お遍路さんの休憩所には、山清水が滾々と湧き出ている。
誰かが発案する。
水車をつくろう。
山持ちのじっちゃん、わしは木を切ってくるよ。
田持ちのばっちゃんは、樋で水を引く。
大工の棟梁は製材して組み立てる。
石工の大将は刻む、南無大師遍照金剛。と。
左官の兄ちゃんが、それを基礎から練りこむ。
そうしてみんなで、お遍路さんへの、オアシスとモニュメントを完成させる。
巡礼者にとりそれは、疲労困憊を癒し、新たなエネルギーを与えてくれるだろう。
そんなふうにして造られたのではなかろうかと思う。
四国の遍路道には、いたるところ休憩所はつくられているが、行政が、予算組みして作ったものとは、明らかに趣が違うのである。
規格化されて、流通に乗った、経済社会の取引の上にうまれた構造物ではないような気がするのである。
そうであれば、
富の移転、兌換、貸借、取引、消費という表の経済には決してでないもうひとつの、経済活動がここにある。
経済的な生業を立てるものを生かしながら、無償の提供をおこなう。
つまりそれは、また個人たちにとっても、満足、および達成と感謝という無償ながらも有意義な報酬を受け取ることになっている。
例えば、親が子に行う教育やしつけにおいても、表には出ないその労力や時間消費はもう一つの経済行為だ。
家庭内教育という表に出ない経済活動は、社会的能力という形に変換され、経済社会においてその子供のその国の経済価値を高める。
逆にそういったもう一つの経済活動が停滞すると、そのつけは、子供が社会に出て就職し、経済社会の一員になった時、表の実体経済にまわされるのである。いわゆる、一般常識の再教育という形で実質的な社会負担がうまれる。
金を払って得られる知識のみでは、生きることの勘所は得られないだろう。
子への教育や、無料休憩所の提供のみならず、子の親への介護や、先輩の後輩への指導や、趣味を生かしたものづくりなど、売上の計上されない労力や時間の提供はすべて、もう一つの経済活動といえる。
それらはすべて、経済社会に見えない形で貢献する。
縁の下の力持ちとはこういう人たちのことを言う。
水車のように循環によりエネルギーをうみ出すことも経済活動であれば、水車のうみ出す表に見えるエネルギーは、水車そのものを無償でうみだした人々のもう一つの活動が原点だ。
もう一つの経済活動の脆弱性は、表の経済のみならず社会の脆弱性にも繋がるだろうと思われる。
南無大師遍照金剛と、遍路道を進みながら、表ともう一つのもの、「同行二人」の意味をもう一度思い直してみるのである。