・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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定義という診断材料

2013年06月02日 | つぶやきの壺焼

いじめ防止対策推進法という法律が作られようとしている。
法律には、定義が必ず示されるが、定義を見ればその法律がどういうものか、およその見当がつく。

このいじめ防止対策推進法案のいちばんの問題点は、こういう法律がなければいじめを防げないという、今の学校のというよりも、人間の浅ましさである。
いじめは人が集まったところには必ず生まれる現象だろう。
嘗てのいじめの多くは、ある種のゲーム性をもっていて、苦しみよりも笑いの要素のほうが勝っていた。
それが原因で子供が屋上から飛び降りるようなことはなかった。

人々が人間らしさを失ってしまい、大人が電車に乗ってもスマホゲームに縛られ続けられる今の世では、浅ましいという言葉さえどういうことかと定義がいるのかもしれない。
グタイテキ信奉の教義によって、動画で示されなければ何もわかろうとしないように脳機能が改造されてしまったのが悲しい。

命も、実際に落とした人が目の前に横たわらなければ何を意味するかわからない、そんな人々を相手に、いじめがこれ以上増えないよう法律で何とかというのだから、ことはややこしい。

法案では、いじめとは「対象となった児童らが心身の苦痛を感じているもの」という、えらく間抜けな定義を持ち出しているそうだが、もともと悪いことを裁くものさしとしての法律に、正常な本性を目覚めさせる役目を負わせられるはずもなければ、こんな定義しか思いつかないだろう。

定義するならこうでなければという、まともな論が展開されているサイトもあるのでご紹介しよう。
 ⇒ http://p.tl/kNga

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