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旅に出るわけ




わたしは旅行が、三度の飯よりも何よりも好きだ。

世界中の現地の人の目を借りて、「人間はどのように世界を解釈するか、どのような意味を与えるのか」「何を美しいと思うのか」ということをほんの少し見せてもらうのが、こうして書いているだけで身体が数センチ浮いてしまいそうなくらいに好きなのだ。

(女性の美の基準や、例えば太陽や蝶を美しいと思うかどうかは文化によって異なるが、花を美しいと思わない文化はたぶんないだろう...と、卓上の薔薇を見ている)

わたしは幸い何でも食べられ、身体も丈夫。どこに行ってもとても親切にしてもらった! と感じることができ、旅先で災難に合ったこともない。
もしかしたら現地の精霊たちに歓迎されているのかも、と思うことすらある。いや、おめでたいですね(笑)。


こんな話をするのは、先日、ある人から「外国はそれほどいいところではないと分かってしまった」という話を聞いたからである。
その時は、「世界中を見たわけでもないのに(「外国」という概念を一カ所に釘付けにしてしまうという点で)もったいない」と思ったのだが、もしかしたら外国にがっかりすることのない自分の方が現実が見えていず、何も分かっていないのかもと内省したのだ。わたしだって、旅先で見たいものしか見ていないのに変わりはないからだ。


別の友達がこんなことを言っていた。
旅の醍醐味のひとつは、毎回、旅先で「ここに住みたいなあ!」と思うような経験をし、後ろ髪を引かれながら帰宅、でも2、3日後には「やっぱり家が一番いいわー」と思うことだと。

わざわざお金と時間と神経を使って外国に出て行かなくても、家が一番いいのは最初から分かっている、とおっしゃる方もおられるだろう。しかし、その「家が一番いい」と、彼女が言う「家が一番いい」というのはちょっと違うと思う。「物差し」をひとつしか持たずに「家が一番いい」と言うのと、たくさん持っていて、今後も増やすつもりで「家が...」と言うのとの違いと説明すればいいだろうか。
ひっきょう、成熟とは自由自在な物差しをたくさん持つことだと思うのだがどうだろう。

わたしはどこに行っても毎度毎度「最っ高によかった!」「○○の街に心を捧げたい」ばっかりで、心がいくつあっても足りない。「家が一番」という日常肯定の心境ともほど遠く、それも「もったいない」感じがする。
また、「今後一生旅をして暮らせたらどんなにいいだろう!」と願うのは、都合のいいものだけを見、深い関わりを避け、義務や責任から逃れることを願う方便だという気もする。


先日、外国旅行からから帰宅して梅茶漬けを食べた。
旅から戻って、梅茶漬けを食べていると、「ほんとうに日本人でよかったなあ!」と思う。
これって、「家が一番!」のバリエーションかしらん。
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