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Brugge Style
くいしん坊と職人に、新しい風。
友達が送ってくれた関西ミシュランガイド。
「くいしん坊に、新しい風。」という副題がついており、くいしん坊にはページを繰るのもまどろこしい。
抱いて寝たい(笑)。
日本の食文化が世界最高峰なのは、気候風土や歴史や*「大和魂」の類いの精神論など、いろいろと理由があるだろう。
中でもわたしが日本を訪れるたびに恐れ入るのは、卓越した季節感や空間に対するセンスもだが、「まだまだです」という職人さんの腰の低い態度(優れた人間は常に謙虚)だ。
職人や芸術家に「完璧」はない。なぜなら「完璧だ」と判断を下すということは、「これ以外の形はありえない」という判断を下すことであり、それにこだわって動けなくなることこそ、創造性の敵だからだ。
誤解を招くのを恐れずに言うなら、日本の西洋料理部門やその他西洋起源のもの(ホテルなど)においては、「欧州に追いつきたい」(実のところ日本は欧州などとっくの昔に追い越し、彼らは日本の1周か2周遅れを走っている面も多い)という目標が鹿鳴館の時代から消えていないところがどうもあるような気がする。無意識のうちに。違うかな。もちろん欧州の価値からは全く自由ですという方もおられるだろうが。
欧州が実際「追いつきたい」と他に思わせるほどの魅力を21世紀の今も未だ放っているかどうかは関係なく、そういう遠いお星様のような目標がある限り、日本は流れ込んでくる文物をすべて受け入れ、取捨選択し改良し、いつの間にか周囲を引き離していた、ということを続けるに違いない。
すごさに気がついていないところ、そこも日本の良さなのか。
...
*「大和魂」に関して、夏目漱石が「我が輩は猫である」中、鮮やかに書いているのは有名だが:
「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」
わたしは本居宣長の和歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」と聞いた時に、理屈なく「あ、そうそう、その通り!」と間髪を入れず同意してしまう、「それ」だと思う...
まあそれこそ天狗の類いですな(笑)。
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