・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

廃炉が空虚な事業になっていないか

2014年03月12日 | つぶやきの壺焼

気楽な籠妬軟如が、簡単に即全廃などと叫び回る材料としか、今は働きのなくなっているもの、言わずと知れた原子力発電設備です。
あの膨大な設備群に、もう少し気の利いた働きをさせる方法はないものでしょうか。

クルマや家電の新型を売るためには、リサイクル法という便利な法律まで作る智恵が、原発に向かって働かないのはなぜでしょう。

今のやり方では、廃止したところで、すぐ安心というわけではなく、廃炉という気の遠くなるような工程を経なければ、その場所を空地にしておくことさえできません。
我慢比べのような現場を抱える廃炉工程に、重層請負の収益源、失業率低下対策ということでしか公益性がないとすれば、これほど空虚な事業はありません。
廃炉にかかる費用で、今の設備を一歩すすんだものに変身させることを、原子力の権威者先生方は考えていないのでしょうか。

やっぱり壊れたでしょう、やはり危ないのがわかったでしょうなどと、研究室や講演会場でボソボソ話をしたところで、それだけのことで終わりです。
折角身につけた博識を、次の世代、将来の社会のために役立たせる、革新的な働きをしてこそ、科学者として歴史に名を刻むことができると思うのですが、いかがでしょうか。

廃炉でなく改炉という言葉に変えられるよう、技術再革新を望んでいます。

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読まれなければ毒にも薬にもならない

2014年03月11日 | つぶやきの壺焼

論文が読まれなくなっているそうです。

「研究のカプセル化」と「読者のいない論文」 中原淳
 ⇒ http://jump.cx/ron

論文は発表し保存されるものでした。
それが山ほど積まれても、人間の智恵の足しにはなりません。
論文に書かれたことは、その人個人の問題で、それを世に取り上げて何とかしようという性格のものではなくなっていたのでした。
「わたしの問題」が、「みんなの問題」にほとんどならずじまいなのです。

たまに関心をもたれるものは、それから売りものを作れる、商売のタネになりそうなことだけです。
売りものは有形無形どちらか、いやどちらでもよいお金を出す人が出て来そうならよいのです。
人々の関心が高まっていきそうか、そうでないか、こだわるのは中身ではなくどうなりそうかという見込みだけ、微分性偏重です。

いろいろな論文の社会に役立ちそうなところを組み合わせられるよう重ね上げていく積分性はとうに喪失されました。

読まれなければ、無読ならば、毒にも薬にもなりません。無毒無役です。
論文が読まれないものであれば、よく見ればすぐわかるデータ流用など、研究者の良心の埒外ということになります。
微分性でどんどん狭まった研究者の視野では、無読は無毒と多寡をくくっていても、そうではなく社会には害毒になることに気付くことがないのです。

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いぬのきもちは歩きたいということ

2014年03月10日 | つぶやきの壺焼

犬を放しておくと自主散歩に出かけ、その先で迷ってしまうという話をラジオで聞きました。
自主散歩という言い方に、奇妙な引っ掛かりを覚えました。
自分の歩いてきた道がわからなくなるという犬は、半分犬ではなくなってしまっているのではないかと思ったからです。
犬は、自分で歩き回るのが本性ではないでしょうか。同じところにイヌからそういう名前がついたのではないかと想像しています。
自主的行動で本性を失ったことを自覚する、これは面白い現象です。

猫はいつもじっと寝ているからネコであるのに、いまでは猫は自由に歩き回り、犬は縛り付けるか連れ歩くかが飼い主の務めになり、犬と猫のすることが逆転してしまっています。

「いぬのきもち」という雑誌や公式サイトがあります。
人間は、人間同士のきもちも十分わからず、他国、他民族のしていることにやたら難癖を付けたがるのに、いぬのきもちをこうだろうなどと言ったり書いたりするのを見て、犬はどう思っているのでしょうか。

