THE SAPPORO TRANSIT AUTHORITY (S.T.A)

札幌で活動しているブラスロックバンド、STA(The Sapporo Transit Authority)です。

FRANK ZAPPA

2013-09-27 14:51:49 | free form space

STAのトロンボーン奏者、ミツと会話していて数年前にびっくり名前が飛び出しました。彼は生粋のジャズ・ミュージシャンなのに「フランク・ザッパに夢中だ」とのこと。

ロック界広しといえど、ザッパほどマニアックでちょっと難解、ぶっ飛んでいるミュージシャンはそういないと思います。そういう方面では王者的貫禄をずっと誇示してもいました。

まあ、アバンギャルドなものを好むリスナーやミュージシャンには圧倒的支持を得ていたのも事実でフォロワーも多方面に存在します。

私もノブも数枚のアルバムは所持しているのではありますが、どっぷりと聴きこむほどにはまるということは残念ながらありませんでした・・・。

写真中段右端のアルバムはBOHUSLAN BIG BAND(スウエーデン盤)の12曲入りZAPPAカバー集(トータル・タイム67:23)。

ミツからのプレゼント。そういえばザッパには音楽のジャンルというものは何の意味ももたない、ナンセンスなものでしたっけ。

ドゥーワップからジャズ、ビッグバンド、ハードロック、ミクスチャー、サイケデリック(本人はドラッグ否定者)、ヘビーメタルまでとなんでもござれ。

 

ザッパが子供の頃、彼の喘息対策のために家族はアメリカの各地域を点々とします。

多感な10代にはありとあらゆる音楽を聴きまくっていたそうですが、14歳の時に出会ったのが「エドガー・ヴァレーズ」

ヴァレーズは擬音やノイズなどを音楽に大胆に導入した近代前衛音楽の代表格。

ザッパが受けた影響は相当なもので、その後の音楽活動にそれが如実に現れています。

ちなみにシカゴも「Ⅴ」のオープニングは「ヴァレーズに捧げる歌」でした。あのイントロで聞かれるギターのアーミングによる「ギュワ~~ン~~~」はまさに真骨頂、当時のライブにおける重要なレパートリーでもありました。

で、ザっパは1966年にめでたくデビュー・アルバム、傑作「フリーク・アウト」(ザ・マザース・オブ・インベンション)を発表するのですが、これがぶっ飛びの2枚組によるコンセプト・アルバム。

シカゴの数年先を行っていたのですね。

マザースには一時的にシカゴ育ての親、ジェームス・ウイリアム・ガルシオも在籍していたそうです。

噂によると彼が高価なアンプを所持していたのが迎え入れられた要因だとのことですが、ことの真意はいかに??

その後、マザース・・・は積極的にアルバム発表、ツアーに没頭。

ザッパ製作の映画VHSはこのブログのジョージ・デューク訃報のところで紹介したので割愛。

私がテレビで初めてザッパの動く姿を見たのは深夜に放映されていたクレー・アニメのようなプロモものでザッパが弾いているギターが怪物に変身してザッパの左首筋に噛みつく!という奇怪な映像。でもインパクトは強烈で「凄い!!カッケー!」と思いましたね。

誰もが知っているディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の誕生エピソード。

モントルー、レマン湖のほとりで「マシーン・ヘッド」のレコーディング中だったパープルは近くの会場でマザースのコンサートがあるとの情報を入手。

ところがそのコンサート中にちょっと危ない男が乱入してきてFIRE GUN(火炎放射器)を竹製の天井に向かって放った。材質が材質だけにあっという間にあたり一面は火の海に。

黒煙が会場からレマン湖の水上にまで漂いパニック状態に。リッチーがずっと温めていたあのリフにその事の成り行きをそのまま、イアン・ギランが歌詞に起こして乗せたのがあれです。しっかりと「フランク・ザッパ&マザース」と歌っています。

