幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

ソニー復活のワケは「働き方」にあった?「配属ガチャ」とは真逆の驚きの人事制度とは ”やはり経営は人なのか?”

2024-09-22 10:06:36 | 社会

 売上高約13兆円、営業利益約1兆2000億円(2023年度決算)と、ここ数年、ソニーグループの躍進が著しい。テレビ事業の赤字から一時期どん底に沈んだソニーは、なぜ復活できたのか? ゲーム、音楽、映画といったエンタテインメント事業が伸長して売上高の6割を占めるようになったのもその一因だが、その根っこにはソニーの「働き方」がある。「配属ガチャ」のデメリットが言われて久しいが、これとは真逆の人事を貫いてきたのがソニーだ。ソニーを40年以上取材し、このほど『ソニー 最高の働き方』を刊行した経済ジャーナリストの片山修氏がソニーの人事の肝を明らかにする。 

● 配属ガチャで離職する 若手社員も少なくない  
 「配属ガチャ」――。新卒社員の多くは、入社後の配属先に不安を持つ。やりたくない仕事をやらされるかもしれない。パワハラ上司のいる部署に配属されるかもしれない。配属先が、自分の希望や意思に関係なく運次第で決まってしまう。そのことをコインを入れてレバーを回せばランダムにカプセルが出てくる玩具になぞらえ、皮肉を込めて表現した言葉が「配属ガチャ」だ。  希望とは異なる部署に配属された新卒社員の中には、離職を選択する人も少なくない。離職までいかなくても、モチベーションや生産性の低下は避けられない。企業にとっては大損失だ。  なぜミスマッチが起きるのか。若い世代は、自分の価値観を大事にする。価値観が合わなかったり、居心地が悪いと感じた仕事には距離を置く。やりたくない仕事を我慢して続けるのは苦手だ。また、幅広い業務をこなすゼネラリストより、早く専門性を磨きたいという意識が強い。会社が敷いたレールに乗るのではなく、キャリアパスやライフスタイルを自分で選び取り、成長実感を得たいと考えているのだ。  しかし、年功序列や終身雇用にしばられた日本の雇用慣行は、こうした若い世代の価値観に対応できていない。ミスマッチの最大の原因だ。  これまでの日本の会社は、会社の求める人材像に沿って社員を採用し、そのキャリア構築も企業が担っていた。社員もキャリア構築を企業に任せることが普通だった。しかし、年功序列や終身雇用は大きく崩れた。就職した会社で定年まで働けるとは限らない。会社の辞令にしたがって配属された部署で仕事をこなす会社任せのキャリア構築は限界にきている。キャリア構築を会社に委ねることはむしろリスクでさえある。

 その結果というべきか、日本企業の社員と企業の信頼の強さを表すエンゲージメントスコアは、世界の最低レベルだ。つまり、会社に対する愛着、信頼、貢献意識を持つ社員の割合が極端に低い。社員がキャリア構築を主体的に管理できないことが理由の1つではないか。  若い世代は、年配の人たちの働き方を見て、ああいう働き方はやっていけないと思い始めたのだ。このままでは、若い世代の離職は止まりそうもない。 

● 「自分のキャリアは自分で築く」を 創業以来、貫くソニー  
 ここに、例外がある。ソニーグループだ。  ソニーには、「自分のキャリアは自分で築く」という不文律がある。会社が一方的に社員のキャリアを決める「配属ガチャ」とは、一線を画す。  まず、新卒採用は、職種コースごとに採用を行う「コース別採用」だ。入社後は、社員一人ひとりが主体性を持ってキャリアを構築するための多様な選択肢が用意されている。そこに根づくのは、社員と会社の対等な関係性である。  ソニーは創業以来、会社と社員の対等な関係を大切にしてきた。創業者の1人の井深大が起草した「設立趣意書」には、「一切の秩序を実力本位、人格主義の上に置き個人の技能を最大限度に発揮せしむ」とある。  
 もう1人の創業者の盛田昭夫が新入社員に語り続けてきたのが次の言葉だ。  「ソニーに入ったことをもし後悔することがあったら、すぐに会社を辞めたまえ。人生は一度しかないんだ。そして、本当にソニーで働くと決めた以上は、お互いに責任がある。あなたがたもいつか人生が終わるそのときに、ソニーで過ごして悔いはなかったとしてほしい」  
 その盛田が1966年につくったのが、「社内募集制度」だ。自ら手をあげて希望する部署やポストに応募できる仕組みで、マッチングが成立したら3カ月以内に異動が決定する。すでに累計8000人以上がこのプログラムで異動している。  自律的なキャリア構築は、「配属ガチャ」の末路のやらされ感とは真逆だ。社員は自らの責任で働く場を選び、そこから得た学びや人とのつながりによって自分のキャリアをつくっていく。自分らしさを押し殺して求められる役割に応えるのではなく、自分のキャリアを自分の意思でつかみとるのだ。やりがいとモチベーションはおのずと高まる。 

● 個人と会社が 互いに高め合う関係を築く  
 ここへきて空前の好業績を上げているソニーだが、かつて2000年代にはどん底を経験した。04年度にテレビ事業が赤字に転落し、08年度から14年度の7年間の連結純損失の累計は1兆円を超えた。  求められたのは、復活に向けた新たな挑戦だった。事業ポートフォリオの大胆な組み替えを行い、リソースのシフト、スキルのシフト、マインドのシフトに取り組んだ。同時に、創業以来、受け継がれてきた個人と会社の関係性をいま一度、結び直した。  新たに打ち出したのは、個人と会社が緊張感を持って互いに高め合う関係である。その関係性の上に立ってつくられたのが、本来の担当業務を続けながら、業務時間の一部を別の仕事に充てられる「キャリアプラス制度」、仕事を通じて高評価を獲得した社員にフリーエージェント(FA)権が与えられる「社内FA制度」、社員自らプロフィールを登録し、必要とするスキルや経験が合致した場合に求人中の職場や人事から声がかかる「キャリアリンク制度」――である。  これらの制度は、異動を促すためにあるのではない。社員の自律的なキャリア選択を支援するのが目的だ。先ほど紹介した創業者の2人、井深と盛田の理念を具体化した制度といえる。  賃金制度も変えた。「ジョブグレード制度」を導入し、仕事の役割に応じて賃金を払う制度に移行した。年功序列的要素、属人的要素は払拭された。  2021年4月のソニーグループ発足にあたっては、人事フィロソフィー「Special You, Diverse Sony」を定めた。「主役はあなた、多様性こそがソニーの競争力」という意味である。  現在のソニーを牽引するのは、自らの意思でプロジェクトを立ち上げ、さまざまな部署からメンバーが集まって誕生した事業だ。多様な個の集まりが、独創性ある商品やサービスをつくりだしている。  彼らの肉声と息づかいを拾いながらまとめたのが、『ソニー 最高の働き方』(朝日新聞出版刊)である。一人ひとりがやりたい仕事に挑戦し、果敢に人生を切り拓いていく。会社はチャレンジする個人を後押しする。そこには、個人と会社の幸福な関係性がある