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いつでも買えるという心配ごと

2014年03月09日 | つぶやきの壺焼

スーパーやコンビニのパンの棚が空になるときが、異常天候と一緒にやってきます。
天気予報がわかりやすくなったので、雨風や雪より先に買いだめばあさんが襲来します。
足腰が弱くなれば、閉ざされてしばらくの間は何とか食いつながないと雨が乾くより先に命が渇いてしまいますから、これだけは自衛手段としてきっちりやっておかなければということなのでしょう。

「人はパンのみにて生くるにあらず」
続けて「 ソーセージやハムもなければならぬ」という戯言もありますが、パンを世界中の食べものにしたのはパン屋さんの力です。
パン屋さんといっても、焼いて並べて売るだけではありません。
パンの普及にこれ努めたパン屋さんもいます。

パンの普及のおかげで、世界中の多くの人は、食べものは自分で作らなくても、いつでも買えるものと思うようになりました。
食べものを買うだけで済ませる習慣は、食べることには自分の手を動かさないと決めてしまった人も増えてきました。
食べものを買うためにはお金が要ります。お金を稼ぐには働かなければなりません。懸命に働いても、食べものを買えばそれで終わりということもあります。
自分で食べるものを作ることは知っていても、できることでも、それはしないと決めてしまったので、手は出せません。

食べものを作っているうちは、そのどこかに愉しみを感じていましたが、お金を稼ぐための仕事には、決められたことを夢中になってやる、それだけの毎日です。
どこかが変だとは、考えてみる閑もありません。

閑がなくても、天気予報だけは見ておかなければなりません。
パン屋さんの棚がいつ空になるか、それが心配ですから。

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上等ハクライという故語があった

2014年03月08日 | つぶやきの壺焼

この言葉は死語ですかという質問が、FAQにときどき現れます。
この間も、「流行歌」は死語ですかという問いが出ていました。
その幾日か後に、流行歌はまだまだ死語ではない証を見つけました。
演歌だけでなく、どんな歌でもうたうのだから流行歌手と呼んで欲しいという大歌手のラジオ放送を聴いたのです。

死語と言ってしまうと、もうこの世では使う人がいない言葉で、そんなことを確かめるすべはありません。
ここはひとつ、むかしなじみの意味を含めて「故語」という言葉を使いたいと思っています。


「上等ハクライ」という故語があります。
こう書いてみて、死語より故語という念がいっそう強くなりました。
故語なら「あります」と言えるのです。死語に「あります」では矛盾を免れません。

外からやってきたものは上等と思ってしまう人たちへの皮肉を込めた「上等ハクライ」は、どこか「ブランド指向」と似たところがあります。

教育機関等を対象とした映像編集制作、配信サービス、学習サポートをしてくれる「光Webスクール」というサービスがあります。
この名前を見たとき、なぜか「上等ハクライ」の故語を思い出したのです。

通信先端技術の光と、Webスクールというこれから広がりそうな教育システムをつなげると、いかにも先進的サービスのように聞こえます。
導入の可否検討にも、教育予算獲得にも、プラスの効果を出しそうな名前です。
肝心なのは中身なのですが。
こういう名前に出会うと、Webスクールで、歴史記録の年号簡単検索法などを教えるのだろうかなどと、つい余計なことを考えはじめます。

まあ、午後の紅茶でも飲みながら、古語の好邪を愉しむのも一興でしょう。

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なんだ逆だったのけー

2014年03月07日 | つぶやきの壺焼

出会い系サイトの裏面には、出会えない系サイトがあるそうです。
利用者同士やり取りができないルールの裏面で、サクラと花見客を引き合わせます。
サクラは顔を直接見ない限り男女の区別がつきませんから、花見客はコロッと騙されます。

70も過ぎてから騙されてくやしい花見客は、自分がサクラになってやろうと思いつきます。
サクラとサクラが仲良くなれば八重桜、攻撃対象は恨みのサイトだと意見一致。

体験がものを言い、サイトの皮むき作業がはじまります。
どういう具合になどと、ここで手口の公開はできません。

花見客をばかにしていたサイトオフィサーは、相手が花咲爺になっているのも知らずに逆に騙されます。
ネットのニュースに、「“出会えない系”サイト運営会社社長ら逮捕」の報がパッと咲きひろがります。

