英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

横綱・北の湖を想う

2015-12-22 16:44:10 | スポーツ
 「北の湖理事長死去に思う」という記事を書いてから、3週間以上が過ぎてしまった。
 書きたい記事がたくさんあるが、思考力や文章力が伴わず、忙しさもあり、書けないままでいる記事が多々ある。
 この記事の他に、“その2”までで頓挫している「王座戦第5局」、「出前の方が手間も費用も掛かるのに(軽減税率)」、「冬ドラマ雑感」などがあるが、書こうと思ったことを忘れ去っている事象も多数あるはず。紹介したい詰将棋もたくさんあるなあ。

 北の湖と言えば「憎らしいほど強い」という修飾語を即座に連想してしまう程、強かった。
 現に、氏の死去を伝えるニュースのほとんどにこの言葉が使用されたように思う。
 大鵬…盤石な強さ、千代の富士…鬼神のような強さ、貴乃花…柔剛併せ持つ強さ、朝青龍…疾風怒濤の強さ、白鵬…万能の強さなど、強さの修飾語が思い浮かぶが、「憎らしいほど強い」という言葉がぴったりするのは北の湖である。(朝青龍にもその要素があった)
 勝ちを決めた後、背中や尻を付いた相手に手を差し伸べるのはもちろん、一瞥さえしない。踵を返し颯爽とややふんぞり返って勝ち名乗りの位置まで戻る仕草がそう感じさせる一因であろう。
 ふんぞり返ったように見えるのは、北の湖の体型によるものだと思う。それに、「相手を労わる(同情する)のは失礼だ」という信条もあったと聞く。
 そして何より、輪島、貴ノ花(貴乃花の父)、若乃花(若三杉)らの人気力士を払いのけて優勝してしまう敵役であった。人気はあまりなかったし、「憎らしい強さ」と称されてはいたが、ファンすべてが認める横綱の強さで、北の湖がいたからこそ、大相撲が盛り上がったのだ。

 北の湖と言えば、輪島。
 北の湖対輪島は盛り上がった。
 「天才」「黄金の左」の輪島。昇竜の如く横綱まで駆け上がった男。ライバル貴ノ花との強靭な引き付け合いは見ごたえあったが、それはまた別の話。
 貴ノ花が軽量の弱点を克服しきれなかったので、“貴輪(きりん)時代”は確立されなかったが、北の湖が台頭し“輪湖(りんこ)時代”に移行した。
 北の湖の横綱昇進までは、輪島が10勝3敗と8場所先輩横綱の貫禄を見せた。
 北の湖が横綱昇進後の約3年間(19場所)は輪島の9勝7敗(輪島3場所連続休場あり)と拮抗(1977年11月場所まで、通算では輪島の19勝10敗)。この19場所中、輪島5回、北の湖7回と二人でほぼ3分の2を優勝している。特に1976年、77年の2年間は輪島、北の湖ともに優勝5回と、まさに“輪湖時代”であったと言える(ここまでの通算の優勝回数は、輪島12回、北の湖9回)。
 1978年は北の湖が1月場所から5場所連続、賜杯を手にし、休場2回の輪島は優勝はなく、通算優勝回数も輪島12回、北の湖14回と逆転した。ふたりの対戦も輪島1勝、北の湖3勝と力関係の逆転を思わせた。(通算では輪島の20勝13敗)
 1979年も北の湖が4勝2敗とリード(通算輪島の22勝17敗)。優勝も北の湖3回、輪島1回であった。ただ、1978年の11月場所から1979年7月場所までを区切ると、輪島から見て○●●○○とリードし、7月場所では13度目の優勝を果たし、意地を見せている。
 1980年から翌年1月場所までは(1980年1月場所と7月場所は輪島休場)、北の湖が4勝1敗、優勝も北の湖が3回、輪島1回。
 ただ、輪島は11月場所では北の湖に勝利し、14勝1敗で14回目の賜杯を手にしている。(その2場所後引退)

 1978年以降は北の湖が11勝4敗と圧倒した期間のイメージが残っており、初期のころの貯金が利いていたとはいえ、通算では輪島が23勝21敗と勝ち越していたのは意外だった(北の湖死去の時、確認)。
 「北の湖対輪島戦」後期は、パターンが決まっていた。
 がっぷり四つから、輪島が右からおっつけながら寄り身を見せる。北の湖は腰を落とし堪え、回り込んで凌ぐ。このやり取りを3、4回繰り返していくうち、輪島の息が上がってくる。そして、満を持した北の湖が寄り立て、輪島が堪えきれず土俵を割る。
 二人の力関係が逆転したのは、輪島の衰えと北の湖の充実によるところが大きいが、北の湖が輪島の取り口を読みきっていたことも一因であろう。
 どこかで見た(聞いた)が、………最初の頃、「黄金の左」という謳い文句にとらわれ過ぎていた。ところが、輪島の真の強さは、「黄金の左」ではなく、「強烈な右のおっつけ」にあると気づいたのだという。それから、輪島の右に注意を払うようになり、勝てるようになった………


 実は、この記事で書きたかったことは、「輪湖時代(対決)」ではなく、「北の湖対旭国」である。
 大関・旭国……小兵の上、膵臓炎に苦しみながらも大関昇進を果たす。確かな技と、鍛え上げた自分の相撲の型を持っており、小兵ながらも正攻法の取り口で、好きな力士だった。(奇襲に近い技“とったり”も得意だったが)
 取りこぼしが少なく、序盤は7勝1敗ぐらいで優勝争いに加わるが、終盤戦の横綱大関戦で勝ち星を上げられず、10勝5敗や9勝6敗で終わることが多かった。
 それでも、1977年9月場所、14勝1敗の好成績を上げる。しかし、優勝は出来なかった。優勝したのは北の湖、15戦全勝だった。旭国の1敗は当然、北の湖によるもの。
 北の湖との対戦成績は7勝22敗。この成績だと、善戦しているようにも見えるが、旭国は大関昇進後、1勝しか上げられていない。

 そんな旭国ではあるが、大関時代かそれ以前かは覚えていないが、強烈に覚えている一番がある。
 旭国が北の湖に食いつき長時間粘って勝利した一番だ。旭国が北の湖のアゴの下(咽喉付近)に頭をつけ、何度も寄り身を見せ、北の湖が堪え、更に腕力で旭国の身体を振る。
 旭国の身体も起きかけるが、足の裏に根が生えたように踏ん張り、さらに深く頭をつける。この様子を実況アナウンサーが
「旭国がコバンザメになった!」
と表現。
 旭国のしつこい寄りに、ついに北の湖が根負けして、土俵を割ったときは、割れんばかりの歓声、飛び交う座布団の嵐……


 懐古に浸り過ぎるのは良くないが、≪ああ、あの頃の大相撲は、面白かったなあ≫としみじみしてしまった。
 
 
コメント
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