感想
 人が頑張れる仕組み、そして頑張ったらそれ相当の評価がされる仕組みが大きいのでしょう。
 盛田氏の言葉はその通りですね。
よく、「異動したい」と上司に言うと、「今の職場で頑張って成果を出してから」という場合がありますが、今の職場で頑張れないから言っているのです。
 ただ、転職と同じで、転職を繰り返してどんどん厳しくなる人もいます。
 自分の人生をどうしたいかですから、居ると決めたらそこで頑張ることなのでしょう。
 また出たらその職場で頑張ることなのでしょう。
 ブラック企業、ブラック職場もありますが、隣の芝生は青く見えがちです。
言えることは、心身を壊してまでその仕事に拘らないことだと思います。

「ながい旅」大岡昇平著 ”第二次世界大戦中、空爆を行った米軍搭乗員の処刑を命令した容疑で、B級戦犯として起訴された東海軍司司令官・岡田資中将”

2024-09-20 17:44:00 | 本の紹介

・日本政府は米世論に答えるように、1929年10月19日、日本防衛総司令官名で、次のように布告した。
大日本帝国領土を空襲し、我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして、非道の行為ありたる者は、軍律会議に附し、死又は重罰に処す。満州国又は我が作戦地域を空襲し、我が権内に入りたる者亦同じ。
非道とは「人道に反する」無差別爆撃のことである。右に対し、アメリカ軍は翌18年4月12日、左の声明を発した。
「アメリカ政府は、このような野蛮な無慈悲な行為に対して、責任のある日本政府の将校に相当な処分を加えるつもりである」
 そして戦争法規を改正し、たとえ上官の命令であっても、人道に反する行為を行った下級者も処罰を逃れないとした。連合国の名で日本とドイツ政府に通告した。国内および外地で、B・C級戦犯が処刑されたのは、この条項によってである。
 アメリカ軍でも上官の命令は絶対だったが、一般刑法には場合によっては不服従を許す条項があり、それを取り入れたといわれる。ところがこれは上官の命令は朕の命令と心得よ、とさとされた日本兵にとっては、理解し難く、また実行できない事柄であった。
 同じ条項がニュルベルク判決にもある。一般に戦犯裁判は、戦勝国が自国の法律によって敵敗国の書兵を裁いた不当なものであったことは、その後、戦勝国がアルジェリア、ヴェトナムで行ったことによって、立証されている。

・B29による空襲は、サイパンのB29爆撃司令官が、軍事工場目標主義のハンセルから、ヨーロッパの無差別爆撃の指導者ルメイに交代したことによって様相を一変する。昭和20年2月19日の東京空襲から、夜間の焼夷弾爆撃中心になったのである。
昭和17年10月19日の「布告」と同日付で日在の軍律を定めた。
第一条 本軍律は帝国領土、満州国又は我が作戦地域を空襲し、東部、中部、西部、北部、朝鮮及台湾各郡の権内に入りたる敵防空機搭乗員に之を適用する。               
第二条 左に掲ぐる行為をしたる者は軍閥に処す。
1.普通人民を威嚇又は殺傷することを目的として爆撃、射撃其の他の攻撃を加ふる行為。
・・・
第三条 軍閥は死とす。但し情状に依り無期又は10年以上換金を以って、之に代ふることを得。
 これは10月15日のドゥリットル搭乗員処刑後に作られたので、「附則」の二で施行前の行為にも適用とかかればならなかったのである。これを事後法といって、法律一般にかかわる禁止条項で、いかにも苦しい。

・岡田中将は、裁判が始まってから、起床は毎朝五時、六時半頃出発、午後六時まで帰れない。それまでに、後に遺稿『毒箭』にまとめられる仏教に関するノートを書き始めていたが、横浜法定が始まってからは、暇がなくなった、とこぼしている。
 『毒箭』はむろん毒を塗った矢のことである。矢に当たったら、まずそれを抜かねばならぬ。矢が当たったままで、どうしたらよかろうかとか、毒薬の成分がどうかとか考えるのは愚の骨頂である。これは物だが説いた譬えで、「阿含経」と「大涅槃経」にあるという。

・裁判は公開であるが、まだ戦後の生活は苦しく、傍聴に来るのは、近親者だけである。
 東海事件が報ぜられたの21年1月で、米軍の軍内紙「スターズ・エンド・ストライブス」に記事が出てからであった。市ヶ谷法定のA級戦犯裁判はまだ結審しない。しかし、21年10月キーナン検事は天皇と財界に戦争責任なし、と声明している。22年3月、トルーマン・ドクトリン発表、日本を極東における対ソ砦とする方針がきめられている。

・岡田中将の証言で注目すべき細目を列記すれば――
1.作戦中は命令に違反しても、その目的が達せられればよい。
2.命令に違反しても、精神は残る。
3.略式裁判による結果を、第一総軍に報告するのを怠った不備は認める。
などであった。

・筆者が岡田質中将の事蹟に惹かれたことの第一は、横浜法定における「法戦」を、本土決戦の延長と考え、裁かれるとの受身の意識を持たずに、戦おうとしたことである。第二は日蓮宗信仰であった。

感想
 岡田中将のことは知りませんでした。
岡田中将は責任を一人で受ける覚悟で裁判を戦ったようです。
処刑を覚悟して挑まれたようです。
 上から爆撃機搭乗員を処罰するようにとの指示がありました。
それに従って、捕虜を処刑しました。