そのときから花咲爺の退屈な日々がまた続きます。

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論理は楽しさと背中合わせ

2014年03月06日 | つぶやきの壺焼

人の集まったところで一言も喋らずに押し黙っている、お行儀の良い人がいらっしゃいます。
会議などでは、話題が気に入らなければ終始無言、心も動かさないという手もあります。
しかしそこが、舞台と観客席、あるいは講演・演説の壇上と聴講者集団で成り立つ場であれば、一方の心が動かなければその場の意味がなくなります。
この人の心を動かす雰囲気づくりには、舞台での脇役、壇上で一緒に話を聞いている人の、役割の大きさが、気付かれずにいる場合が案外多いものです。

脇役や壇上を共にする人が、そこで儀礼や理屈を考え始めると、どんな場にも何がしかは必要な楽しさはすっかり消え去り、壇上の人の心が動かず、周りを取り囲む人の心も動かないという錆び付いた雰囲気ができあがります。

論理は楽しさと背中合わせになりやすいものですが、それが同方向になったとき、論理展開はすばらしいものになるはずです。
むずかしいことではありますが、などといっているうちは、やはり背中は後ろ向きなのでしょう。

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原稿は強いものか怖いものか

2014年03月05日 | つぶやきの壺焼

公開国際会議で、同時通訳の人が「ペーパーと違う」と色めき立っていたことがありました。

原稿は厳正なものらしく、そのとおりに発言しないと問題のタネになることがままあるようです。
議会で、質問への回答原稿から目を離すことなく忠実に読み上げる、それが正確な答弁であるとされ、そのことを守っている限り謗られることはありません。
組織内の職としての回答は、応答ではならないのです。

ラジオの天気予報で、途中間違っているとも思えないところで「失礼しました」とアナウンスされることがあります。
言葉の順序が入れ替わり、原稿と違って読み上げると、それはファウルらしいのです。
当たりはずれがあたり前の天気予報で、言葉の順序ぐらい気にしなくてもと思うのですが、原稿と違っていたぞと、後からお小言があるのでしょうか。

さて、このときの「失礼しました」は誰に向かっての言葉だったのでしょう。
ラジオを聞いている人は、意味が変わらなければ、天気予報の言葉順など問題にしないでしょう。
ならばこの「失礼しました」は、原稿作成者へのエチケットの端くれとしか考えられません。
アナウンサーと原稿作成者との関係は、内部事情に過ぎないのになぜ。

そうでした、予報とは、その先に起こることへの想像を、知らせることだったのです。

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国語を話せなかった大統領

2014年03月04日 | つぶやきの壺焼

ウクライナ語を話せなかった人が、ウクライナの大統領であったとき、よいことは起きませんでした。

海の向こうの言葉より、母国語をしっかり身につけさせなければ、義務教育は完了しません。
小学校でいちばんだいじな授業は、国語でしょう。

国語読本のところどころは、何十年経っても忘れません。
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ

いま、三浦海岸駅前のサクラが満開です。

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たくさんの資格を持てば装飾アイテムになる

2014年03月03日 | つぶやきの壺焼

「装飾アイテム」とカナ文字を入れるといくらか上等に聞こえ、「飾りもの」と言ったのではチャチに聞こえます。
「飾り」には「お」をつけても質は上がりません。

「飾り」は、数を見せたがる場合と、質を見せたがる場合があります。
「飾り」は自慢のための道具でもあって、その自慢にも数の場合と質の場合があります。

「飾り」がモノでない場合もあります。
「資格」もその一種とされることがありそうです。
職業にかかわる資格を、百を超えるほど持っている人の話がドラマに出てきますが、そのうち実際の仕事に役立つのは、多くても数%でしょう。あとは装飾です。人間は装飾動物でもあるようです。

