつかあった。
その後どうなっているのだろう。
エタノール蒸留には天然ガスなど大量のエネルギーを使わなければならないはずなのだが。
そんなぐるぐる回りは、回るたびにエネルギーを消費する。

人間が人間らしい活動をするにはどうしても必要だということになってしまった膨大なエネルギー消費習慣は、ブレーキでも逆回転でも、させるにはまたエネルギーが要る。

代替エネルギーなどと名前をつけても、それですべてがまかなえるものではないことはわかりきっている。
しかし、それで一挙に利得を得られる人は、とうもろこしでもなんでも作って売るだけでよいので、エネルギー問題にどう寄与するかなど心配はしていない。
バイオ燃料の生産が普及すれば、世界の石油価格が農産物の事実上の最低支持価格になるという、うまい仕掛けによって、誰かが大いに儲け、誰かが酷い目にあうというだけのことに違いない。


こういうものもエネルギー源になる、燃料になるという話は、諸所方々に生まれる。
風だの海だのの力は、いくら偉大であっても、そんなことから得られるエネルギーなどたかが知れている。
膨大な量を集め使えるようにするには、そのためにまた形を変えたエネルギーが必要なのである。

何かを燃やして熱を得られれば、それが燃料にできると思ったら大間違いで、燃料の条件は、「できる」だけではなく「なる」ことが必要なのだ。
燃料に「なる」には「量」がなければならない。

爪に火をともすという貧困のたとえどおり、チビチビ何かやってもエネルギー源としては用をなさないのである。

ミドリムシによるバイオ燃料を研究しているところがあると聞いた。
http://p.tl/8jzw

油っ気の多い虫を培養して、石炭と同程度の体内油脂燃焼力を生かそうというのだが、バイクか耕運機を動かす程度のものはとれても、それでは燃料に「なる」の条件を満たすことはできず「できる」止まりでしかない。
研究機関は「残る課題は安定的かつ大量に生産すること」と説明しているそうだが、燃料としての課題は、安定大量が中心課題ではないのか。

巷の趣味科学者が手がけるようなことに、国立の大学が共同で研究する。
して悪いとは言わない。
しかし、どこかで何かがずれているような気がするのだが、どうだろうか。

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箸の形を変えるといわれたら

2013年06月09日 | つぶやきの壺焼

みなさんは箸の形を急に変えるといわれたらどうお思いになるでしょうか。

毎日の生活に欠かせないもの、それがあることすら忘れているように何も考えずに使っているもの、箸はそういうものです。

民法という法律があります。
人々の日本での日常生活を支える基本的な決めごとです。
いま、その法律には悪いところも欠陥も、何もありません。

それを変えようという動きがあるそうです。

理由は、アメリカの法律と似ていないから改めなければならないという、ある学者先生の考えだけのようなのです。

アメリカの法律によると、契約書や取扱説明書に「動物を乾かす目的で使用しないで下さい」と書いてなければ、電子レンジに猫を入れて乾かそうとして死んでしまった場合、メーカーが責任を取らされるそうです。
笑い話の扱いをまじめに法律にしまったようなものと、なぜ似ていなければならないのか、考えられる理由は誰かさんの都合でしかありません。
http://p.tl/uttw

法務省では、パブリックコメントと称する意見集めを4月16日から始め、この6月17日には締め切られるそうです。
http://p.tl/Cx6B

理由のない提案に反対理由を見つけるのは難事ですが、どこも壊れていないものを今が取替え時ですなどと訪問販売がやってきたらどうしますか。
http://p.tl/6sQb
「その用はない」とはっきり言わなければ、ずるずると入り込んでくるでしょう。
いくら偉い先生の紹介でも、要らないものは無用のものなのです。

「やめてくれ」だけでは意見にならないのでしょうか、お役人様。

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新しい味は舌を肥えさせるか

2013年06月08日 | つぶやきの壺焼

野菜は収穫期で味が変わるという。
若い野菜には新鮮さがあると言われれば確かにそうだが、新鮮さはうまみの要素であってもすべてではないだろう。
新鮮野菜は美味い野菜、若い野菜はもっと美味い野菜という、これはひらめきが先走った味覚ではないのか。

近頃、ファストフードやスイーツの販売促進のために、これまでになかった新しい組み合わせの食べ物が数多く現れる。
新商品には見えても、組み合わせや見た目が変わっているだけで、とくに工夫の跡は見られない。
これまでの食べ方にこだわらないというだけのものである。
舌が驚いたり違和感を覚えたりすることを、新しい味の発見と思わせようというもので、それは調理、料理ではなく、食品加工の新手法である。

新しいと呼ばれるこの味たちは、舌を肥えさせるどころか麻痺させようとしている。
舌の麻痺した人々なら、目まぐるしさや騒々しさで引きつけることができる。
とにかく買ってもらえそう、それが第一の考え。
続けて買ってもらえなければ、また新しい手を考えればよい。
味は目と耳でとみなさんが言ってくれ、新しければTVが応援してくれるから。