 一方、米国は「捕虜を処刑した責任者は処罰する」と警告を出しており、その通りに行いました。
 A級、B級、C級戦犯の裁判です。
下記もその一例です。

 戦勝国の法律に従って裁判が行われたのです。
日本の法律というか日本の軍法に従ったことが、捕虜殺害という国際法並びに米国の法律に違反しため、上官の命令で捕虜を殺害した実行者と裁判の対象になったのです。

 このような本を読むと、もっと日本の軍隊がしてきたことを、連合国が何に基づいて裁判をしたのかを知らなければと思いました。

 この問題は「会社の上司から不正を指示されたらどうするか?」という問題にもなります。
 過去から学び、それを生かし、不正な指示があっても決して従わないことが自分の人生を危機から守るのかもしれません。
 ただ会社では、軍法に乗っ取り処刑も含めた処罰という厳しいことはなく、ボーナス減らされたり、左遷させられるだけですから、気持ちの持ち方一つです。
 不正なことを行うとずーっと心が痛みます。
それよりも、自分の力を蓄えて別の会社に転職するのが良いのでしょう。
ブラック企業で心身を壊す前に逃げることです。

 上が交代して、軍事施設から街全体を爆撃する方針に変わったそうです。
トップの考え方でも中央から命令があっても、それをどう解釈して実施するかは、そのリーダーによって左右されるようです。

「毒箭」の仏教の譬えの教えは、しっかりと心に落とし込んでおくことのように思いました。

 小林製薬の健康被害が発生しているのに、原因究明をしていました。
まさにこの譬えのような愚かなことをしていたようです。

東海軍事件 POW研究会よりhttp://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html#10
(GHQ報告書16号、73号、209号、261〜267号、1502号  再審記録251号、289号)
東海軍(第13方面軍)では、1945年4月7日に名古屋市近郊で捕獲したB29搭乗員3人は東京に送り、4月24日に静岡県沖で捕獲したB29搭乗員3人は名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送った。これらのB29搭乗員は市街地無差別爆撃でなく、軍需工場を爆撃したものであったため、捕虜に準じた扱いを受け、終戦後本国へ帰還することができた。
しかし、それ以後に捕まった38人のB29飛行士は、市街地無差別爆撃との理由で処刑されるに至った。
(A)軍律裁判による11人の処刑
裁判の期間:1948年1月22日〜3月4日
1945年5月14日の名古屋空襲時、名古屋市西区児玉三丁目と伊勢湾に撃墜された2機のB29の搭乗員11人が捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部(名古屋城内)へ送られた。
彼らは7月11日に東海軍の軍律会議にかけられ、2時間ほどの審理の後、無差別爆撃との理由で全員が死刑判決を宣告され、翌日、東春日井郡小幡ケ原射撃場で斬首により処刑された。
戦犯裁判の結果は、軍律会議の検察官役を務めた伊藤信男法務少佐が死刑(再審で無期懲役)、審判官役を務めた松尾快治少佐が懲役20年、陪席審判官役の山東広吉法務中尉が懲役20年、同じく片浦利厚中尉が懲役15年となった。
(B)軍律裁判なしの27人の処刑
上記以後に捕まった27人の搭乗員は、軍律裁判も省略し、2回にわたって斬首により処刑された。
6月28日   瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で11人を斬首。
7月14日   東海軍第2兵舎裏で16人を斬首。この処刑は、軍司令部に勤務する軍人・軍属100人ほどが遠巻きに見守る中で行われ、刺突演習という残酷な方法がとられたとの証言もある。
これら38人の飛行士の遺体は現場に埋葬されたが、敗戦後東海軍は証拠隠滅をはかり、遺体を再発掘して火葬にした。
戦犯裁判において、東海軍司令官の岡田資中将は自己責任を認め、部下をかばうとともに、米軍に対しては「無差別爆撃こそ国際法違反であり搭乗員の処刑は正当。軍による搭乗員の虐待はなく、むしろ激高した民衆から危害を加えられるのを防いだ。斬首刑は、日本古来の武士道にもとづく処刑方法であり、野蛮とは言えない」と主張して「法戦」を挑んだ。

判決の結果は、死刑執行は岡田資中将のみ。高級参謀の大西一大佐が死刑(再審で無期懲役)、米村正熊大佐が懲役25年、足立誠一中佐が懲役17年、保田直文少佐が懲役15年、処刑実行者の山田仂雄中尉が懲役20年、成田喜久基中尉が懲役30年、菅井康治少尉、田辺光夫見習士官、谷田具潔見習士官、桑田春雄曹長、川上末高軍曹、鶴田義亮軍曹、信田英司軍曹、山本英三郎軍曹、近藤清元軍曹、藤田隆義軍曹、古山又一軍曹、土山敏之伍長、林重朝上等兵が懲役10年となった。

「ストレス社会で考えなくていいことリスト」井上智介著 ”周りのことを気にし過ぎないことかと”

2024-09-18 14:56:14 | 本の紹介
・しんどくなくなる方法
 「フフに生きる」
 Laugh(笑い)&rough(大ざっぱ)

・ネチネチしたタイプというのは、相手を下げることで自分を上げたい人であることが多いです。ミスを執拗に責めることで、自分の正しさを証明したいのです。

 終わりが見えると心に余裕が生まれる

・「断ると使えないヤツだと思われるかな」とは考えなくていい

・交渉に慣れていない人は「枕詞」とつける
「この状況で着手すると、片手間になってしまいそうなので、かえってご迷惑をおかけしないか心配です」
「全力で取り組みたいので、1週間いただけないでしょうか」

・「タイムアウト法」で怒りを減らす
 簡単に言うと、時が経つのを待つということです。
ただし、じっと待つことが正解ではありません。
ポイントは、体を動かすことです。
一番やってはいけないことは、自分の咳でじっと座っていることです。

・「会社を辞めよう」とは考えなくていい
心が壊れてしまいそうなら、会社を辞める選択は、大いにアリです。
それなのに、私が「会社を辞めようと考えなくていい」と言ってるのは、すぐに会社を辞める前に、できることがあるからです。