王様も「湖上の煙~~火の粉がパチパチ」と歌っているよん。気の毒なことにこの火事でザッパのバンド機材は全て灰になってしまいました。

1976年1~2月には初来日も実現します。浅草で行われた記者会見では司会を内田ロックンロール裕也氏が担当、花魁ショーも交えての華やかな内容が話題に。ベースのロイ・エストラダは元リトル・フィートのメンバーでしたが、それ以外のバック・ミュージシャンはほとんどが無名。でも超テクニカルなプレイの連発で観客は度肝を抜かれたそうです。その中にまだ幼い顔をしたテリー・ボジオも在籍していてツイン・ドラムによる圧倒的パフォーマンスを披露。日本で知った当て字「雑葉」をよほどザッパ本人は気にいったらしく後のアルバムにもその漢字を使用。親日家でもあり、またの来日公演を熱望していたほど。

 

マザース解散後もアクティブな創作活動は衰え知らず。

いくつものレーベルを渡り歩きながらもコンスタントにアルバムを発表。

ただアルバムを乱発するのではなく、妥協なき演奏はメンバー達に対する要求にも反映されリハーサルは毎日10時間、ツアーのためにそれを数カ月も費やし、その間もメンバー達にはギャラを支払い、時にはステージにはビッグバンドも参加、キーボード、ギターなども複数人が駆り出されたために大赤字だったとか。

レコード会社もザッパのプロモーションには積極的ではなく、注文も多かったためにブチ切れたザッパは発売前のアルバムをラジオで流すという掟破りの訴え行動を起こしたそうです。

あるコンサートではステージに上がってきた観客に突き落とされたザッパは複雑骨折の重傷を負い、それが原因で喉の筋肉が圧迫されて高音ヴォイスが出しにくくなりあの独特のボーカルスタイルが確立、まさに怪我の功名というべきか・・・。

また別のステージではファンが「俺のほうがザッパよりも下品だ!」と言い放つやその場で脱糞!!それをザッパが食べたというもの。もちろんこれはデマなのですがザッパ本人が「クール!!」とのコメントを述べたためにいかにも事実のように一人歩きした次第。

まあ、ザッパの音楽はずっと「猥雑、変態的で意味不明」と方々からやり玉に挙げられていましたから。曲調も何が飛び出すか予想もできない展開連発、複雑で入り組んだ難解なフレーズ、転調、移調当たり前。歌詞には政治、宗教、世の中の不条理な出来事をシニカルに風刺、とにかくまともにこちらが取り組もうとしてもするするとおちょくられるというザッパ・ワールドの快感がいつのまにか病みつきになるほどです。またパロデイ・センスも抜群で写真上段中央はビートルズのサージェント・ペッパー・・・なのは一目瞭然。私が、滅多にしないジャケ衝動買いの1枚。アルバムタイトルや曲名の邦題も奇奇怪怪。まあCD化再発の段階でかなり改善はされてきましたがもともとの原題が原題ですからね・・・。一番私が忘れられないのが殺虫剤スプレーCMの流行語から引用した「ハエハエカカカ・ザッパッパ」につきます。

その後は「もうステージではやるべきことは達成された」とツアー引退宣言。

益々レコーディングに没頭します。

空港での待ち時間にも楽器が手元にないにも関わらず譜面をどっさりと持ち込んで曲作りを行うほど。

今では自他ともに認める天才ギタリスト、ステーブ・ヴァイもザッパ門下生。

彼が弟子入り志願で伺ったとき、「じゃあ行こうか」と連れられていったので、てっきり「スタジオでさっそく演奏?」と思っていたヴァイ。

ところが行き先はレストランで「世の中の音には全て音階がある。この食事中の雑踏、会話を譜面に起こしなさい」とのシュールな出題を浴びせられたとか。

バイのファースト・ソロアルバム収録曲やデビッド・リー・ロスの「ヤンキー・ローズ」イントロで聞かれる笑い声、おしゃべりをワウ多用で再現する技巧はその影響の現れなのでしょうね。