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食べ物の味

2013年06月07日 | つぶやきの壺焼

料理に求められるのは好みであって、技ではないと聞いた。

土地の味がだいじなのだという。

スペインのサン・セバスチャンにいるファン・マリ・アルサックの言である。
⇒ http://p.tl/kgJC

味を楽しむ人に、店を支える「とき」と「かね」と「こころ」があってこそ、それが言えるのだろう。

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真直ぐに逆手の効きめが出る

2013年06月06日 | つぶやきの壺焼

横にそれない本当に真直ぐな球は、投げるのが難しいという。
手の形のみな違う人間が投げるのだから、それがあたりまえなのだろう。

ゴール直前からのPKをど真ん中に決めた本田、曲げてくるのを読みすぎて体をかわす形になってしまったオーストラリアの強ゴールキーパー。
おかげで1:1引き分けとなり、ワールドカップ出場権を獲得。


要人の発言でも、下手な言い回しがあだになり、後の弁明の機会にも弁解が自分の発言の矛盾を際立たせるという、困った結果になってしまうこともある。

べらべらしゃべったところで、感覚取材型の記者には、どこかのひと言しか拾われない。
いっそ電波に乗せられない言葉、書けない言葉でズバッと語れば、騒ぎたてられることもなさそうである。

ひねくり曲がった世の中では、真直ぐが逆手のように使え、強い効きめが顕れるらしい。

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科学的合理性と宗教

2013年06月05日 | つぶやきの壺焼

キャラクターというわけのわからないものに人の心が集まると、昨日書いた。
説明できない、わからないところが人をひきつけるのだろう。

やつがれのような面倒がり屋の書いたものは多分読みにくくわからないところだらけだろうと思う。
そこで「読んでも見てもすぐわかっては、読み物としての効果がない」と言っておけばあまり懇切丁寧な文章を書かずに済むということになる。
ずる賢さではなく、ずるいい加減さが、こういうちょっと見だけで用の足りるブログには合っていそうに思う。


いい加減さ、それには神秘性がない。
前に、「科学的合理性は宗教と矛盾するか」という借り物の命題を投げたとき、「合理性を尊ぶものが科学とすれば神秘性を尊ぶものが宗教といえるのではないか」という返事をいただいた。
土俵の話のあのときから頭のどこかに引っかかっていた「神秘性を尊ぶ」ということを、また思い出してしまった。


神秘は尊ぶものだろうか。
神秘なできごとに感動しているとき、神秘をありがたがっているだろうか。
そのとき尊んでいるのは、神秘ではなく、神秘を「信ずること」ではないかと思う。
自分がそれを半ば信じ、加えて他の何かにそれを信じろと呼びかけられている、自力感覚と他力感覚の共存のような状態にあるとき、信ずることを無意識に尊んでいるのではないかと思う。
そうなれば、神秘も科学的感覚も同じではないのか。

ならばこれは科学のこと、こちらは宗教のことなどと、別扱いできるものではなく、「科学的合理性は宗教と矛盾するものではない」という答になりそうな気がするのだが、どうだろうか。

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同じであることの価値

2013年06月04日 | つぶやきの壺焼

キャラクターとは、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲームなどのフィクションに登場する人物や動物など、あるいはそれら登場人物の性格や性質のこと。
Wikipedia にはこういう説明が最初にある。

この説明をうしろから読んでみると、元来の意味であった「特徴」や「性質」に、「登場人物の」という限定条件がついている。
その前にはまた、「あるいは」というつながり言葉があって、本来の意味は、ここでついでのグループに追いやられている。
総称の主看板を許されているのは、つくりものの世界に現れるなにがしかの特徴を持った生きものらしいもの、ということになっている。

キャラクターと呼ばれるものは、みなどこかおかしい。
言葉で説明しにくい違いが少しずつあって、見分けるのは難しい。
似ているのは、普通でない何かで、これも言葉にはならず、感覚でしかつかまえられない。

特徴があるようでなく、醜いけれども憎さを感じない。
近寄っても安全で付き合っても安心のような姿態をそなえている。

いちばんの特質は、同じものが大勢の人からだいじにされるというところである。
それをだいじに思っていれば、その人同士がどこかでつながっていられる。
同じであるということ以外には、別段何の価値もない。

どこがいいのかと聞けば「かわいい」としか返事はないだろう。
すっきりわからなくてもよいので、わかってしまっては、多分かわいくなくなるのだろう。

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定義という診断材料:2

2013年06月03日 | つぶやきの壺焼

法律ができると定義も一緒に生まれる。
定義は新しい考えではない。
もともとあった概念を、どこにどういう範囲で当てはめるかということで定義が成り立つ。
定義とは、枠あるいは仕切りのようなものに過ぎないとも言えそうである。

枠が設けられると、そこに必ず現れるものがある。
決められた領域の端のほうにうろうろしていて、すきあらばはみ出そうという者たちである。
このはみ出しはふたとおり、違反か例外か、どちらかになる。

