当たり前すぎることは、その当たり前においてその肝要を見逃すことは多い。
肉体的精神的な労働というものを通じて生産を行う。
全ての生産物は、労働という前提なしにはあり得ない。
至極当然。
落とし穴は、労働をすれば、生産されるかということであろう。
しかし事実上、労働だけでは何も生み出さない。
石積大工は、石を積むという労働だけで、家という生産物は産まれない。
コメディアンは、冗談を発案しなければならない。
デザイナーは、サイン(記号)の変換を行わなければ成らない。
農夫は、土の声を聞かなければいけない。
労働をおこない、生産する。
その間に横たわる、形容しがたきなにものかが、それはどういうことかを決定する。
得心という生産が行われて初めて、労働はいきいきとした汗の光輝を放つだろう。
当たり前に思う自分自身であれ、権威や権力からであれ、
得心のない、強制された労働から生まれるものは、硬直した画一的な生産物だ。
前提に労働を置くという生産物は、値崩れするのも当然であろう。
よい労働はよい生産を呼び、社会に受け入れられるはずだ。
労働さえすれば、生産されるという単純なことではない時代に僕達は生きている。
労働は誰かに提供するようなしろものではない。提供するのは生産物なのだ。
当たり前で単純なことへの洞察を強めようと思う。
21世紀型の労働と生産の雛形を探そうと思う。
人は一生労働から解放されることは無いだろう。
人は一生生産し続ける。
では、すくなくとも、よりましにしたいではないか。と思うのである。