THE SAPPORO TRANSIT AUTHORITY (S.T.A)

札幌で活動しているブラスロックバンド、STA(The Sapporo Transit Authority)です。

様式美鍵盤界の巨匠、逝く・・・・

2012-07-26 01:04:14 | free form space

ジョン・ロード

7月16日、ロンドンの病院にて愛する家族に囲まれて息を引き取ったそうです。

2011年に膵臓癌にかかっている事を公表、享年71歳。

ロックという枠組みの中における初期革命的キーボード奏者御三家と言えばキース・エマーソン、リック・ウェイクマン、そしてジョン・ロードの名を上げる人達が圧倒的多数だと思います。

その中でもハードロック(ヘヴィーメタルではなく)の楽曲展開の礎を築いたという功績においてはジョン・ロードが何といっても第一人者でしょう。

ディープ・パープル結成時からのオリジナル・メンバーでもあるリーダー格ジョン・ロードはその後、数々の名曲、名演、ライブにと伝説を作りました。

第一期はヴァニラ・ファッジと双璧をなすアート・ロック寄りのアルバムを3枚製作。

その中心人物がジョンでした。

べーシストのニック・シンパー、ヴォーカリストのロッド・エヴァンスに代わって加入したロジャー・グローヴァー、イアン・ギランを迎えて(第二期)のアルバム「ロイヤル・フィル・オーケストラ」ではロック界初となるロックとクラシックとの融合に着手。

もちろんこの時の楽曲もジョンのペンによるもの。

ところが次に登場したアルバム「イン・ロック」からは主導権をギタリストのリッチー・ブラックモアに委ねて大きく方向転換、賭けに出ます。

これがビッグヒットとなりその後はハードロック街道まっしぐら。

世界1の大音量バンドとしてギネスブックに登録されたり、次作「ファイアーボール」のジャケットが賞を受賞したり、今となってはロックにさほど興味のない人でも知っていて口づさめるあの曲、この曲の名リフ(CM効果もあるのでしょうね)、語り草となっているライブ、そして曲中に流れる印象的なソロワーク等・・・。

過酷なツアー、メンバー間の確執による相次ぐトラブルの時にもジョンはずっとディープ・パープルを見守って維持してきました。

解散後はイアン・ペイスと結成したPAL,第3期ディープ・パープル時代の盟友、デヴィッド・カヴァーディル率いるホワイト・スネイクに加入、更にはディープ・パープル再結成。

その間にもソロ、セッションとアクティブに創作意欲は衰えることはありませんでした。

 

私が彼の存在を知ったのはおぼろげながら「ブラック・ナイト(もちろんスタジオ・ヴァージョン)」

印象的でかっこいいあのイントロのユニゾン・リフをよくコピーしたものです。

でも「ファイアー・ボール」は最初、なんだかよくわからなかった・・・。

ただわめきまくってぐちゃぐちゃのやかましい音にしか聞こえなかった、正直言って(すぐその凄さには気付きましたが)。

なんと言いましても名盤「マシーン・ヘッド」には一発でやられまくりました。

ここから私の頭の中にはアメリカン・ハードロック=GFR,ブリティッシュ・ハードロック=ディープ・パープルという図式が確立されます(もちろんブラスロックにも熱狂しつつ)。

狂気のギタリスト、リッチー・ブラックモアVS気品漂うインテリ紳士ジョン・ロードが火花を散らして繰り広げるソロの応酬は何度体験しても鳥肌ものでした。

 

初めて生ジョンを体験したのは日本武道館での「セインツ&シナーズ・ツアー」ホワイトスネイク(その時のドラマーは故コージー・パウエル)。

そして再結成ディープ・パープル「パーフェクト・ストレンジャーズ」発表時の来日公演も。(追加公演を含む武道館全てを網羅、オープニングは「ハイウェイスター」)

ギタリストがスティーブ・モーズに代わってからのパープルも埼玉、札幌で体験(それぞれオープニングは「ファイアーボール」「ウーマン・フロム・トケイヨー!」)。

その都度、必ずジョンが繰り広げてくれる荘厳なるクラシカル・キーボード・ソロ。

ステージ上でスポットライトを浴びながらハモンドを操るその姿の神々しいことといったらもうたまりません。

その後のキーボード・プレイヤー達に与えた影響は計り知れず。

彼の名演はこれからもずっと語り継がれ、多くのフォロワーを排出し続けることでしょう。

偉大なるマエストロがまた一人・・・・。

 

余談ながら、シカゴもライブで「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフをアドリブで曲中に組み込んでいた時期がありました。

 

 

 

 

 

 

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