幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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驚愕の粘り腰を発揮する斎藤知事を見ていて得られた4つの気づき ”なるほど”

2024-09-15 03:11:11 | 社会

 他人の失敗を、単に野次馬として眺めるか他山の石とするかは後に大きな違いを生むだろう。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。 

 * * *  世の中の多くが「これは、さすがに辞職かな」と思い始めてから、もう2カ月ぐらいになるでしょうか。パワハラやおねだりなどの疑惑が次々に飛び出し、激しい批判を受け続けている斎藤元彦・兵庫県知事は、驚愕の粘り腰を見せ続けて今も知事のままです。  
 パワハラやおねだりも十分に問題ですが、それ以上に重大なのが、知事の問題点を告発した「公益通報者」に対する対応や、阪神・オリックスの優勝パレードの際の補助金キックバックに関する疑惑。もし報じられている通りなら、警察や司法の出番です。一連の疑惑と深く関係していると思われる悲しい事態も、複数起きてしまいました。  
 しかし、どれだけ批判が高まっても、百条委員会で厳しく詰められても、もはや知事の役割が果たせる状態ではなくなっても、斎藤知事は「県政を担わせていただきたい」と言い続けています。最近では、そのメンタルのあまりの強さに感心する声も出てきました。  いろいろ理解が追い付きませんが、前代未聞の事態が起きているのは確か。報道の内容や顔写真を見てムカムカしているだけではなく、せっかくなので何か学んでしまいたいところ。というわけで、個人的に「斎藤知事を見ていて得られた4つの気づき」をご紹介します。あくまで勝手に気づきを得ただけなので、ご本人の実際の心情はわかりません。

 ●気づきその1〈人はどんなに四面楚歌の状況でも自分を正当化できる〉  
 ここまで来て、斎藤知事が辞めないのはなぜでしょうか。続けることが責任を果たす道だと本気で思って、責任感の強い自分に誇りを覚えているのかもしれません。もしかしたら「この絶体絶命の状況で耐えしのげるなんて、さすが俺」と、戦う自分の姿がカッコよく見えているのかもしれません。「悪いのは側近たちや一方的な報道に精を出すマスコミだ。ここで辞めたら自分が悪かったことになる」と考えている可能性もあります。  
 いずれにせよ、ご本人の中で自分を守ったり正当化したり美化したりする何らかの理屈を構築していないと、今の状況には耐えられないでしょう。斎藤知事のおかげで、あらためて「人間とはなんと強くてしなやかな生き物だろうか」という気づきを得ました。 

●気づきその2〈世の中には「責任を認めたら負け」と思っている人がいる〉  
 さんざん報じられている「疑惑」が真実かどうかは、たしかにまだわかりません。それはさておいても、9月6日に行なわれた百条委員会の2回目の証人尋問の場で、委員から一連の問題の道義的責任をどう考えているかという質問に対して、「道義的責任というのが何かというのがわからない」と答えたことには多くの人が呆れました。  ご本人としては、きっと深い意味を込めて言ったのでしょう。ただ、聞いている側としては、あらためて「なるほど。『責任を認めたら負け』と思う人って、実際にいるんだな」という気づきを得ました。この一言は大きな反発を招いて、斎藤知事をますます追い詰めることになります。「責任」をめぐるこの流れは、以て他山の石としましょう。

会見でいきなり嗚咽を漏らした理由
●気づきその3〈他人のために泣かない人でも自分自身のことでは涙を流す〉  
 それまでクールな表情を保っていた、というか表情がうつろだった斎藤知事が、9月11日の会見ではいきなり嗚咽を漏らしました。それは、かつて知事選で斎藤知事を支援した議員が、辞職要求に名を連ねていることをどう思うか聞かれたときでした。  斎藤知事は「自分自身に悔しい思いではあります」と言いつつ、かつて支援してくれた議員への感謝を述べます。涙を流したのは、つまりは自分をめぐる状況が悔しくてもどかしいから。けっして、無念の思いで自ら命を絶った職員に対する涙ではありません。クールな知事も自分事では泣くことができるんだという驚きとともに、自分のために泣かれたって見ている側は鼻白むばかで心打たれないんだなという気づきを得ました。