ヴァイは当初、採譜係でしたが、その後はセカンドギタリストに昇格。

彼ほどのテクニシャンがこの扱いですからね、他にも驚きの卒業生多数。

共演者もエディ・ジョブソン、エイドリアン・ブリュー、ビニー・カリウタ、ピーター・ウルフ、レ二ー・ホワイト、ランディ・ブレッカー、マイケル・ブレッカー、サイモン・フィリップス、ラヴィ・シャンカール、チャド・ワッカーマン、イアン・アンダーウッド・・・・・・。

故ローウエル・ジョージもザッパ学校の生徒でしたが「君は自分のバンドを作りなさい」と言われてエストラダとリトル・フィートを結成したという話は有名です。

10年以上にわたる前立腺がん(発見された時にはすでに手遅れだったそうです)との闘病の合間も音楽創作は続いたそうです。晩年は「ザッパのオーディションに俺は合格できないだろう・・・」と自らにも厳しい姿勢を示すほどに。

自分の死期を悟った中、他界する間際までザッパはまさに独創街道まっしぐらの音楽家でした。ザッパの前にザッパなし、ザッパの後にもザッパなし。唯一無二の存在。

ザッパ・ジュニア達もミュージシャンとして成長。写真右下は愛息ドウイ―ジル・ザッパの1991年発表のソロ15曲入り「コンフェッションズ」。

ビージーズの「ステイン・アライブ」もカバー、参加ミュージシャンも豪華でヌーノ・ベッテンコート、ザック・ワイルド、ドニー・オズモンド、スティーブ・ルカサー、ウォーレン・デマルティー二、ティム・ピアース・・・。

物凄い顔ぶれですがそんな状況に埋もれることなくドウイ―ジルは見事なソロワークをぶちかましてきます。さすがザッパJR(本人はこう言われることを嫌うでしょうが)。

しかし毛深い繋がり眉毛は父親と瓜二つ(笑)。意外なのは日本が誇るビッグ・スター矢沢永吉のジャパン・ツアーにドウイ―ジルが一度だけ参加のために来日、札幌にもやってきました(もう一人のギタリストはドゥービー・ブラザースのジョン・マクフィー)。

またドウイ―ジルは俳優業もこなしています。

1987年公開のアーノルド・シュワルツエネッガー主演のアクション・ヒット映画ステイーブン・キング原作「バトル・ランナー」にフリートウッド・マックのミック・フリートウッドの息子役で、他にも「プレティ・イン・ピンク 恋人たちの街角」があります。

ザッパ自宅の地下室には膨大なレコーディング・テープが山積みされているそうで、今までに発表されたアルバム数だけでも100枚以上ですがそれはほんの氷山の一角で、遺族たちの手によって現在もコンスタントに毎年数枚のペースで未発表作品がリリースされ続けています。

 

写真下段左はVHSライブ「ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?」(58分)。

THE PIER、NEW YORK CITY AUGUST 26,1984年の作品です。

曲間にはザッパのインタビューも収録。

鬼才、変人のイメージが先行しそうな人物ですが、この映像を見るに実はそうとうにインテリ、頭の切れるジェントルマンです。

ステージのほうはといいますと、しょっぱなからもの凄いフレーズが繰り広げられ変拍子の連打、何と表現していいのやら言葉に困るほどの独走態勢でドンドンと進行していきます。

時にはおもちゃ箱をひっくり返したようなコミカルな演劇要素も飛び出し、妙なせりふ回し、お約束の決めポーズは巨匠ザッパのジャンプで決まり。

ザッパはコンダクターの役割も担っていて、彼の合図で曲がいきなり豹変するそうです。

長々としたインプロビゼーションで毎回、曲は表情を変える、これ当たり前。

曲のアレンジ・パターンも1曲につき数種類が用意されていてザッパのサインで予告なしにチェンジするそうです。こいつはメンバー達も大変だ、気を抜けないね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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