神田川
2012年08月27日 | 旅
神田川は、中流までは普通の河川だけれども
御茶ノ水あたりは、人工的に開削した水路である。
江戸川橋あたりまでは、合流する川もあり
(以前の記事などを参照)
高田や関口あたりは明治時代までは牧歌的な風景であった。
水源の井の頭池から江戸川橋までは
神田上水と呼ばれていて、江戸川橋付近では
その橋の名の通り江戸川ろ呼ばれていた。
神田川は飯田橋から下流の呼び名だ。
もともとの流れは、平川とも呼ばれ、飯田橋から南へ流れていた。
江戸時代の初期に外堀として利用された。
江戸城の北側を流れ、日本橋川となるルートである。
現在、神田川と呼ばれている御茶ノ水あたりの流れは
やはり江戸時代に開削されたものだが
その深さから考えるに
相当な工事であったと思われる。
しかし、ただ機能的に掘っただけではないのが
家康の都市計画のすごいところで
残土は日比谷入江の埋め立てに使用し
また、その風光明媚から茗溪と呼ばれるようになったほどの谷である。
谷の南側の地名、駿河台は
家康の地元、駿河からの家臣たちを住まわせたことから
その名がついた、江戸初期からの由緒のある土地なのである。
御茶ノ水あたりは、人工的に開削した水路である。
江戸川橋あたりまでは、合流する川もあり
(以前の記事などを参照)
高田や関口あたりは明治時代までは牧歌的な風景であった。
水源の井の頭池から江戸川橋までは
神田上水と呼ばれていて、江戸川橋付近では
その橋の名の通り江戸川ろ呼ばれていた。
神田川は飯田橋から下流の呼び名だ。
もともとの流れは、平川とも呼ばれ、飯田橋から南へ流れていた。
江戸時代の初期に外堀として利用された。
江戸城の北側を流れ、日本橋川となるルートである。
現在、神田川と呼ばれている御茶ノ水あたりの流れは
やはり江戸時代に開削されたものだが
その深さから考えるに
相当な工事であったと思われる。
しかし、ただ機能的に掘っただけではないのが
家康の都市計画のすごいところで
残土は日比谷入江の埋め立てに使用し
また、その風光明媚から茗溪と呼ばれるようになったほどの谷である。
谷の南側の地名、駿河台は
家康の地元、駿河からの家臣たちを住まわせたことから
その名がついた、江戸初期からの由緒のある土地なのである。