 ●気づきその4〈政党というところは風向きが変わるとすぐに手の平を返す〉  
 あの手この手で斎藤知事を強引に擁護して、告発文も怪文書扱いしていた日本維新の会ですが、風向きが変わった途端、見事な手の平を返しました。9月9日には、真っ先に辞職と出直し選挙の実施を申し入れます。選挙の際に維新の会とともに斎藤知事を推薦した自民党も、シレッと「あんなヤツ最初から知らない」みたいな顔をしています。  
 政党がそういうことをしても、とくに驚きはありません。私たちの多くは政党とは縁がありませんが、たぶんどこの会社もどんな組織も本質は同じ。斎藤知事と変わり身が早い政党のみなさんのおかげで、誰かに「何があっても俺たちが守ってやるからな」と言ってもらっても、それは何の保証にもならないという気づきを得ました。  兵庫県で起きている一連の問題は、たくさんのモヤモヤやイライラを与えてくれています。いっぽう、図らずもたくさんの大切な気づきも与えてくれました。今後の人生でもし機会があったら、大いに役立てましょう。  
 この先も斎藤知事が粘り腰を見せ続けた場合、定例議会が開会する9月19日に「不信任決議案」が提出される見込みです。すでに県議会の全議員が辞職を求めているので、可決される公算が大。その場合、斎藤知事は静かに失職する道を選ぶのか、あるいは議会を解散するのか、もしかして次の知事選に出馬するのか……。まだまだ目が離せません。  
 私たちはきっと、この問題を通してまた新たな気づきを得ることができるでしょう。ありがたいのかウンザリなのか、そこは微妙なところですけど。

感想
 なるほどと思いました。
自分を正当化しないと逆に苦しいのでしょうね。

 インパール作戦の牟田口廉也司令官は死ぬまで「正しい作戦だった」と言い続けていたそうです。3万人のほとんどが餓死と病気で亡くなった無謀な作戦でした。
 自分を正当化しないと良心の呵責に耐え切れないのでしょう。
 問題は誰もインパール作戦の責任をとっていません。
多くの人が亡くなったのに、無謀な作戦を行い、多くの人を死なせても、立案者は戦後も生きのびています。

 自分の責任でないのに自責の念や自分を追いつめて自殺人も多いですが、斎藤兵庫県知事のようなしたたかさで生きる力も必要なのでしょう。
 そしてやはり問題行動にはきちんと責任をとるようにすることだと思います。

【速報】小林製薬の「糸ようじ」販売を休止 日本歯科医師会が推薦を取り消し「推薦に値する企業ではない」 ”品質保証と安全対策が出来ていない企業と言われても仕方がない”

2024-09-13 19:06:48 | 小林製薬紅麹

小林製薬の「やわらか歯間ブラシ」「糸ようじ」「ピースクリン」 小林製薬HPより
小林製薬の「糸ようじ」と「やわらか歯間ブラシ」、「ピースクリン」が「日本歯科医師会」の推薦を取り消されました。 小林製薬は、製品パッケージなどで、「日本歯科医師会推薦」と記していた表示を取りやめるとともに、対象商品の販売を一時休止すると発表しています。 小林製薬によると、日本歯科医師会から推薦を取り消した理由について「製品そのものの性能ではなく、紅麹サプリによる健康被害問題を受けて、推薦に値する企業ではないと判断した」といった説明があったということです。 なお、糸ようじの「スルッと入るタイプY字型」、ピースクリンの「マウスピース洗浄剤」は販売が一時休止される製品の対象ではありません。

小林製薬は「今回の販売の一時休止は、あくまで対象製品のパッケージなどの表示の変更を行うためのものであり、対象製品の使用上の性能や品質、安全性に問題が確認されたものではない」とコメントしています。 今後、対象製品のパッケージなどの変更の準備が整い次第、販売を再開する予定だということです。

感想
 確かに、信頼できない企業と言われても仕方がないようです。
一番の問題は、販売停止&回収が2か月遅れたことです。
顧客の健康よりも販売を優先したいた企業の姿勢が問われています。
 他の製品も同じ不安があります。

 小林化工が死者2人で会社が厳しい処分もあり倒産しました。
工場とその人員は沢井製薬が引き取りました。
 死者が90人を超えているとの報道もありますが、国は小林製薬に何の処分もしていません。
 おかしいですね。

 また紅麹サプリメントはコレステロールを下げる働きがあり、実際に摂取した人が多くの人が下がりました。
 当たり前です。医薬品成分のコレステロールを下げる同じ成分だからです。
医薬品が厳しい管理がされているのに、なぜ同じ成分(モナコリン)が食品だと野放しなのでしょうか?
 国がそれを容認していたことが健康被害を大きくした遠因だと思います。