・「断ると悪い」とは考えなくていい

・実は自殺未遂した方が搬送されてきた場合は、対応の流れが決まっています。そのまま帰宅させると同じことをしてしまうので、入院の手続きを取って、その日はカギのかかる部屋に入っていただくというのがお決まりのパターンです。

・基本的には1回、その人がその会社で体調が悪くなってから、配置転換を推奨するのは原則1回というのが、産業医の中でのルールになっています。

・自己肯定感が高い人は、どんな自分も丸ごと受け止められるので、ダメな部分を認めることもできるし、人に流されずに自分の心に従って行動することができます。
 一方、自己肯定感が低い人は、自己否定的なので、周りが褒めてくれても自分のいい部分を認めることができません。

・私自身は、昔読んで本に載っていた言葉に常に支えられています。
「自分の代わりはいくらでもいるので、どんどん逃げましょう」

・「いかにして意欲を持続させるための環境を作り出すか」
 ①目標を具体化すること
 ②目標を共有すること
 ③目標を忘れないこと
 ④目標達成のための行動計画を具体的に立てること

達成できなかった事柄のほうが、達成できた事柄より頭に残っているという心理的な現象のことを言います。

・「頑張る」を6種類使い分ける
 ①全力で頑張ろう
 ②ちょっと頑張ろう
 ③できる範囲で頑張ろう
 ④ぼちぼち頑張ろう
 ⑤誰かが頑張るだろう

・不調に意識を向ける「ボディスキャン法」
 ①横たわる
 ②首から上に意識を向け、その中で疲れが出やすい3つの部分に集中する
 ③上半身に意識を向け、その中で疲れが出やすい3つの部分に集中する
 ④下半身に意識を向け、その中で疲れが出やすい3つの部分に集中する

・心のコンディションを確認する
 ①どんな気持ちか自分に問いかける
 ②そのときの気持ちに合うラベルを心に貼る
 ③ありのままを受け入れる

・「4・2・6呼吸法」で心をメンテナンス
 ①一人になれる静かな場所で横たわる
 ②自分が呼吸をしていることを意識する。そのまま約1分
 ③鼻から4秒かけて息を吸い、2秒止めて、6秒で細く吐く
 ④約10分で終了
 実際、医療の現場では、この呼吸法を実践していただくことで、薬の量を減らせることも多々あります。

・自分にSOSを出せる人は、メンタルが強い人だからです。

感想
・『自分が悪い』と考えなくていい
・『いつまでこれが続くのだろう』と考えなくていい
・『失敗したらどうしよう』と考えなくていい
・『なんであいつばっかり』と考えなくていい
・『やり返してやる』と考えなくていい
・『誰にでも笑顔でいないと』と考えなくていい
・『やる気を出さなくては』と考えなくていい 

 悪く思われたくない、良く思われたいの気持ちが無理をしてしまうのでしょう。
視点を変えることが生き易さにつながるようです。
 今のありのままの自分を受け容れる。
いろいろ失敗したり、できないこともあるけど、「よくやっている」と認めてあげることなのでしょう。
 こんな自分を”愛らしい”と思うことがベースにないと、常に周りの顔色を見てしまうのかもしれません。

いのちの電話シンポジウム 「依存症といのち」 司会;米沢宏氏、講演;成瀬暢之氏、高知東生氏

2024-09-15 18:15:18 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
第一部
司会;米沢宏氏
 つくば大学出身で、稲村先生の教室で学んだ。
依存症者の自殺が多い。

成瀬暢之氏 埼玉県立精神医療センター
 「依存症の生きづらさと回復について」
 回復を望むのであれば、依存症者の人を「病者」として支援することが必要です。
依存症は病気である。凝らしめてよくなる病気はない。むしろ悪化する。
依存症やの物質使用は責められるべき「悪」ではない。
周りから、「やる気のなさ」と責められる。

依存症とは
 風鈴とクーラーの話
昔はいろいろ工夫していて、暑さを我慢していた。
今はすぐにクーラーをすぐ付ける。
今はクーラーがあるのが当たり前。
便利なものに慣れると、それなしに暮せない。
「あなたはクーラー依存症ですから、うちわで我慢してください」
と言われたら怒るでしょう。
快感を得られても、快感は減弱していく。
同じ快感をえるためには、より強い刺激が欲しくなる。
乱用;物質使用上のルール違反
異存;物質使用のコントロール障害
中毒;物質使用によるダメージ
使用障害・乱用+依存(DSM-5)

1.依存症とは
物質使用のコントロール障害
アディクションとは
依存症に加え、行動のコントロール障害も含む概念
ギャンブル、ゲームなど
107万人が該当。医療機関に訪れる人は5万人/年

2.依存症の背景にあるもの
「意思が弱い」「だらしない」「自己中心的」「甘えている」などは依存症の症状
依存症に共通した特徴
①自己評価が低く自信をもてない
②人を信じられない
③本音を言えない
④見捨てられる不安が強い
⑤孤独で寂しい
⑥自分を大切にできない。

実は頑張っている人。
「人間不信」と「自己否定」
そのため人とつながっておらず、孤独で、人から癒されていない。

多くの人は解決できないつらさを一人で抱えて辛い状況にある。
幼少期の辛い体験を持っている。

「人に癒されず生きづらさを抱えた人の支援」

小児期逆境体験を持っていると、うつ4.6倍など(10の内4つ以上)
逆境体験が多いほど、「人間不信」が強く、「ストレスに対処する能力」が低い。

死にたいと語る人が多い。
生きるのが辛い。

「アルコール」「うつ」「自殺」は関係が強い。

3.依存症からの回復
6つの問題からの回復が依存症の回復
突破口は、「本音が言えるようになる」
そこで自助グループが必要になる。

「断酒会」は家族も入った会員制
人に癒されるようになると、酒や薬物に酔う必要はなくなる。
「正直な気持ちを安心して話せる場所」をもてれば、そこで人は癒される。
回復が進んだ人は、自分のひどかった経験がこれから回復を望む人の手助けになり、自己肯定感が高まる。
支援する側に回る。

