・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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科学的合理性と宗教

2013年06月05日 | つぶやきの壺焼

キャラクターというわけのわからないものに人の心が集まると、昨日書いた。
説明できない、わからないところが人をひきつけるのだろう。

やつがれのような面倒がり屋の書いたものは多分読みにくくわからないところだらけだろうと思う。
そこで「読んでも見てもすぐわかっては、読み物としての効果がない」と言っておけばあまり懇切丁寧な文章を書かずに済むということになる。
ずる賢さではなく、ずるいい加減さが、こういうちょっと見だけで用の足りるブログには合っていそうに思う。


いい加減さ、それには神秘性がない。
前に、「科学的合理性は宗教と矛盾するか」という借り物の命題を投げたとき、「合理性を尊ぶものが科学とすれば神秘性を尊ぶものが宗教といえるのではないか」という返事をいただいた。
土俵の話のあのときから頭のどこかに引っかかっていた「神秘性を尊ぶ」ということを、また思い出してしまった。


神秘は尊ぶものだろうか。
神秘なできごとに感動しているとき、神秘をありがたがっているだろうか。
そのとき尊んでいるのは、神秘ではなく、神秘を「信ずること」ではないかと思う。
自分がそれを半ば信じ、加えて他の何かにそれを信じろと呼びかけられている、自力感覚と他力感覚の共存のような状態にあるとき、信ずることを無意識に尊んでいるのではないかと思う。
そうなれば、神秘も科学的感覚も同じではないのか。

ならばこれは科学のこと、こちらは宗教のことなどと、別扱いできるものではなく、「科学的合理性は宗教と矛盾するものではない」という答になりそうな気がするのだが、どうだろうか。

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