(アブチラガマの入り口で ガイドの安仁屋さん)
3日(金)の午後、「辻」を歩いた後、南城市の糸数アブチラガマに向かった。
ここは、長さが270mもある大きなガマ(自然洞窟)。当初は糸数集落の避難指定壕だったが、1945年2月、第32軍の「球」部隊の地下陣地として整備された。ガマの中には2階建の家も作られ、発電機を動かして電灯も灯されていたという。3月末には、200名余りの糸数集落の住民らもこのガマに避難した。
5月になってガマは南風原陸軍病院の分室に指定され、およそ600名余りの重傷患者が運ばれてきた。この時、14名のひめゆり学徒隊もガマに来て、看護にあたった。この頃になると、発電機は撤退する日本兵が持っていってしまい、ガマの中は暗闇となる。一時は、1000名を超える日本兵、住民らがこのガマにこもっていたという。
そして、5月25日の南部撤退命令により病院が撤退した後は、糸数の住民と取り残された重傷兵、兵士らの雑居状態となる。その後、米軍の馬乗り攻撃も始まり、多くの犠牲者が出た。また、スパイ容疑で日本兵に殺された住民も多かったという。日本の敗戦を信じない兵士や住民らが多く、全員が投降したのは8月22日だった。
今回のスタディツアーの目的は、当時の「慰安婦」の実態を学ぶということだったので、大阪大学のTさんから説明を受ける。
こんなガマの中にも、日本軍は「慰安所」を作ったというから驚く。当初は、朝鮮人の女性が6~7名いたという。5月末に重症患者が南部へ撤退した後も、出口付近に場所を変えて「慰安所」が作られ、沖縄出身女性が6~7名いたといわれている。
石原昌家さんの著書には当時の日本兵の証言が掲載されている。
「4月に米軍が上陸して、アブチラガマからも戦闘に出かけていきました。生き残って戦闘から戻ってきた兵士らは慰安婦を抱いて、半日過ごしたらまた戦闘に出かけていきました。」
これらの女性らも、後で南部に撤退していったが、その生死は分からない。
長いガマを抜けてやっと出口に辿り着いた。(ガマの中は撮影禁止)
途中、安仁屋さんに言われて、全員が懐中電灯を消し、しばらくたたずんだ。
本当の真っ暗闇。時おり、鍾乳石の端からしたる水滴の音が聞こえるだけだった。