自助グループで「仲間」と呼び合うと仲間になる。

「信頼できる人間」と「安心できる居場所」が必要

4.依存症者への望ましい対応

家族から止めなさいと言われると6割くらいは使いたくなる。

薬物依存は、苦しさがまぎれるからが58.8%
苦しいから止められない。

依存症はメンタルヘルスの問題。

患者一人ひとりに敬意を持って接する。
対等の立場にあることを常に自覚する。

依存症者は健康なひとの中で回復します。
信頼をはぐくめる場所において回復します。

5.新たな依存症支援の考え
コツを1つ挙げるとしたら、それは、「やめさせようとしないこと」である!」

止めることを無理強いしない。

薬物があったから、これまで生きて来られたと思えるような人が多い。
いのち綱が人ではなく物質だった。
問題は、「止めない」のではなく「止められない」ことである。

ハーム・リダクションアプローチとは?
止めさせることより、害を減らすこと。
注射器の回し使いによる感染があるなら、注射器を配れば良い。
困っていることを支援する。

「無理にやめさせようとしない」 信頼関係を築きやすくなる。

やめさせようとする

スティグマを軽減する」 自尊心を尊重する
患者は周りの目とも戦う必要がある。

患者さんと向き合うまでに10年かかった。
家族も傷ついている。
依存症の回復を妨げているのは、賞イヤ社会の誤解・原研のスティグマ

敷居の低い支援
「底つき」と「共依存」の誤解
「底つき」まで持って行こうとしない。
「共依存」は、治療者が熱心に関わったり親切にしてはいけないということではない。

6.支援者に大切なこと
信頼関係を築くために
こちらから信じることから始まる。
こちらが余裕がある。
回復を信じられる。
共倒れをしないこと。

人に癒されている人が癒す人になる。


高知東生氏
『生き直す 私は一人でない』
母を自死で亡くしている。

2016年6月24日薬物で逮捕され、それから8年。
多くの人に支えてもらって今がある。

なんで有名な女優と結婚して薬物に手を染めてしまったか。
宝物をなんで裏切ったのか。
隠し事がたくさんあった。
エステや加圧トレーニングの店を次々オープン。でも上手く行かなくて大きなストレス。
薬物を使っていた女性と知り合い、不適切な関係を持った。
今考えると、薬物を使って話を聴いてくれる人がまともな人ではないのは分かるのだが。
見つかったら人生をダメにするとわかっている人に話を打ちあけていた。
秘密を握りあう恐怖に変わって行く、抜けだせなくなった。
ヤバいから止めようと言っても、お互い「大丈夫」と言い続けていた。
抜けだせなくなっていた。
大切な家族や友人を失った。
店の退去費用、従業員の補償などで貯金を使い果たした。
クルマや時計なども売った。

苦しかったのは2年目
一人で部屋に引きこもっていた。
マスコミに叩かれ、日本中を敵に回していたように感じた。
友だちのほとんどが連絡をブロックされた。

執行猶予の4年があければ、「あの人が助けてくれるのでは」と希望を持っていた。

近づいてくる人は、
・ネットワークビジネス
・宗教勧誘
・霊感療法への誘導
・マスコミへ売る

友だちが「俺の会社で働けば」と言ってくれたら、役員会議で反対にあった。
俺が作った会社なのに自由にならなかった。

働いてもいいけど、働いていることをPRして良い?と言われた。
断った。

数回お茶したら、霊感療法への誘い。

2年ブロックされていた人から連絡が来て喫茶店で、出たら週刊誌の記者がいた。
そしてその夫婦に話したことが記事になっていた。

3年目に転機が訪れた
執行猶予4年持たないとの思い。
おふくろ自殺だったよな。
オレも同じように終わるのかと思ったけど、実行できなかった。
生きたかった。でもどうすれば良いかがわからなかった。
X(ツイッター)で自分のことを話そうと思った。
そうしたら一緒に啓発活動をしてくれませんか?
それが田中紀子さん。
断ったけど、熱心に誘ってくれた。
そして横浜のレストランでランチをした。
彼女は自分のことを全て話してくれた。
喫茶店を変えて、7時間話した。
今までの人とはなんか違う。
田中さんには胸のうちのことを話した。
「あんたが恥と思うことをプラスにしませんか?」
「あなたの精神的な不安を一つひとつ取り除きましょう」
講演をどんどん入れてくれた。芸能界の時とはケタが違うけど、生活の糧になった。
回復プログラムをやってみませんか。
回復12ステップをにも取り組む
一歩一歩やっていると取材が舞い込んできた。
当時回復プログラムをやっている著名人はいなかった。
またいろんな人に迷惑をかけるのではないかと思った。
田中さんは断固「取材は受けるべき」と。
誤解が出ないように田中さんは関わってくれた。
取材を受けていると、「今の方がよおい」「他の人を助けてあげてください」
勇気を持って話すと依存者家族から応援になっていると。
田中さんから「回復の過程を文章にしてみませんか」と言われた。

実は隠したい過去があった。
ばあちゃんに育てられた。
ばあちゃんから、「おじいちゃんが釣りに行ったとき、箱に入って流されてきた」と。
「捨てられる」「逃げられる」
良い子でいないといけないといけない。
おばさんが何度か来て、いつも何か買ってくれた。また来てくれないかと楽しみにしていた。
おばちゃんから「あのおばさん、あんたのお母さんよ。明日からは一緒に暮らすのよ」と。
夢のような生活ができると思ったら、毎晩お酒を飲んで帰って来た。それが嫌で家出をしたこともあった。
男性が迎えに来て、キャバレーに案内され、組長が父親だと言われた。
そこでも「いい子でいなければ」と過ごしていた。
田舎は高知で有名な親分だった。
中学から全寮制の学校、明徳義塾、母親から離れると思って。
17歳のとき、大会近づくと父兄が食事を振る舞ってくれる。
そのとき、俺のおふくろがいた。全然嬉しくなかった。
おふくろの持っていた高級なものがだんだん減って来た。
それからおふくろは何度も足を運ぶようになった。
段々、これが母と息子の会話かなと思うようになった。
母が僕に会いに来た。大学に入って欲しい。野球で。
野球では難しいと分かっていた。
「組を継ぐのだけはだめだ。やくざだけは絶対ダメ」と言った。
組の若い衆からちやほやされていた。
「就職して仕送りするから:と言った。
母が帰るとき「私きれいかな?」
その1時間後おふくろは自殺した。
実際の父親は別の人だった。その人もヤクザの親分だった。
子を親を変えられない。
信じていたばーちゃんも含めて真実を言ってくれなかった。
「女は信じない」 ぶっ壊れた。
大切な人たちの誰にも愛されない。
大切なものは金。
絶対に弱音を吐くものか。
それをツイッターで呟き出したら、大反響を生んだ。
特に自死孤児から共感が寄せられた。

