(ウィ市長のお墓)
今回のサマール行でまずしたかったことは、殺されたウイ市長のお墓参りと、家族への弔問だった。(私とウィの関係、そして、ウィが殺された時の状況については、このブログの本年5月1日、5月3日版を見てほしい。)
・フィリピン・サマールから衝撃の悲報--ウィ市長が殺されてしまった(2011.5.01)
フィエスタの日(9月8日)の夕刻、ウィのお墓参りに行くことができた。まるで御殿のような立派なお墓の建物に、彼は眠っていた。棺の上に飾られた写真を見ながら、1994年以来の彼とのつきあいを思い出し、さすがに胸が熱くなった。こんなに早く殺されてしまって---、かわいそうで仕方がない。
翌日、市役所に息子のジムジムを訪ねた。ウィ市長が殺されたため、アキノ副市長が市長となり、市会議員のトップだった彼は副市長に昇格していた。
(副市長室でジムジムと。後ろは、ウィの大きな肖像画)
私は、1995年当時、しばらくウィの家に泊めてもらっていたことがある。当時、ジムジムや長女のアイカは、まだやんちゃでかわいい小学生だった。副市長となったジムジムは、懐かしそうに私を迎えてくれた。彼は、まだ20代のはずだが、すっかり太って、政治家としての風格もついてきている。
部屋の壁には、ウィの知事選に向けたポスターが貼ってあった。
(ウイと副知事候補のニース) (知事選には、ウィに代わり、娘のアイカが立つ)
副知事候補のネスは、ウィが殺された際、彼女も右腕を負傷している。彼女のポスターの経歴などを見ていて、あっと驚いた。サマールのパラナスという町、そしてババルコンという名前には憶えがある。あの、沖縄出身でパラナスに住んでいるよし子さんの息子は長くパラナスの町長をしていたはずだ。あるいは、ネスは、よし子さんの孫ではないのか?
ジムジムに、ネスのお婆さんは、日本人ではないかと聞いてみたが、彼は知らないという。そこで、パラナスで2回、日本人のお婆さんを訪ねた際の話をすると、彼は、すぐにネスに電話してくれた。やはり、そうだった。彼女はよし子さんのお孫さんだった。
(もう50年以上もサマールに住む沖縄出身のよし子さん(左は、2001年9月。右は、2005年12月))
よし子さんは、1926年生まれ。戦後、米軍と一緒に沖縄に来たババルコンさんと結婚し、10年ほど沖縄に住んでいたが、1959年にサマールにやってきた方だ。沖縄には1度帰っただけで、ずっとサマールで暮らされている。
あのよし子さんの孫娘が、ウィと一緒に副知事に立候補し、ウィが殺された後は、ウィの娘のアイカとコンビを組んでいるのだ。それにしてもなんという偶然だろう。
今回は、ウィの娘のアイカは、マニラに戻ったところで会えなかった。ジムジムはすでに政治の世界で生きているが、アイカがまさか政治家を志すとは思わなかった。彼女もそんなつもりは全くなかったはずだ。ところが、銃撃を受け、タクロバンの病院に運ばれたウィが、意識を失う直前、アイカに電話をし、後のことを頼んだのだという。その直後にウィは死んだ。アイカも、父親の最後の言葉を聞き、その遺志を継ごうと決意したのだ。ネスと組んで、ウィの弔い合戦が始まっている。
それにしても、サマールで政治家として生きていくことはなんと大変なことだろう。ジムジムとアイカの今後の政治家としての人生が、平穏なものであることを願うばかりだ。