 日本歯科医師 会は適切な判断をされたと思います。
 
 製品を買うのはその会社のブランド力を信用しているからです。
その信頼を裏切り続けているように感じます。

『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』鷲田清一著 ”祈りを持って聴く”

2024-09-13 10:10:50 | 本の紹介
・パロール(語る言葉)、エクリチュール(書くこと)、レクチュール(読むこと)

・「語る言葉が自己表出なら、<聞かれる言葉>の<表出面>においてこそ、われわれは普遍的他者ではなくほかならぬ個別者としての他者と出会うと言うべきではではないだろうか」と問いかけるのである。

・<臨床>はひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面である。<臨床>には、そのかぎりで、遇われる他者の偶然性ということが含まれる。<臨床>においては、じぶんが他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということ、この偶然性のなかで生成する社会性というものを、<臨床哲学>は視野の中心に置く。この背後には、だれかの「だれ」としての特異性と単独性は、他者との根源的に偶然的な関係のうちにこそ根拠をもつという考えがあるのだが、これについてはのちほど考察してみたい。

・宇野千代さんの回答は、たいていのばあい、まずは相談者のことばをたっぷりと反復し、そしてちょっと距離を置いて横槍を入れ、そして最後にこんな調子で締めくくられる――。
「あなたはまずこの普通の暮らしを目的にして、恋愛もし、出来たら是非結婚もしてくださることを、私は待っているのです・
「ここにあなたの提出した質問は、そのまま、あなたに差し出した私の質問になるのです。さあ、二人で一緒になって、この危惧感をなくすることが出来るかどうか、考えましょう」。
 わたしに語りかけてくれている、という感触が大切なんだろうとおもう。聞いてもらえた、というその実感が大事なのだとおもう。それによって、相談者の問い、というよりも訴えは、しかと受けとめれることで、半分以上解決したと言っていいのではないだろうか。「患者は、口を開きはじめる。得体の知らにあ表に出すことができれば、それで不安は解消できることが多いし、もしそれができないとしても解決の手掛かりは、はっきりつかめるものである」。

・おなじ他者にかかわる場面がときに臨床になり、ときに非臨床とみなされるのは、なにを規準にしてであろうか。それはおそらく、職業としてのホスピタブルな役割を超えたところで、なお<ホスピタリティ>を保持しうるような関係のなかにあるかどうかにかかっているのだろう。つまり、ある役柄としていわば匿名的に関係するか、だれかにとっての特定の「だれ」としてホスピタブルな関係のなかに入ってゆくかどうか、である。

・<臨床>とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな官益のなかで、じぶん自身もまた変えられるような経験の場面というふうに、いまやわたしたちは<臨床>の規定をさらにつけくわえることができる。

・苦しみを口にできないということ、表出できないということ。苦しみの語りを求めるのではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。
 ことばが<注意>をもって聴き取られることが必要なのではない。<注意>を持って聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。「注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである」とか、「完全にどんな夾雑物ない注意が、祈りである」、ヴェイユ自身も『重力と恩寵』のなかで述べている。
 この「祈り」はしかし、言葉が生まれる前と同様に、ことばがこぼれ落ちた後にも向けられなければならない。聴く者のその聴き方が、言葉を逸らせる場合があるからである。ことばが大きなミットで受けとめられる、という、あらかじめの核心がないところでは、ひとはことばを相手に預けないものだからである。苦しみをわざわざ二重にすることはないからである。聴く者が聴きたいように話を曲げてしまうというところに、苦しみのなかにあるひとの、尊厳をすら根こそぎ奪われた弱さが、傷つきやすさがある。

・ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟(ま)ってはじめて、ぽろりと零れ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現われ出てくるような<聴くことの力>、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ。

・ふと、医師にひらめくものがあった。眼前の掛け時計が刻む秒針の音が毎分120だということ。その音に少女の脈拍は精密に同期しているのかもしれない・・・。医師がすぐに時計を止めて下駄箱のなかに隠すと、どうだろう、少女の脈拍はすうーっと緩やかになった。それとともに医師の脈もおさまっていった。そのあいだじゅう、世話緒やきたい母親の相手は隣室で同行した主治医がしてくれていた。
 この医師、中井久夫は、少女が感じた苦痛をつぎのように解釈する。
「静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当たっているだろう)という認知に当たっている。