しかし、そう簡単には変えられない。
高知さんの女性感は歪んでいると言われた。
男は仕事で成功することが正義だと思っていた。

田中さんから「母親の生年月日はわかりますか?」と尋ねられたが答えられなかった。
「徹子の部屋」に出た時、「41歳で交通事故で亡くなった」と言った。
母親は子どもを産んで、女を選んだと。
田中さんから、「お母さんのことをもっと調べませんか」と言われた。
「確かに生年月日も知らない」と思った。
偶然、母の同僚、親友に出逢えた。その女性が生きていた。
その女性に「母は最低の人だった」と言った。
その恨みをパワーに生かさないとやっていけなかった。
そのおばさんが「おかあさんに失礼だよ。あんたのお母さんは息子しか見てなかったよ。当時のシングルマザーは本当に大変だった。ジョージ(高知東生)のためなら何でもする」と。
再びあった時に驚いた。「母は博打にはまっていたからね」
おふくろは博打の借金返済のために自殺した。その保険が失効する2日前だった。
おふくろに捨てられたのではなく、おふくろは自分を守ろうとしてくれていた。
男は男らしく。
女は男が守るもの。
男は弱音を吐かないもの
との思い込みがあった。

あの時の選択はあの時がベストだったなと思うように思っていいる。
困った時は誰かに相談すれば良い。
そうすれば執筆依頼が来た。
『生き直す 私は一人ではない』『土竜』

ピンチのときはまず自分が変わろう 誰かに相談しよう
本当の味方を見分ける目を持とう。
偉大な見えない力を信じよう 今できることに最善を尽くす

これからも皆さんのお役に立てたらと思って邁進してまいります。


第二部
成瀬氏
 当事者の話があると、私の話を薄っぺらいなと。多くの人の回復で何が大切かを通訳して話している。高知さんの話を聴いて、普段の業務にどう生かすか。

質問;
 本人に依存症の意識が無い場合どうすれば良いか?

回答;
 本人が何に困っているか。そこに依存症云々は関係ない。本人が正直に話をしてもらえるか。かつこちらに準備が出来たら話してくれる。ほじくるような話の聞き方をすると語らない。
「どうですか? 何か困っているありますか」と言葉を投げかける。
「あなたは依存症だから、止めなさい」だけはやってはいけない。

質問;
 ハーム・リダクションは他に何か役立つか?

回答;
 問題行動の前に苦しいことがあり、問題が起きている。大きな問題にならないようにする。あなたの生きづらさをどうするかに仕えらのではなく。
 苦しさから生まれ得た症状。仕方がないと認めるが、治療側は止めた方が良いと頭に置いているが指示することはない。大麻は大きな症状はでないけど、逮捕が大きな問題。では逮捕されないようにするためにはどうするか。逮捕されると治療が中断する。
 ODが止まらないならこういう準備をしておく。本人が考え選択する。
その方が止める人が多いから言っている。

質問;
 不信感をぶつけられることもあるが、それでも信頼していくためにどうしているか?

回答;
 不信感をぶつけられのは当たり前。外来に来たらよくきましたねとする。当たり前に相手をを扱うと「あれ?ここは違うな」と感じる。最初の1時間が勝負。1:1で話を聴く。
 信頼関係を築くためにやっている。信頼関係ができると相手が話してくれる。
双方向の信頼関係があると、治療側が癒されることがある。
薬やテクニックなどの技術ではなく。
難しいケースもまだその時期に来ていないと。
チームとしてかかわる。治療が弱ってしまうのは良いかかわりでない。
来てくれたら良いと考える。

高知氏
質問;
 開始プログラムに取り組んでいた人が再発、自死になるとか。

回答;
結局は自分のために。支援する側はただただ待つこと。支援すると決めたなら、待つこと。その中で再発することもある。寄り添ってあげることを忘れないこと。一人にさせないこと。ぼくのチームは、薬物を止めることが目的でない。あなたらしく笑顔で生きることが目的。止めることより目の前のことをやる。捕まらないように努力している。悪い環境だとやり方を間違えている。間違えて教えられている。
「俺たちは努力家だよな。でも努力の矛先を間違えているよな」
そういうと泣いてくれる人がいる。伝わる人がいる。
僕は完治した人間でなく、死ぬまで完治努力をし続ける。絶対「一人で悩むな」
いろいろな情報を集める。アトピーみたい。いろいろやってもなかなかよくならない。でもやっていると突然良くなることがある。
 依存症は一人ひとり違う。必ずどこかで気づく。孤独さえしていなければ。「待とうよ」。苦しいのは本人だから。横に傍にいてあげるだけで違う。待つということが相手の笑顔につながる。

質問; 
 回復プログラム中で自殺があるとメンバーはどうダメージを受けとめるか。

 おふくろの自死の話をするたびに、涙が浮かぶ。でも「産んでくれてありがとうとの感謝も生まれる」。悲しい時遠慮なく泣いて良いのでは。

質問;
 母の自死は本を書く前と書いてからで変化ありますか?

回答;
 ギャンブル依存の自死遺族の集まりに呼ばれて話をした。だんだん楽になって来ていた。でも”自死“の言葉が看板があると、これまで起きなかった感情が出てきた。自分に向き合ってやってきたのに、ゲストなのに全く話せなかった。自分で解決していたと思ったけど。そうではなかった。
 大人は自死を知られたくないので、葬儀も簡単も終わった。
 ばあーちゃんの妹の成功していた人から、養子にならないかと言われた。しかし、母の戒名を亡くして永大供養するようにとの条件付きだった。つまり母を捨てるということ。嬉しかった。養子になろうと一時思ったが断わった。
 養子になると思った時、母を捨てた。それが苦しかった。そこで母の戒名がきちんとやろうと思った。その時電話がかかって来た。そいつが明徳義塾の後輩で、お寺の息子で。位牌はまた明徳義塾の後輩がやってくれた。
今その位牌に、「かあちゃんきれいだよ」と言っている。

質問;
 いつまたスリップしてしまうとの不安は怖くないですか?