違反は「だめ」で片付くからよいのだが、例外のほうは厄介である。
ずっこけたことをしでかしていても、例外だと認めさせてしまえば、それからは大威張りで悪事でも何でもやってのける。
法律に違反しなければ罰せられない、罰せられないことは悪事ではないという逆流論法の旗が振られる。
いわゆる法治国家の弱点というか欠点というか、そこが泣き所でもある。

裁きの対象になるようなことをしでかす者がいなければ、法律はいらない。
新しい法律が必要になるというのは、それだけおかしな行為をする者が増えているということで、法律制定件数の増加は倫理度の低下と相関があり、自慢になることではない。
一緒に生まれてくる定義の質が、法律の質の診断材料になることは昨日書いた。

こういう自慢にならないことを仕事の種にしている人が集まって、年中わいわいがやがややっているというのは、地球の外から見ると、ずいぶんおかしな具合にしか思えないのではないだろうか。

はみ出し、ずっこけの例外が定義から生まれるのなら、定義をなくしてしまえば、例外は認めない、すべからくきちんとしなさいということになるのではないか。

いっそ、ことごとにわかりにくい法律を作るのはやめにして、集団に生きる人間の本道に必要なことだけを決めておけばよい。
知りませんでしたなどと言えないような、わかりやすいことだけが示されていればよい。
そうすれば、人々の生活とかかわりのないいざこざごとに、あたら叡智を浪費することもなく、どうしたら本当の幸せが得られるかなどに、もっと智恵が回るようになると思うのだがどうだろうか。

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定義という診断材料

2013年06月02日 | つぶやきの壺焼

いじめ防止対策推進法という法律が作られようとしている。
法律には、定義が必ず示されるが、定義を見ればその法律がどういうものか、およその見当がつく。

このいじめ防止対策推進法案のいちばんの問題点は、こういう法律がなければいじめを防げないという、今の学校のというよりも、人間の浅ましさである。
いじめは人が集まったところには必ず生まれる現象だろう。
嘗てのいじめの多くは、ある種のゲーム性をもっていて、苦しみよりも笑いの要素のほうが勝っていた。
それが原因で子供が屋上から飛び降りるようなことはなかった。

人々が人間らしさを失ってしまい、大人が電車に乗ってもスマホゲームに縛られ続けられる今の世では、浅ましいという言葉さえどういうことかと定義がいるのかもしれない。
グタイテキ信奉の教義によって、動画で示されなければ何もわかろうとしないように脳機能が改造されてしまったのが悲しい。

命も、実際に落とした人が目の前に横たわらなければ何を意味するかわからない、そんな人々を相手に、いじめがこれ以上増えないよう法律で何とかというのだから、ことはややこしい。

法案では、いじめとは「対象となった児童らが心身の苦痛を感じているもの」という、えらく間抜けな定義を持ち出しているそうだが、もともと悪いことを裁くものさしとしての法律に、正常な本性を目覚めさせる役目を負わせられるはずもなければ、こんな定義しか思いつかないだろう。

定義するならこうでなければという、まともな論が展開されているサイトもあるのでご紹介しよう。
 ⇒ http://p.tl/kNga

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カナ文字の魅力

2013年06月01日 | つぶやきの壺焼

カナ文字が親しまれやすいのは、日本固有の文字であるからだろう。
英語が親しまれやすいのは、いつの間にか世界を席巻してしまう魅力か魔力があったからで、発音を変形した英語に似た言葉がカナ文字になって親しまれやすいのは、カナで書き表しやすいからだろう。

英語風のカタカナ文字は、言葉の響きと文字の形とが巧い具合に融合している。
カタカナ文字は、漢字との結合もしやすく、巧い具合に新しい言葉ができあがる。

この融合と結合を利用すると、異質のものを都合よく変えて組み合わせることができる。

先日惑わされたクリニックというカナ文字言葉も、素敵な先生が優しい笑顔で待っていてくれるところを想像してしまう。
言っては悪いが、診療所という僻地の偏屈医者がいそうな場所の呼び名とは大違いである。


「情報リテラシー」という言葉に、こんな説明があった。
情報リテラシー(information literacy)とは、情報 (information)と識字 (literacy) を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。

説明は短く端的なほど理解しやすい。
「自己の目的に適合するように」で、情報リテラシーという言葉の本質を見事に言い表している。

「文字どおり正確な」という literal の元来の意味は、巧みな融合と結合によって、「自己の目的に適合するように」と変容され、「情報活用力」、「情報活用能力」、つまり「情報を使いこなす力」に化けている。

せめて情報と呼ばれることがらの、実態を知る力と評価する力ぐらいの水準でいてほしいこのこと言葉も、「自己の目的に適合するように」というのであれば、情報やデータを取り扱うためにコンピューターやネットワークを操ることのできる知識や能力という、はるかに低位なことがらの表現にもなってしまう。


情報リテラシーという呼び名は、用法上どこかに飛んでしまった literal の意味が、カナの部分のあることによって、かすかに残っているような錯覚を覚えるところが不可思議でもあり怪しい魅力にもなっている気がする。

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