4月1日(日)のピースウォーキングの最終目的地は浦添市の前田。区画整理がすすむクマーラモー(森)で、遺骨収集作業に取り組むガマフヤー代表・具志堅隆松氏のお話を聞き、壕の中にも入れてもらった。
(具志堅さんたちの遺骨収集作業には、2年前に真嘉比の丘での作業に参加させてもらったことがある。 ・真嘉比の丘で遺骨収集作業(ブログ 2010.1.10))
嘉数、前田から首里にかけては、沖縄戦でも最大の日米の攻防戦が続いたところだが、ここ数年、開発が進み、あちこちで戦争の跡が消えつつある。そのような中、具志堅さんは、遺骨を収集し、遺族のもとに返すための努力を続けてこられた。
この日も具志堅さんは、「沖縄戦を直接体験した人たちは、次第に少なくなっている。しかし、遺骨を掘りだし、その状況を調べることによって、戦争で人々はどのように死んでいったのかを知ることができる。特に、若い人たちにこの遺骨収集作業を体験してほしい。証言者はいなくなっても、若い人たちが遺骨収集に参加し、たとえばヘルメットを被った頭がい骨を確認することにより、沖縄戦を体験する新たな証言者ができるのです。」、「ここ数年、以前はあたり前と思っていたことが否定される動きが続いている。そのような中で、遺骨を収集することによって沖縄戦を体験することがますます重要になっている。」、「国は、やっと遺骨のDNA鑑定の費用を出すようになったが、遺族のDNA鑑定をしないものだから、遺骨がなかなか遺族のもとに帰れない状況が続いている。費用の問題ではない、国家が国民を戦死させたのだから、DNA鑑定をせよというのは、国民の側から国家に戦争責任をとれということなのです。」などと話された。
クマーラモーのあちこちには、今も、当時の陣地壕が口を開けている。そのうちの一つに入れてもらった。奥に入っていくと、壕は上下2段に分かれていた。その上部の壕で、多くの遺骨が見つかったという。
(壕の中で見つかった遺骨を説明する具志堅さん)
付近にはあちこちに不発弾が残っている。これは、米軍の81mm砲。
これもやはり60mmの不発弾。使った砲弾の5%は不発弾となることは、昔も今も同じだという。具志堅さんは、「撃ったものの責任で回収させなければならない」と強調された。
米軍のポンチョ。その下には軍靴が見える。米軍は、遺体にポンチョをかけることが多かったから、あるいはこの下には米兵の遺骨があるかもしれない。
具志堅さんが手にするのは、日本軍の砲弾ケースの蓋
具志堅さんは、「新都心のシュガーローフ、真嘉比でも遺骨収集をしてきたが、失敗でした。遺骨を掘りだしてすむことではない、戦場そのものを残す必要があるのです。」と強調された。前田のこの付近も区画整理で宅地化されてしまう予定だが、これだけ多くの陣地壕が残り、遺骨もあちこちで見つかっているのだから、なんとか公園にするなどして保存できないものかと思う。