鳥や虫には、体の外側に自製の飾りを持っているものがたくさんあります。
人間の体の外側は、醜いほうが多く、一つひとつをじっと見ると、いっそう醜さが目につきます。
人間が装飾をいろいろ考え出したのも、体の醜さを隠そうということだったのでしょう。
体の醜さは装飾で隠せることもありますが、心の醜さへの装飾は、逆効果になることが多いものです。

人間の行為は、同じことをしていても、装飾でない場合と装飾にしかならない場合があるのがまた面白いところです。


宣言受験という装飾法があります。

ある資格を得るために必要な「受験」という行為が、それを「準備中である」と宣言すると、とたんに装飾性を帯びることがあります。
司法試験などはその例で、何度落ちても頑張っている姿を見せると、見せようと思ったときに装飾に変性します。

見えなければ装飾にならず、見せると装飾にはなっても装飾性の価値が下がるという、パラドキシカルな性格が、ときにはまた魅力の助けになるという、装飾とはなんともややこしいもののようです。

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生活習慣が体質になって固まる

2014年03月02日 | つぶやきの壺焼

個人に生活習慣があるように、企業組織にも生活習慣に似た運営習慣があります。
生活習慣病という名前のとおり、習慣は体質づくりに大きく役立っています。
強さを必要としない生活を続けていれば、体は必ず弱くなってきます。

企業の運営習慣も、自力をできるだけ出さずに他力の利用を真っ先に考え続けていれば、体質は必ず弱ります。
世界のS社の衰退など、よくない例はあちこちにあります。

個人の場合にはパタンと倒れるか病がズルズル長引くかの差はあれ、影響はごく近い範囲にしか及びませんが、企業の場合には、親会社の体質劣化はそこの従業員はもとより、子会社、協力会社の存立にかかわり、そこで働く人、その家族にまでと、影響範囲はとてつもなく大きく広がります。


企業運営の悪習慣のひとつに「値切り」というのがあります。
資材購買時の値切り度を経営努力に算定するという、浅知恵の見本のような習慣です。
購買決済責任者は、値切りが行われていれば担当者が努力しているものと認めてしまいます。数字が残って認めさえすればそこで話は終わりなので、値切りの経緯や真偽などは問いません。
悪癖もカビが生えてくると、何でもかでも5%値引きさせようなどと、購買担当部署の管理目標に掲げるアホな行為も平然と行われます。


この4月は、そういう無能な企業には成績を残すよくない機会になります。
消費税の上がった分だけ値引きの対象にしようと、今から考えているかもしれません。
そんな無努力の捏造業績は、運営習慣病となり、めぐりめぐって関連企業全体の、立地地域の、国全体の体質をボロボロと弱くしていきます。

大企業は、不当な支払い制限を自粛するよう、こういう場合こそ経済団体から強烈な呼びかけを期待するところです。
「当然払うべきものを値切ってはいけません」

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しそうとかんじょう どういうかんじ

2014年03月01日 | つぶやきの壺焼

大宅映子がラジオで、オリンピックのアナウンスで金と銀が聞き分けにくかったという話をしていました。
興奮して叫ぶと、聞き取ってもらうのがアナウンサーの仕事ということも忘れてしまうようです。


思想 試走 死相、勘定 環状 感情、かなでは同じ文字でも漢字も感じも違い、それを組み合わせると、また何か違う意味が出てきます。

政治家は思想を問われる仕事です。
思想と勘定、対比も結びつきも考えにくい二つの言葉も、このお方はどうなのかといちいち当てはめてみると、信頼という別の熟語があたまに浮かんできます。

思想とは別次元の勘定も、かたわらでしながら仕事をします。時期が来れば票勘定を始めます。
思想は勘定の対象にはなりにくいものですが、思想は空、勘定第一、選挙の明日からそれしか考えない人もいるようです。
数を勝ち取るのが民主主義などと、意味不明意欲満々な、とぼけたことを平気で言う人もいます。


日本が大統領制でなくてよかったと思うことがあります。
大統領の中には、とかく感情と勘定が働きすぎて、家族とも縁切り、挙句の果ては国外逃亡などという人もいるようなので。

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