・「ふれる」というのは「さわる」のとはまったく逆の体験として発生している、というのも、「さわる」という行為が主体と客体とのある隔たり(自-他、内-外、能動-受動という区別)をおいた関係として発生するのに対して、「ふれる」というのはふれるものとふれられるものとの相互浸透や交錯という契機をかならず含んでいるからである。「ふれる」ことは「ふれあう」こととして生成するわけである。

・この精神科医たちの活動を救援しにかけつけてくれた地方の医師たちのなかから、あまりに長い待機態勢に小さな不満の声があがりはじめたとき、中井は、「予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる」と答え、その場に「いてくれる」という、ただそれだけのことがじぶんたちのチームにとってどれほどポジティブな意味をもつかを訴えた。

・フランクルは、「ここで必要なのは生命についての問いの観点変更である」と答える。「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」、と。

・「わたし、ほんとうに、生きてていいんですか?」
「いいんだよ、おまえは、そのままで」
他者をそのままそっくり肯定すること、条件をつけないで。

感想
 聴くことの哲学的な視点でした。
あらためて聴くことの意味、難しさを感じました。
『宇野千代の人生相談』宇野千代著
は既に廃刊。
図書館にもありません。
国会図書館にありました。
初めて国会図書館に行って見るかな。

兵庫県斎藤知事に県議会の全会派が「辞職申し入れ」… “不信任の議決”を避けたい「議員たちの思惑」とは? ”斎藤知事が自ら辞職することはない”

2024-09-10 15:03:18 | 社会
 県職員への「パワハラ疑惑」の渦中にある兵庫県の斎藤元彦知事に対し、9日午後、県議会で知事与党と目される「維新の会」が辞職の申し入れを行った。その他の4会派もすでに、12日に斎藤知事に対し辞職の申し入れを行うことを決定している。9月19日に開会する県議会の定例会初日を待たず、なぜ、このタイミングで申し入れを行うのか。この先、知事が辞職しなかった場合、県政の運営にどのような影響を与えるのか。 

なぜ県議会開会直前のタイミングでの「辞職の申し入れ」なのか?
 もし県議会で不信任決議案が提出された場合、現状、県議会の定員は86名なので、全員出席したとすると、仮に維新の会(21議席)が反対しても4分の3以上(議長を除く64名以上)の賛成多数で可決される可能性がある(地方自治法178条1項・3項前段参照)。 兵庫県議会の各会派にとって、9月19日の本会議開会まで待たずに議会の外で辞職要請を行う意味はどこにあるのか。 維新の会については、先の県知事選挙で斎藤氏を支持した手前、議場での不信任の議決に至り「踏み絵」を踏まされるのを避けたいという思惑が見え隠れする。しかし、他の会派はなぜか。東京都国分寺市議会議員を3期10年務めた三葛敦志(みかつら あつし)弁護士に聞いた。 三葛弁護士:「議員の立場としては、なるべく首長の不信任の議決を避けたいという思惑がはたらきます。 なぜなら、『武士の情け』『公開の場で辱めを受けさせない』といった配慮もありますが、首長が不信任決議に対抗して議会を解散する可能性があることによります。 その場合、県議会議員選挙が行われることになりますが、その選挙は選挙費用がかかることに加え、議決した自分自身が落選してしまうリスクがあります。 議員にはそれぞれ、取り組んでいる政策課題があります。任期まで務め上げることを前提に、志を持って活動してきたのに、首長の不祥事が原因で、任期満了を待たずに道半ばで議員を辞めなければならないリスクを負うのは、好ましい事態ではありません。 選挙が4年に1回行われることを前提として人生設計をしている議員も、少なくはありません」 議会が首長の不信任の議決を行うことは、同時に、議会を構成する議員も任期を全うできないリスクを負うことを意味する。だからこそ、首長への「武士の情け」のような配慮もあいまって、首長の側から自発的に辞職してくれることが望ましい、ということになる。

知事が「辞職しなかった場合」の“2つのシナリオ”

