ジョー・コッカー
この人の音楽人生は波乱にとんでいて、決して順風満帆とは言いがたいものではありますが、それでも多くのファンの心をつかみ、ミュージシャン仲間からもリスペクトされていた数少ない存在。
まずコッカーといえば、誰しもがウッド・ストックでのパワフルな魂の咆哮、身を捩じらせてエア・ギターにて熱唱する姿を(ギターはちゃんと弾けるそうです)思い浮かべると思います。
1964年にデビューするも不発、長い下積みを重ねた末に改めて1968年に再デビューを果たし、新人扱いにて乗り込んだのがウッドストック。
あれ一発でスーパースターの道を歩み始める事となります。
その時に取り上げたビートルズの「WITH A LITTLE HELP FROM MY FRIENDS」は全英1位を記録
(ポールがこのアレンジの曲を、当時ジョー本人から初めて聞かせてもらった時には感動してうち震えたとか。
それをきっかけに友情を育んでいたそうです)。
多くのカバーの中でも出色の出来と大絶賛されています。
その後も次々に話題作を発表。
そしてレオン・ラッセル、リタ・クーリッジ、ボビー・キーズらと大所帯のバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」を結成。
アルバム、ツアー、ドキュメンタリー映画製作と話題を振りまいていきます。
ヒット曲も連発。
「デルタ・レディ」、トラフィックの「フィーリング・オールライト」、再びビートルズで「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドウ」
ただ、バンドのほうは金銭的にも成功には至らず、オーストラリアにて大麻所持が原因でコッカーは逮捕、レオン・ラセッルらが去っていきます。
しかし新境地を開拓するべくビリー・プレストンの「ユー・アー・ソー・ビューティフル」を発表したところ、これが大ヒット、復活を果たしますがこの頃から薬物やアルコール依存症に悩まされはじめます。
私は正直な話、若い頃はジョー・コッカーの名前は知っていても、あのだみ声と豪快なルックス、ステージ・パフォーマンス(独特の両腕をばたつかせる動き。
知らない観客はジョーが神経の病気を患っている、と真剣に思ったそうです)が苦手でした。
1980年頃のジョー来日公演でもツアー・ローディー楽器裏方の先輩が「ジョー・コッカーの来日は喉の不調で急遽中止になったということだけど、本当は酒が原因らしい・・・」と聞かされ「あああ・・・」と益々残念な印象が焼きついてしまいました
(事の真相は・・・?でも多くのファンが公演当日に会場前の張り紙を見て、初めて中止を知り落胆したそうですよ)
再起不能か?と噂されていた矢先の1982年、映画「愛と青春の旅立ち」の中で歌われた「UP WHERE WE BELONG(ジェニファー・ウォーンズとのデュエット)が全米1位を記録。
アカデミー主題歌賞を受賞、再度の奇跡的復活を遂げます。
ジョー・コッカーや曲名は知らなくても誰しもがようく知っている名曲中の名バラードですね。
私は最初「ええ!!?あのジョー・コッカーがこんなにもお洒落な曲を・・・でも見事にはまっている!!」と愛聴しまくったものです。
これ今現在では誰もが認めるスタンダード・デュエットですね。
ジョーのそれまでのワイルドで痙攣気味(失礼・・)、ドスの利いた男性シンガーというイメージが一掃されて一挙に音楽的フィールドが広まった感がありました
(ジョーいわく「俺はシンガーにならなかったら殺人者になっていた」!!)。
その後もマイペースに活動を続行してはいましたが、遂に北海道の地は踏んではもらえなかったですね・・・残念。
コメディアンの故ジョン・ベルーシはジョーのモノマネが十八番でした。
一度「サタディ・ナイト・ライブ」で「フィーリン・オールライト」を2人が競演しているところをビデオで見たことがありましたが、鳥肌が立つくらいに爆笑、かっこよかったです、2人とも。
ベルーシはコッカーが真横にいるのに、缶ビールを片手に持ってへべレケ状態を過剰表現。
そのビールをジョーに勧めるんだけど、首を横に振りつつも照れて苦笑するコッカー。
もうあんな神がかった共演は2度と見れないのですね。
で、他界したレオン・ラッセル、ボビー・キーズ、イアン・マクラガンもジョーと共演しているわけですから(しかし同月に盟友同士の3人が)天国で極上のライブを繰り広げていることでしょう。
想像しただけで鳥肌が立ってしまう。
もちろん、真横にはジョン・ベルーシがモノマネで控えていたりして(笑)。
私のバンドでもジョー・コッカーの曲は2曲ほどレパートリーに加えさせていただいていますが,演奏してみて益々ジョー・コッカーの奥深い魅力にメンバー達は敬服、改めて再認識した次第であります。