回答;
 ぜんぜん怖くない。スリップしたらまたその時考えればよい。
自助グループの12ステップがあったこと、とても幸せで、とても楽である。
もっと早く出会いたかった。

成瀬氏
 正直、笑顔、信頼できる。人間関係のあるべき姿を示している。こんな人になれたらよいと思う。
 回復した人はマイナスがゼロになるのではなくプラスになっている。酒・薬物を止めることより人間関係の信頼関係を構築する。孤立すると人は病んでいく。
 子どもたちに共通しているのは、「居場所がない」、「信用できる大人がいない」こと。そういう子どもたちにどうしていくか。子どもが幸せにならない日本の社会は暗い。健康な人が一人ひとりがかかわっていくことが重要になる。

感想
 成瀬氏の講演は、依存症の人を病気とみて対応することがよく分かりました。
米国では「ハンディキャップ法」で本人が治療を受けていると、それがアルコールや薬物依存でも、「ハンディキャップ法」で守られていると聞いたことがあります。
 日本ではいまだに、「弱い人」「ダメな人」のイメージが強いです。
 依存する人は真面目な人が多いとの説明もありました。完璧にやろうと思うとできないけど、その思いが強く、それが大きなストレスになり、そのストレスを忘れるためにアルコールや薬物に依存してしまうようです。

 高知東生さんの壮絶な人生、必死で生きて来られたことがよく分かりました。
無理して頑張り過ぎていたことが大きなストレスになり、つい癒してくれる女性が薬物をやっていて、誘惑に負けてしまわれたようです。薬物をやっていない女性なら不倫だけで終わったかもしれません。
 誰と出逢うか、大きいですね。

 多くの人に聞いて欲しい内容でした。
今回は会場だけでなく、リモートにされ、多くの人に聞いていただく努力がなされていました。
 ぜひ、アーカイブで後日録画を期間限定でも見られるように是非していただきたいです。
その日の都合のよい人だけに聴いて欲しいのか、それとももっと多くの人に聴いて欲しいのか、厚生労働省の補助事業ですので、税金が使われています。税金を少しでも活用するためにぜひ考えていただきたいです。
 その瞬間瞬間で何を選択するか。その時に、「多くの人に聴いて欲しい。聴くことが予防にもなる」との強い思いがあれば、リモート、アーカイブは当然の選択肢だと思うのですが・・・。今回はリモートがあったので、一歩前進なのかもしれませんが・・・。
 このようにブログやHPで紹介しているのは、”ハチドリの一滴”かもしれませんが、少しでも多くの人に知っていただきたいからです。
 誰に出逢うか、何に出逢うとによって、大きく人生は変わることがあります。
哀しいかな、よくない出逢いもあります。
高知東生さんは、薬物やっていた女性との出逢い、薬物依存の啓発活動に誘ってくれた田中紀子さんとの出逢い、もちろん高知さんの選択があるのですが。
 このブログも一つの出逢いになると良いのですが。

 この本に、メンタルな病を治すのは人と人との繋がりだと書かれています。
稲村氏はいのちの電話の創成期メンバーのお一人です。
まさにそんなお話でもありました。
この本はぜひ読まれると良い本です。
良い先生は良いお弟子さんを育ちますね。
この本は、同じくいのちの電話の創成期メンバーのお一人の斎藤友紀雄氏に教えていただきました。

NHK「こころの時代」 第六回 人生のな中の出逢い ”妻エリーとの出逢いが、苦悩する人を愛する人に変えてくれた”

2024-09-15 07:42:07 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
家族に支えられながら40冊の本をだした。
それはロゴセラピー、生きる意味を問う心理療法です。
孫、フランクルはそれを実践していました。
いたずらしたら烈火のごとき怒っていたが、無邪気な子どもに怒っていることに気がつて態度が変わった。
空は人生の苦悩が人生から切り離せないことをよく言っていた。
『苦悩する人間』
苦悩する人は、もはや運命を外面的に変えることはできない。しかし、内面的に替えることを知っている。苦悩は成長です。苦悩は人間に見抜く力を与える。苦悩への勇気、それが必要です。
それをエリ―がフランクルに与えた。
エリーは戦後結婚した二人目の妻。
フランクルは愛によって生きる意味を考え続けた。

人間にとっての人生での出会いがどういう意味を持つのか。

二人目の妻、エリーとの出逢いが、どれだけ大きな意味を持っていたか。

もう一度会いたいと思っていた、母と妻が亡くなっていた。
再会することだけを目的にナチスの強制収容所で生きのびた。
絶望に追い込まれた。
自殺するかもしれないと心配する友だちが、ロゴセラピーの本を出すことを勧めた。
人生の達人でさえ、人生に意味を見出せなかった。
本を出すだけでは、空虚な穴があり、その穴を埋めてくれるものが見つからなかった。

故郷に戻ったフランクルを支えてくれたのは、友人たちだった。
仕事も見つけてくれた。
その職場で看護婦との出逢いがあった。
フランクルの精神科のベッドを使わせてくれないかと看護婦が言ってきた。
それが二人の出逢いだった。25歳ほどの年齢差があった。
エリ―は少女時代から行動的だった。

エリ―は自分を生かせる仕事、病院での仕事を見つけた。
エリーはキリスト教徒、フランクルはユダヤ教徒、

彼女はありのまま。フランクルは彼女に出逢ってあらたな道を見つけた。

「もっとも深く考える者は、もっとも生き生きとしたものを愛する」
フランクルは同情から自分に寄ってくるのを心配していた。
「同情からではなく、愛から」と書いたカードをエリーはフランクルに渡した。
強制所の辛い話をすると多くの人は逃げていtった。
しかし、エリーさんはずーっと聴いていた。
フランクルはエリーさんに「ロゴセラピーを広げていく仕事を手伝って欲しい」とお願いし、了承してくれた。講演旅行もずーっと一緒に、フランクルが死ぬまで一緒にいた。
二人はよく喧嘩していた。言い合いが激しかった。
お互いぶちまけて、そして仲よくしていた。