議会側の申し入れに従って知事が辞職すれば、新しい知事を選ぶことになる。あるいは、議会が9月19日開会の定例会で不信任の議決を行い、知事がそれに従って失職する場合も同様である。 では、知事があくまでも辞職を拒んで続投しようとした場合、どのような展開が考えられるか。シナリオは2パターンに分かれる。 第一のパターンは、議会が不信任の議決を行い、それに対し、知事が議会を解散した場合である。 選挙の結果、知事に反対する議員が過半数を占めた場合、議会は再度の不信任の決議を行うことが考えられる。再度の議決については決議要件が緩和されており、出席数の2分の1で成立する。この場合、知事は失職することになっている(地方自治法178条2項・3項後段参照)。 問題は第二のパターン、つまり、議会が知事に対し「辞職の申し入れ」ないしは「辞職勧告決議」を行うにとどめ、不信任案の議決を行わなかった場合である。 三葛弁護士:「その場合、知事は『レームダック』と化し、県政の運営はきわめて困難かつ不安定になることが想定されます。 たとえば、予算案を通すには、議員の過半数の賛成を得なければなりません(地方自治法211条、116条)。 知事が独自の政策を実現しようとしても、その政策的経費が認められる可能性は極めて低く、ほぼ絶望的かもしれません。 市議会議員を務めた経験から、肌感覚として、議会が不信任案決議をしようと思えば可能な状態、つまり議会で首長の味方をしてくれる(少なくとも不信任案に反対する)議員が4分の1より少ないというのは、首長にとって相当に切羽詰まって苦しい状態です。 ましてや、現状、知事は与党と目される会派も含め、すべての会派から辞職を要求されています。 それでも知事が留任しようとすると、県政の著しい停滞を招くのは避けられないでしょう。改めて県議会が不信任の議決へと動く可能性があります。 そして、事実上は、『死に体』となった知事に対し、『猫の首に鈴を付けるのが誰か』、つまり誰が引導を渡すのか、ということが注目ポイントとなります。 また、住民からの解職請求(リコール)の動きが出てくる可能性も考えられます。」 斎藤知事は、想定されるこれらのシナリオを前提として、県議会定例会初日の9月19日までに自身の進退について最終的にどのような判断を行うのか。注目される。

感想
 斎藤知事は少しでも長く知事でいたいのです。
「オレは知事だぞ!」と言いたいのです。
ですから、議会を解散するでしょう。
そうすると数か月知事で居られます。
ネットで調べると、112万8千円/月のお給料がでます。
粘って5か月いたら500万円入ってくるのです。
ほぼ日本人の世帯主収入です。
 強い力が働かない限り、辞めないし、不信任決議されても議会解散です。
困った知事を選んだ県民と維新、それと推薦した自民党の責任ですから。
維新だから大丈夫と思うと、こういうことがあるのでしょう。

学歴や肩書より、その人の人格から判断しないといけないのでしょう。

「日本語おもしろ雑学」坪内忠太著 ”知らないことばかり”

2024-09-10 09:50:50 | 本の紹介
・「敗軍の将、兵を語らず」の兵は部下のことではない?
「兵法」の「兵」

・「さいさきが悪い」というのは、どこが変?
「さいさき」は漢字で「幸先」だから、後に続くのは「いい」でなくてはならない。

・下手くそな役者のことを、なぜ、大根というか?
どんな食べ方しても、どんなにたくさん食べてもお腹を壊さないことだ。絶対に当たらないのだ。

・あたたかい部屋を漢字で書くと、「暖かい部屋」か「温かい部屋」か?
暖かいはおもに気温、温かいは物の温度を表すと覚えておいてもいい。

・刺身はどう見ても切り身なのに、なぜ「刺す」か?
一般の人には何の魚かわらない。そこで、昔は、魚の尾鰭を切って身に刺して出した。だから「刺身」というのだ。

・「その一言で夫婦の絆が深まった」は間違い。どこが?
絆とは牛馬をつなぎとめる綱のことで、それが「人と人との結びつき」に転用されたものだが、綱だから深くはならない。「強くなる」「太くなる」「固くなる」という言うべきである。

・「五里夢中」と書いたので間違い。なぜ?
「五里霧中」

・「袖振り合うも多少の縁」は間違い。どこが?
「他生」

・嫌な相手を「虫が好かない」というが、この虫は何の虫?
(道教では)人体には3匹の虫が住みつき、いつもその人を監視している。そして、時々抜け出し大帝のもとにむいて、その人の行状を報告するのである。日本では、江戸時代になって、この3匹に、それぞれ3匹の仲間がいるとし、合計9匹の虫が体内で蠢(うごめ)いて快、不快、上機嫌、不機嫌などの感情(や意識)を引き起こすと考えられた。
 そこから。「虫が好かない」「腹の虫がおさまらない」「虫酢走る」「虫の知らせ」「虫がいい」「泣き虫」「弱虫」などの言葉が生まれた。

