生き物を含む、すべての有機体の仕組みは、物質、エネルギー、情報、あるいはこれらの組み合わさったものを、摂取し、処理し、排泄するというシステムを持っております。
つまりはとどまらない交換の連鎖。
種の保存方法は、おおむね体液の交換という直接的な方法を取ります。
身を捨ててこそ浮かばれる。というような行為であります。
交換とは、片手で、拍手はできないようなもの。音の種子は両手にございます。
ここでいう「種子」とは、梵語で表されるもの。
私の解釈では、そのことのもともとの起原を指す。可視、不可視問わずのことであります。
私たちは現実に起こりうることを体系的に理解して、その種を蒔いたり蒔かなかったりいたします。
ただし。起原において蒔かれてしまったものは、作為的な妨げに関わりなく、その仕組みに沿って、交換のシステムが作動し始めます。
体系の起原に気付かなければ、現実を制御できなくなってしまうのです。
その種子を掘り起こし、起原にさかのぼろうとすることが、無意味で徒労であることに気付いたとき、種の起源の聡明、壮大さを思い知らされるのでありましょう。
いたるところ、現実というものの儚さ尊さを想うのでございます。
「現実性は思考の尺度である。それは我々がこの世界で立場を明確にする手段である。現実の時の流れは、我々が理解できるものが何であり、また理解できないものが何でるかを、はっきりと示す。」
-モホリ・ナギ-