母は何でも「はい」という人ではなかった。
フランクルに「それでは伝わらない」とハッキリ言っていた。

『夜と霧』が出ると、講演や執筆を手伝った。
それにより、フランクルは外に向かった。
40冊、手紙は約11,000通。全てエリーがタイプした。

米国から名誉博士号を授与すると言われたとき、
「エリーだけがその名誉に値する。この私がよく知っている。
自分より、エリーにその価値がある」と言った。
エリーに名誉博士号が与えられた。

私(勝田)がロゴセラピーを学びだした1年前にフランクルは亡くなっていた。
ロゴセラピーを学んで3年後にエリーさんに会った。
「大変だったのよ」とざっくばらんに言う人だった。

フランクルは70歳以上でパイロットの免許を取った。
エリーも一緒に乗ったことがあるが、乗った時、墜落して一緒に死にたいと何度も思った。
フランクルが先に亡くなると分かっていたから。

フランクルは晩年目が見えなかった。エリーさんに読んでもらった。
孫が、「おばあちゃん大変だから、僕が読むよ」と言うと、フランクルは「おばあちゃんの声に慣れているからおばあちゃんに」と言った。

深夜に「死にたい」と電話がかかって来た。
フランクルはいろいろ死なないように言った。
その後手紙が来て、「私はフランクル先生との電話が終わって生きようと思った。フランクル先生が言ったことはほとんどわからなった。でも私のために一生懸命対応してくれたことが生きようと思った」と。

フランクルが強制収容所から戻ってきも、反ユダヤ主義は残っていた。
また同じユダヤ人仲間から「カソリックの女性と結婚した」ことを問題にする人もいた。
またフランクルが元ナチスの人と交流したことを非難する人もいた。
フランクルはその人が反省していると。

フランクルのブレのない人生。
彼自身が悩みぬいた人生を過ごしたことが大きな役割を担っている。

あるユダヤ人の人が、「イスラエルがカザの人々を攻撃しているのが苦しくて苦しくて辛い」と。そして今『夜と霧』を読んでいると言ってきた。(小野)

何に苦悩しているかではなく、どういう風に苦悩しているかが大切だと。
苦悩はとても大切なもの。苦悩は成長するために必要なもの。
苦悩の中にいる人はそれが分からない。
フランクルさえ苦悩に苦しんだ。
暗闇の中でも、光を見る気持ちが必要である。

チェスでその局面で必死に手を考える、でもまたする次の局面が来る。
苦悩も尽きないが、愛も尽きない。
人生に対するYES、それは人生への愛の形。

フランクルが大切にした出逢いが新たな出逢いを生んだ。
エリザベル・ルーカス先生、勝田さんの先生。
ルーカス先生は勝田先生を初め多くの弟子を育てた。
「学生の時にフランクルに出合えたのが大きい。ロゴセラピーは苦悩の対処だけでなく、予防にも大きな効果を果たせることができる」
「人間とは常に決定するものだ。人は状況だけに左右されるものではない。小さくても選択ができるのだ。平和が身近なところからもできる。ロゴセラピーは『平和』に繋がる考え方が多く含まれている。耐える人こそ英雄なのです。敵を理解しようとして妥協点を見いだそうとする。誰が戦争を辞めさせる勇気を持つ。人間は周りの世界に影響を与える。一人が平和にやれることがある」
ルーカス先生はフランクルの考えを正確に伝えることをしてきた。
私(勝田)は家庭で上手く行って行かなかった。そのことを相談した。
パートナーから別れたいと言われ、それをルーカス先生に言ったら「良かったじゃない」と言われた。
確かに別れがなかったら私はロゴセラピーを日本に伝えることはなかった。

ロゴセラピーをずーっと聴いていると、「予防」という考えが腑に落ちた(小野)。

自分が知り合った人をどう助けられるか。
それを見た人が自分も何かができるのではないかと考える。
小さな平和の連鎖が広がっていく。
平和というと、自分はできるだろうかと足が竦むが、もっと身近なところからできる。
ロゴセラピーを教育の場でどう生かしていくかが今の私たちに問われている。
相手を傷つけないでどう対応するか。

ルーカス先生に出逢たことはラッキーだったと思う。
ロゴセラピーは遠いものでも難しいものでもない。
生きているからこそ苦しみに出合う。自分がどうそれに気づくか。ロゴセラピーが大きなヒントを与えてくれると思った(小野)。

ハラルドさん、フランクルの晩年の助手を務めた。
フランクルは片目が完全に見えなくなったが、エネルギッシュだった。
何度も死にかけた。でも何があっても文句を言わなかった。

手術室に入る前に、フランクルはエリーに言った。「あなたに本をプレゼントしている」
手術の後フランクルの意識はもどらず、3日後92歳の生涯を終えた。
エリーは書斎を片づけていたとき本『苦悩する人』にフランクが書いた文字が。
「エリーへ あなたは苦悩する人間を愛する人間に変えてくれました。フランクル」
目が見えないフランクがエリーに書いた言葉が挟まれていた。






感想
  ルーカス先生は時々プールに行かれているそうです。
あるとき、大きな男性が激しく泳いでいた。水しぶきがこちらにかかって来た。
2回目も水しぶきがかかって来た。
3回目の時に、「泳ぎがお上手なんですね」と言った。
そうすると男性はその後の泳ぎは静かになり、水しぶきはかかって来なくなったそうです。
 このとき、「もっと静かに泳いで欲しい」というと、相手の男性は怒ってきたかもしれない。そうすると監視員に伝え、監視員がその男性に注意すると、男性は怒るかもしれない。

 この話は考えさせられました。
どう問題を解決するかには方法があるということなのでしょう。

 六回目は「出逢い」でした。
誰に何に出逢うかは大きいです。
そしてその出逢いをどう生かすか。
臨済宗の言葉に「有縁を度すべし」があります。
まさにその縁をどう生かすかが自分の人生なのかもしれません。