・「志望校に合格して有頂点になる」は間違い。なぜか?
「有頂天」

・なぜ、別れる時の挨拶は「さようなら」か?
「左様(然様)ならば、おいと申す」と言っていた。その言葉が省略され「左様なら」だけが残ったのである。

・「なおざり」と「おざなり」を上手く使い分けられるか?
なおざりは等閑と書く漢語で、なすこともなくうかうかと過ごすこと。
一方、おざなりは漢字で御座なりと書き、その場しのぎでいい加減にやることである。

・酔っぱらうことをなぜ「トラになる」というか?
昔、酒のことを竹葉といった。そして、竹藪につきものの動物はトラだから。

・「今年は台風の当たり年」というのは、少しおかしい。なぜか?
「当たり年」は、本来、果物の収穫順調なことを指してzいうのであって、そこからいいことがたくさん起こった時に使う。

・夫婦の縁を結ぶ目に見えない絆を、なぜ「赤い糸」というのか?
中国・北宋の説話集『太平広記』の「赤い糸」
https://mag.japaaan.com/archives/173088
「小指には運命の赤い糸…」の伝承の起源は中国の摩訶不思議な恋物語にあった?

・「君は僕にとってかけがいのない人だ」はちょっと変?
「かけがえのない人」
「かけがえ」とは「掛け替え」で、床の間の、掛け軸の「掛け替え」のこと。「掛け替えがない」のだらか、他のものにかえられないということだ。
「かけがえのない人」は、だから、とても大切な人である。これに対し、「かけがいのない人」は「賭けるほどの甲斐がない人」だから、どうでもいい人だ。

・「あの人の話は、いつも口先三寸だ」は間違い。なぜ?
「舌先三寸」

・常識はずれを無茶というが、「茶」が無いことがなぜ常識はずれか?
昔から、日本人の習慣として、お客が来たたお茶を出して接待するのが常識になっている。だから、用件に気を取られ、うっかりお茶をださないと「著もださない!」とその非常識を責められた。そこから常識はずれを「無茶」というようになった。

・操業が古いだけの店を「老舗」とはいわない?
「しにせ」は大阪で使われていた「仕似せる」が語源の言葉だ。
 これは文字通り真似ること、すなわち、セインぞ代々の商売のやり方をそのままに守っているという意味である。そうすることで客の信用が築かれ、おのずと店が長く続く。古いだけで、儲けのために商売のやり方をその時々で買えた見せ(企業)は、老舗と言わない。

・皇居吹上御苑の入り口を、なぜ半蔵門というか?
江戸時代には、この門の前部に伊賀忍者の棟梁・服部半蔵の屋敷があり、一朝有事の時は、半蔵が守ることになっていたので半蔵門と呼ばれた。

・あの人はいつも「的を得た発言をする」は、どこが変?
「的を射る」

・結婚式の祝辞でよく聞かれる「鴛鴦(えんおう)の契り」とは?

・四字熟語の「自我自賛」は明らかな間違い。なぜ?
「自画自賛」

・「あの言い方には怒り心頭に達した」は間違い。どこが?
「怒り心頭に発する」

・この四字熟語「画竜点晴(がりょうてんせい)」はどこが間違っているか?
「晴」ではなく「睛」、「睛」はひとみである。

・ヒマワリの花は本当に太陽の方を向いて回るか?
ヒマワリは、太陽の無機に首を回す不思議な花ということでつけられた和名だが、この動きはつぼみの期間の成長期だけの現象で、花側咲くと動かなくなる。

・「寸暇を惜しまず勉強した者は合格する」は間違い?
「寸暇を惜しんで」である。

・「箱根では大名行列の催しが古式ゆたかに行われた」は間違っている?
「古式ゆかしく」

・「みんなに激を飛ばす」は、気持ちがわかるが字が違う?
「檄を飛ばす」

・「焼けぼっ栗に火がつく」はこれでいいのだろうか。どこがおかしい?
「焼けぼっ杭(くい)

