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Brugge Style
light princess
ご招待頂き、ロンドンのナショナル・シアター公演中の新作ミュージカル "Light Princess" を鑑賞した。
19世紀スコットランドの童話が原作。
ちなみに "Light Princess" は「光姫」ではなく「軽姫」。
実はわたしはミュージカルには全く関心がない。
なぜならばスーザン・ソンタグが言うところのキャンプ的な部分の不自然さ、わざとらしさを正視できないからだ。
わたしが熱狂するバレエとて非常にキャンプ的であるのを考えると、おそらくミュージカルには不可欠な「言語」の持つ赤裸々さに耐えられないのだと思う。愛、真、善、夢、使命や未来への希望、痛み、悲しみ、試練や教訓やらをずばり言葉で表現された途端、完っ全に白けてしまうのだ。
しかし、アートとしてのミュージカルの発展は望んでいる、と断っておく。
以下、ネタバレを含む。
深い愛情の具現である母親を早く亡くし、家父長的な父親の専制に耐え、ありのままの自分を受け入れられない、受け入れてもらえない孤独を切々と訴えるお姫様と王子様の筋立てには...
「またか...」という気分にさせられた。
悩むのはいい。共同体の崩壊と自己が確立できない若者というのは必ずセットになっている。また人間である限り、古今東西誰もが大枠で同じようなライフサイクルを辿らざるをえず、悩みの内容はどうしても似通ってくるだろう。
しかし後半で、ジェンダー的役割とセクシャリティに対する疑問符が機関銃の玉のように打ちまくられ、わたしはもう全然笑えなくなっていた。とどめが「姫は王国を治めながら出産のあと大学に進学し、海洋生物学者になった!」と狂言回しが誇らしげに言い放った時(会場はやんややんやの拍手の嵐だった)。
舞台に色彩を与えていた奇想天外な仕掛けも色あせてしまうのを感じた。
人間は意味や教訓なしではファンタジーを楽しめないようになっているのか?
もちろんわたしとて女子が高等教育を受け、専門職を持って社会に進出し、ジェンダー差別が消えるのを望んでいる現代人の1人である。娘をもつ母親としてはなおさらだ。ミュージカルの最後に脚本家が「蒙民の啓を開いてやるのだ」と、メッセージを加筆したくなるような社会、それはやはり改善するべきだと思う。
でも...「女性はもう我慢などするな。トラウマを克服して、ありのままの自分で生きよ」と、ある特定の思想の理想的生き方を、ファンタジーを通して観客に押し付けるのは、ファンタジーに対する冒涜であり観客に対する不遜だ。
そうだ、何年か前にバートン版映画「不思議な国のアリス」で、不思議の国を冒険した後、「自分の使命」に気づいたアリスが東インド会社かなんだかの職を求めて単身インドに渡ったというナレーションを聞いた時に、スクリーンに向かって思い切りバッグを投げつけたくなったあの感覚と同じだ。
わたしとしてはファンタジーはナンセンスであればあるほどよく、風刺と諧謔のスパイスが強く効いていればさらにおもしろいと思う。
ファンタジーは、「災難は特に理由もなくあなたを襲う。そういうものなのである。それを受け入れて、それでも生き延びよ。そして大人になれ」と子供に成長と生きる強さを教えるのだ。
そうか、わたしがクラシックバレエを好きな理由のひとつは、災難に理由がなく、しかも誰も「なぜ?」などと問わないからなのかもしれない。
無闇な自分探し、人生に深い使命や意味があると思い込み(それは事後に判明することなのにも関わらず)事前に探しまわること。それが子供がずっと子供のままで「大人になれない」現象を生み、「引きこもり」「キャラ疲れ」「大二病」等々を引き起こすのではないのか。
一部のファンタジーは子供に意味と教訓を与えているつもりが、結果としては子供がずっと子供にとどまるような状態を推奨していないか。
(写真はナショナル・シアターのHPより)
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