高木や低木や地衣類がそれぞれに寄り集まって林をつくり森を作る。
それは、それぞれにおいて、勝ち残ったものたちの独断場である。
幹を枝を伸ばし、葉を至る所に巡らし、あまねく光を我が物とし、土に根を張り、そこにある全てのエネルギーを独占するが如く、新参者を寄せ付けない。
こういうものも権力である。
かってはどの山も禿山であったろう。
そこに数多の種子が根付く。それらは、幾多の激しい生存のせめぎあい、競争淘汰の末に、その林の権力者となったのだ。
一旦出来上がった森林は、時の裁判によって、朽ち果て、光を呼び込み、場所を開け、競争参入の栄養を提供するものが出てくるまでは、変革者たる新参者は、権力に抗う余地はない。
自然の生業も、権力闘争にちかいものがある。
山火事や、山枯れによって、禿山が出現したときこそが、新しい権力構造に変革されるための公平かつ創造的なスタートとなるだろう。
山や林の話だけではない。
多かれ少なかれ、人間ある程度生きていると、私の中にも林があり森と呼べるような内なる権力の木々があり、それが、新しい考えの芽吹きを妨げているようだ。
これではいかん。と思うとき。
先入観、偏見や盲目、恐れといった変革の邪魔をする考え、そのはびこった旧来の内なる観念の自縛を感じ取ることも多いのである。
とってつけたようなことや、継ぎ足し継ぎ足しをしても、健全な森林も考えも産まれまい。
すっからかん、や、つるつるてん、にしてしまうことで、新しい気分になることだけは、間違いない。