・「インド株でぼろ儲け。濡れ手に泡だったよ」はどこが変?
「粟」

・「進退谷まる」と書いて「しんたい〇〇まる」と読む。何と読むか?
「きわまる」

・人にこびへつらう人を、なぜ「ゴマすり」というか?
すり鉢で擂り粉木を使ってゴリゴリつぶした。すつと凹んだところにつぶれたゴマがこびりつく。その容姿が、むやみに他人に追従する人物に当てはまるようだというので「ゴマすり」という言葉が生まれた。

・希望者が多いことを「目白押し」というが、なぜ目白か?
小鳥のメジロである。この鳥は枝に横一列に止まり、まるで大勢で押しくらまんじゅうしているように見えることがある。これを目白押しと。

・バカのことを、なぜアホウというか?
アホウは漢字で阿呆と書くが、もともとは阿房(あぼう)だった。阿房とは阿房宮(きゅう)のことで、秦の始皇帝が転嫁を統一した後、建造した巨大宮殿である。・・・
「後宮の美紀3,000人」だ。この史実から、日本では、はたはずれにバカなことをする者を「阿房」というようになり、さらに関西地方では、「阿保」と字を書きかえて使われるようになった。

・人生の栄枯盛衰ははかないという故事は「一睡の夢」でいいか?
ご飯が炊き上がらないくらいの短い間だからこれは「一炊の夢」書くのが正解だ。「「盧生の夢」「邯鄲の夢」ともいうが、一睡の夢」は間違いだ。一睡の夢」は間違いだ。

・なかなか結末に至らないことを長丁場というが「丁場」とは?
丁場は、江戸時代の、宿場と宿場のことである。その距離はマチマチだが、時に遠いところを、駕籠かき人や飛脚が「長丁場」といっていた。

・「あの人が社長だとはゆめゆめ思わなかった」はよくない言い方。なぜか?
「ゆめゆめ」は漢字で「夢々」ではない。「度々」だ。だから、「ゆめゆめ思わなかった」は「夢にも思わなかった」とはならない。「努」は「けっして」という副詞なので、「努々」は「けっしてけっして」だ。だから禁止表現の「してはならない」が次に続く。「あの人が社長でないとはゆめゆめ思ってはならない」ならいい。あるいは素直に「あの人が社長だとは夢にも思わなかった」でもいい。

・キリスト教ではなぜ、お祈りの後「アーメン」というのか?
「然り!(その通りだ)とだけいって済ますことにした。そのヘブライ語(ユダヤ人の母語)が「アーメン」である。これがそのまま、古代ユダヤ教から派生したキリスト教にも受け継がれた

・「社長は多忙で取りつく暇もない」は間違い。どこが?
「取りつく」とは「取りすがる」だから、「暇に取りすがる」では意味が成り立たない。正しくは「取りつく島がない」だ。
もともとは広い海で、船頭が、船を寄せておく島のないことをいい、そこから相手がつっけんどんなことにも使うようになった。

・「このたわけもの!」と人をののしるが、「たわけ」とは?
「たわけ」を漢字で書くと「田分け」である。
何人もの子どもに田を分けてやると、一人の面積は小さくなる。その子が自分の子どもに分けるとさらに小さくなり、さらにとどんどん小さくなって、とうとう農業を続けられなくなる。
 だから「田分け」は愚か者のすることであり、そこから、「たわけもの」という言葉ができた。

・「前者の轍を踏まないように頑張れ」には間違いがある?
「前者」がダメ・「前車の轍を踏まない」だ。轍とは車輪の跡で、「前車の轍を踏む」とは、前に通った車の跡をそのままなぞることだ。そのままなぞるのだから、前の人と同じ過ちを繰り返すことになる。だから踏まない、のだ。

・相談することを「打合せ」というが、なぜ「打つ」か?何を打つのか?
コンサートでは、演奏が始まる前に音合わせが行われる。オーケストラえはコンサートマスターのバイオリンにみんなが音程を合わせる。雅楽でも演奏前に、打楽器を打ち鳴らし、弦楽器、管楽器の調子を合わせる。これが「打合せ」だ。

感想
 全部で286個が取りあげられていました。
 日本人なのに日本語知らない、間違って使っているとつくづく思いました。

 また、その言葉の語源を知ると面白いですね。
阿呆と馬鹿は関西と関東ではニュアンスが違います。
関西で阿保とは”愛らしい”ニュアンスもあります。
桁違いのこと、想像できないことをするからの意味があったのでした。