南無煩悩大菩薩

今日是好日也

労働と生産。

2008-11-22 | 有屋無屋の遍路。

当たり前すぎることは、その当たり前においてその肝要を見逃すことは多い。

肉体的精神的な労働というものを通じて生産を行う。

全ての生産物は、労働という前提なしにはあり得ない。

至極当然。

落とし穴は、労働をすれば、生産されるかということであろう。

しかし事実上、労働だけでは何も生み出さない。

石積大工は、石を積むという労働だけで、家という生産物は産まれない。

コメディアンは、冗談を発案しなければならない。

デザイナーは、サイン(記号)の変換を行わなければ成らない。

農夫は、土の声を聞かなければいけない。


労働をおこない、生産する。

その間に横たわる、形容しがたきなにものかが、それはどういうことかを決定する。

得心という生産が行われて初めて、労働はいきいきとした汗の光輝を放つだろう。



当たり前に思う自分自身であれ、権威や権力からであれ、

得心のない、強制された労働から生まれるものは、硬直した画一的な生産物だ。

前提に労働を置くという生産物は、値崩れするのも当然であろう。


よい労働はよい生産を呼び、社会に受け入れられるはずだ。

労働さえすれば、生産されるという単純なことではない時代に僕達は生きている。

労働は誰かに提供するようなしろものではない。提供するのは生産物なのだ。

当たり前で単純なことへの洞察を強めようと思う。

21世紀型の労働と生産の雛形を探そうと思う。


人は一生労働から解放されることは無いだろう。

人は一生生産し続ける。


では、すくなくとも、よりましにしたいではないか。と思うのである。


コメント
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