(ウォークは、嘉数台地からスタート)
今日は4月1日、67年前、読谷に米軍が上陸した日だ。毎年、この日には、戦跡を歩いて当時のことを振り返るピースウォーキングが行われている。今日は、中部の激戦地、嘉数台地から前田高地を歩いた。約60名ほどの人が集まった。
(嘉数台地に無数に掘られた陣地壕)
(台地から見た普天間基地)
(北谷から読谷の海岸。67年前の今日、この海岸に米軍が上陸した。)
(日本軍のトーチカ。厚さ最大1mほどの鉄筋コンクリート造りだ。)
嘉数台地から前田高地を望む。当時、日本軍は、首里城の司令本部防衛のため、浦添城跡を中心に堅固な防衛陣地を張り巡らした。
嘉数台地から南に歩いていくと、静かな住宅地の中に、嘉数集落の住民避難壕として使われたチジフチャーガマがある。はるか昔から古代人の住居としても使われてきた遺跡だが、1945年3月23日の空襲から、このガマには嘉数住民の半数以上(約400人)が避難したという。4月2日頃、日本軍から「住民は軍の足手まといになるからガマを出よ」という命令が出され、住民の多くは南部に避難していった。それでも、住民約30名がそのまま残っていたが、5月10日頃、米軍がガマにガス弾を撃ち込んだため、子どもを含む住民ら20名ほどが亡くなったという。
鍾乳石の垂れ下がるガマの中に入っていく。足下はぬかるみ、ムーとした湿気が立ちこめている。所々に、昔の陶器のカケラなどが散乱している。奥で、皆の懐中電灯を消して、まっ暗闇を体験する。当時、住民たちは、この暗闇の中で怯えながら暮らしていたのだ。
(前田高地に続く当山の石畳道)
浦添の前田高地に続く当山の石畳道は、琉球王国時代に首里城から普天間宮まで続いた宿道だ。当時、国王は、この道を通って普天間宮に参詣したという。昔のままの石畳道が、今もそのまま残っている。テンペストの冒頭シーンのロケ地にも使われたところだ。
大戦当時は、嘉数が米軍に落ちた後、この石畳道を通って切り込み攻撃を行ったという。
当時、浦添国民学校の生徒として前田高地で戦争を体験した石川さんが、当時の話を証言された。
浦添周辺の人たちの遺骨を埋葬した浦和の塔。その下には、一時住民が避難していたディークの壕がある。
山3475部隊の平和の碑。この周辺には陣地壕が沢山ある。
この付近は、沖縄戦における日米の攻防の最激戦地の一つだった。米軍は1163人の戦死傷者及び行方不明者、日本軍6227人の戦死者を出した。米軍の戦史には、この戦闘を「ありったけの地獄が一つになって転がり込んだ」と書かれているという。
前田高地最東部のニードルロック(為朝岩)。この攻防戦でも、日米に多くの犠牲者が出た。
(前田高地から嘉数台地、読谷方面を望む)
(仲間の人たちの避難壕となったクチグワーガマ)
この後、浦添・前田のガマフヤーの遺骨収集現場を訪れたが、その内容は明日。